音楽コラム「Classicのススメ」


2009年09月/第72回 音が消えた瞬間に

 新国立劇場オペラ芸術監督の若杉弘さんが7月21日に亡くなられた。

 新国立劇場では昨年6月の「ペレアスとメリザンド」を日程が合わずに聴けなかったので、5月の「軍人たち」と2月の「黒船」が、若杉さんの指揮に接した最後になった。
 前者は日本初演、後者も序景(ヴィジブル・オーバーチュア)が舞台版では初上演と、若いときから「初演魔」の異名をとった若杉さんならではの選曲であり、それを本格的な上演で見せてくれた。
 特に「黒船」の意義ははかり知れない。オペラとは本来多弁な芸術のはずなのに、山田耕筰がそこに「いわぬが花」の日本的美学を持ち込もうとしたことを、オーケストラのみの黙劇で演奏するヴィジブル・オーバーチュアを象徴として、この上演で私は初めて知ることができた。これを第一歩として、日本オペラの秘められた魅力が明らかにされていく可能性が、ご逝去によって閉じられたのは、残念でならない。
 若杉さんの指揮を初めてナマで聴いたのは、1980年10月11日、上野の東京文化会館での、東京都交響楽団とのマーラーの「復活」交響曲だった。高校生にとっては強烈な音体験で、壮大な最後の音響はもとよりだが、それよりも第1楽章クライマックスでの、鮮やかな2発のルフトパウゼが凄かった。足元が一瞬に消え、文化会館の最上階から虚空に放りだされたかのような驚きは、29年後の今でも、ありありと憶えている。

 ――音楽は、音が消えた瞬間がいちばん恐ろしく、美しい。
 そう教えてくれたこの思い出とともに、若杉さんの指揮姿はいまも目の中にある。
 若杉さん、ありがとうございました。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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