コラム「ミュージックバードってオーディオだ!」
<雑誌に書かせてもらえない、ここだけのオーディオ・トピックス>
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第116回/やばいカートリッジ、ベンツ・マイクロ/SLR Gullwing [鈴木裕]
ベンツ・マイクロのSLR Gullwingを買ってしまった。まさか自分がこの値段のカートリッジを使うことになるとは。以下、そのいきさつなどを。 |
アナログプレーヤー全景。 現在の状態。ターンテーブルシートの一番上は、オヤイデのMJ12。これには4種類のバージョンがあり、これはⅠ型の後期型。ちなみに以前の赤いのは、Ⅰ型の前期型のスペシャルバージョン。 プラッターとターンテーブルシート。 左上が純正のプラッターでアルミ製に布のシートが接着してある。その上に砲金の3mm厚のものを載せ、次にオヤイデのブチルゴムのBR-ONE、そしてカーボンの0.5mm厚が来て、レコード盤面と接するのがMJ12。 |
ベンツマイクロSLR Gullwing。クルマ好きの人からすると、300Lとか、SLS AMGとかSLRマクラーレンを連想させる名前。オフィッシャルには一切関係ないことになっている。 |
ベンツ・マイクロはスイスのメーカーで創設者はエルンスト・ベンツ。念のため、ドイツのクルマメーカーのメルセデス・ベンツとは関係ない。エルンスト亡き後は、アルベルト・ルカシェクが代表になっている。MC用フォノイコライザー、PP1/T1を開発した人だ。つまりもともとは社員で、技術者の一人ということになる。ベンツ・マイクロというと基本は情報量の多い現代的な音で、昔、ルビー(というカートリッジ。その一番新しい型が後述するRUBY Z)を聴いて感激した覚えもある。個人的には低域のいいメーカーというイメージがあった。 ベンツ・マイクロの中でも最初はWOOD SL(20万円)か、そのプライアーウッドのケースを取り外したようなGLIDER SL(16万5千円)にしようかと考えていた。そして、その上級グレードのものがRUBY Z(42万円)で、そのゼブラウッドのケースを取り外したような存在が購入したSLR Gullwing(36万円)だ。そもそもGLIDER SLやSLR Gullwingがケースを持たない構造だったのも大きく惹かれた理由だ。 |
カートリッジとしては巨大な磁石を持つSLR Gullwingに、ふたつの理由で惹かれた。そのネオジの登載位置からして低重心な点が1番目の理由。2番目は無駄に磁石がデカイというのが個人的に大好きだから。いや失礼、無駄じゃないとは思うが。 1番目の理由について短くまとめると、1点支持方式のトーンアームには低重心のカートリッジの方が音がいい、というのがいろいろとやった結論のひとつだ。イメージとしてはスタイラスが音ミゾの左右の壁に沿って反応良く追従している時には、カートリッジ自体(もちろんトーンアーム)も左右へミクロ単位で振られているはずだが、低重心の方が直立への復元が速いからと考えた。 |
一点支持方式のトーンアームにとっての低重心のカートリッジ。一点支持方式では、左右(アジマス)方向にカートリッジ自体が動く。それはごくごくわずかだが、その時の角速度は低重心のものの方が速い
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デノンDL-103FLを装着したところ。いろいろやった結果、ボルトは長めのチタンで、真鍮製のナットを2個使いすることになった。ダブルナットによるゆるみ止めではなく、重心位置を下げるため。 |
その結論に至った経緯を具体的に書くと、デノンのDL-103FLを使って、そのヘッドシェルと締結するボルトについていろいろ試したことによって導かれた。ボルトは、デノン付属のアルミ製、クズマ付属のステンレス製、山本音響の真鍮製とチタン製を試していって、音の密度が高く、低音がいいチタン製ボルトに落ち着いた。ナットは山本音響の真鍮のものを使っている(出来れば、チタン製のナットも出してほしい)。 |
その2の磁石のデカイのが好きという話は、90年代に遡る。イスラエルのスピーカーユニットメーカー、モレルというのがあって、そのカーオーディオ用のユニットがマクロムだった(現在のマクロムとは別会社)。その超弩級のツイーターがマクロム57.16だ。重量1.2kgだが、そのほとんどはフェライト磁石で、こんなに磁気回路の磁石は大きいのにボイスコイルの深さは3mmくらいしかない。無駄の塊のような構造だが音は実に魅力的で、エネルギッシュで生々しい音。ディナウディオの超弩級ツイーターのESOTAR T330Dと人気を二分していたものだ。 |
過剰な磁石のマクロム57.16。下の円筒の内部はほぼすべてフェライトのマグネットだったツイーター。
これの音が良かった。ちなみにフランジは後のモレル/スープリーモのものが装着されている。
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ま、そんなことはいい。注意すればいいのだし、折ったら泣けばいい。そんなことよりも問題は音がやばいことだ。時間が許す限りアナログレコードを聴いていたいと思わせる魔性がある。あれも聴き直したい、これも鳴らしたい。優れたオーディオ製品は少なからずその属性を持っているが、こんなに何百回も聴いているレコードから新しい音を聴かせてもらえるのも珍しい。音もそうなのだが、そもそも細いスタイラスでラインコンタクト針なので、音ミゾと接触している位置や面積が違うらしく、針先にこれまで経験したことのないような微粒子のカスが溜まるのも興味津々である。レコードの音ミゾからすると、今までトレースされていない部位を触られている感覚なんだと思う。
今までもハイフェッツのヴァイオリンは凄いと思ってきたが、まさに天馬空を駆けるが如き高音で、これほどのトランジェントと切れ込みと倍音がこのレコードに入っていたかと愕然とする。中学2年生の時から聴いているブーレーズ/クリーブランドの『春の祭典』(1969年録音)も、あらためてそういうことだったかと納得することしきり。パートごとの音が分離して前後に見えてくるし、そのひとつひとつの演奏者の生気がこれほど感じられてしまうのも凄い。よく聴く井上陽水の『東京ワシントンクラブ』のライブ盤でも、音が小さくまとまらず、騒然という言葉を使いたいほどのエネルギーが迸り、ドラムとベースの根性の入った音がグイグイ炸裂する。元の音がツマラなくてもいい音で聴かせようというカートリッジじゃないが、ミュージシャンがいいとそれが生々しく表現されてしまう感覚がある。
DL-103FLからSLR Gullwingに換えただけなので、トーン的にちょっといじりたい部分も感じてはいるが、そんなことよりももっとレコードを聴いていたい。しかし欲望の赴くままに聴き続けていると仕事がおざなりになるのは必定である。魔性の女にやつれていく男のように、理性的社会的な何かが溶解していく。そういう意味でもやばいカートリッジであり、アナログプレーヤーなのだ。
(2016年4月28日更新) 第115回に戻る 第117回に進む
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