音楽コラム「Jazzのススメ」


2005年07月②/第14回 チェット・ベイカーの「サマータイム」

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えー、諸君、元気かね。
いま、たまたま、手元にあるマイルス・デイビスの『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』、このライナーノートを読んでいたんだよ。
書いているのはジョージ・アバキャンという有名なプロデューサーだ。
「つまりマイルスは受け手の感情を利用したような、どこか不安を感じさせるお決まりのサウンドを作り出そうとしているのではなく、むしろ彼がインプロビゼイションによって起こってくる内なる緊張に対する応えを求めようとしているのである。表向きはリラックスしたようにも思えるこの矛盾をはらんだ緊張は、もともとレスター・ヤングによって高められた形式の賜物で、マイルスはトランペットでそれを新たに極めようとしている」
てなものなのよ。まあ私もあざとい人間だから、わざと七面倒くさいところを引用した。

それにしてもだよ。これはないだろう。
私はジャズを聴き始めて約50年、もうこの頃ではジャズの臓物部分の匂いまでも嗅げるようになった。
するとこんな文章など「しゃらくせー」と一声吠えてすぐに放り出せるのである。

しかし50年前にはそうではなかった。インプロビゼイションなどというお言葉が出てくるともうそれだけでハハァーと平伏していたのだ。
そして、レコードを聴いて一生懸命「内なる緊張に対する反応」を聴き取ろうとしたのである。
聞くも涙、語るも涙の物語とはこういうのを言う。

さて、何が言いたいか。
ジャズはある種ハイグレードの音楽だから、この種の「お勉強」をしても悪くない。「お勉強聴き」をして一向に構わない。どうぞおやりなさい。
でも、人に強制してはいけないよ。
これがジャズの正しい聴き方だ、などホザくなよ。
そしたら私、怒るよ。本気で。

まあ、今だから怒れるけど、繰返すが、約50年もの間、「正しい聴き方」の中で右往左往、アップアップしてきたのが私のジャズ人生なのだから、今こそ、そこから脱け出て思う存分私の聴き方で楽しもうと思うわけである。
苦しみを思い出すから、もう私はマイルスを聴かない。

代わりにチェット・ベイカーを聴く。
チェット・ベイカーは、いわば、B級品である。マイルスはジャズ史上超A級品である。
私はB級だからこそ、チェット・ベイカーを聴く。世の中になんとA級だけでジャズを聴いた気になってジャズから離れてゆく人の多いことよ。B級、C級の中にこそ面白いものが一杯あるのに。
チェット・ベイカーの「サマー・タイム」。数ある「サマータイム」の中で私はこのくらい愛する「サマータイム」はない。
トランペットのイントロが出てきただけで既に酔ってしまう。このイントロはメロディックという意味で「もう一つのサマータイム」だ。
この短いイントロの中にチェット・ベイカーの考える「サマータイム」がすっかり入っている。これだけで終わってもいいくらいなものである。
イントロが終わると当然ジョージ・ガーシュウィンの「サマータイム」が出てくるが、全然ワン・フレーズも崩してないのに作曲家の作りを感じさせない。言ってみれば、チェット・ベイカーの瞬間アドリブのようにも聞こえてくる。
本当のアドリブに入ってもアドリブがアドリブ、アドリブしていない。曲のように聞こえてくる。そこが凄いところである。

大抵のジャズ演奏というのはスタンダードの作曲家が作曲した主題の部分とプレイヤーが行うアドリブ部分とは物の見事にきれいに分かれている。それが悪いとは言わないが、普通はハイ、ここからがアドリブですよ、と提示されているわけである。
ところがチェットの「サマータイム」はそこが判然としない。

いや、この際、アドリブなどという言葉を遣うのはよそう。いわんやインプロビゼイションなどとんでもない。くそくらえ、だ。
全編、チェット・ベイカーの麗しき節、である。

ジャズに関するすべての技術用語などどうでもよくなってしまう、心からのチェット・ベイカーの麗しき旋律、を聴いて下さい。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ