コラム「ミュージックバードってオーディオだ!」
<雑誌に書かせてもらえない、ここだけのオーディオ・トピックス>
ミュージックバード出演中の3名のオーディオ評論家が綴るオーディオ的視点コラム! バックナンバー
第161回/オーディオの音と生の音 [鈴木裕]
音楽評論家の山崎浩太郎さんとは『レコード芸術』の企画で対談させてもらったことがあり、ミュージックバードのスタジオの廊下でも時折すれ違った時には挨拶をするし、フェイスブックでも友達になっている。その投稿については、自分はなるべくほっこりするような日々の機微みたいな(悪く言うと、どうでもいい)ネタを書くようにしているのだけど、山崎さんのは仕事に直接的に関連しつつの深い内容のものもあって、さすがだなぁと思って読んでいる。 7月17日の投稿が面白かった。 | ![]() インバル指揮東京都交響楽団 |
![]() 『大地の歌』とベルクのヴァイオリンコンチェルトのスコア |
以下、山崎さんの文章。 「やっぱりこの曲(『大地の歌』)面白い。これくらい、実演とディスクの印象が違う曲というのも珍しい。理由は、実演だと独唱、特にテノールがさっぱり聞こえないから。ディスクだと音量バランスを思いっきり調整して何とかしてあるわけですが、実演だとマイクでも使わないかぎり、どうにもならない。」 「やっぱりマーラーは、管弦楽版ではわざと声をかき消していると思う。マーラーが生前に演奏できず、実際のバランスを聴けなかったからこうなったともよくいわれるけれど、熟練のオペラ指揮者としてワーグナーの楽劇の響きに精通し、何よりも交響曲第8番、その第2部のような音楽を自ら書ける人が、音を出すまで見当もつかなかったなんてことが、あるだろうか。わざわざオーケストラが歌のパートと同じような音を出し続けるようにしてあるのだ。 それが変わるのは、終楽章〈告別〉の後半、長い間奏が終って、男が友に別れを告げるところから。ここで初めてオーケストラは、人間の声に、歌に耳を傾ける。音量が小さくなるというような単純な変化ではなく、人の言葉をきちんと聴いてから、あるいはその終り近くに反応しだして、感情を補うように音を出すようになる。 それまで、「生は暗く死もまた暗い」などと独善的に放言して酒をあおったり、秋の寂しさを嘆いて癒しを求めたり、友人とペラペラおしゃべりをしたり、恋愛ごっこを楽しんだり、春にやけ酒を飲んだりと、厭世的な文句をたれつつも人間が人生をそれなりに楽しんでいる間は、けっして耳を貸すことなく、否定するのでもなく、「誰もお前と同じで、お前なんかちっとも特別の存在じゃないよ」と見せつけるように、オーケストラは一個人の歌と言葉を埋没させ、相対化させていた。 それが、世を捨てることにした瞬間、「初めからそうすりゃいいんだよ」とばかりに、反応してくれるようになる。この皮肉。現世では完膚無きまでに相対化される個人。その存在が消えて、大地と自然が永遠に残る。 こうして言葉が失われて、第9番と第10番のあの世界がやってくる。」 |
以上、山崎さんのフェイスブックの投稿から(言葉はそのまま。改行をいくつか省略)。現在は、残された手紙やさまざまな証言から作曲家の真意とか、どういう状況でその作品が書かれ、どう演奏すべきかといった研究がずいぶん進んでいるけれど、山崎さんのは音楽そのもの、演奏されているものを録音でも生演奏でもたくさん聴いている中からモノを言っていて、『大地の歌』という交響曲の設計図の根っこというか、大本の成り立ちが見えてくるような内容だ。痛快に面白かった。
しかしこれ、オーディオ的に考えてみると大問題である。録音であれば、終楽章の前まででも、ソプラノもテノールも朗々と歌ってそれが良く聴こえるのが一般的だ。しかし山崎さんの見立てが正しいならば(もちろん、正しいと思ってこの文章を書き始めている)草葉の陰からこっそり、あるいはじっとりとこちらを見ているマーラーとしては「おいおい、そういう録音は違うんだけどなぁ。」と指摘しないと気がすまないだろう。「人がせっかく歌を打ち消すように、飲み込むように5楽章までのオーケストラを書いているのに、そういう録音にしちゃあ台無しじゃないか、きみ」的なことをきっとカリカリしながら言っているのだ。
でも、もし録音としてテノールやソプラノがオーケストラに飲み込まれているとしたら、『レコード芸術』の録音評的な評価としては芳しくない。そういう歌を飲み込む方向での録音の具体例を知らなくて申し訳ないが、意図的にそうしたバランスにしてあったとしたら聴いていてフラストレーションは溜まるかれしれない。
たとえばアルバン・ベルクの『ヴァイオンリ・コンチェルト』だと、さすがに「ある天使の思い出に」と献辞されているだけあって、2楽章は病魔と戦って天に召されていくというプロットがわかっているわけだから、オーケストラにソロヴァイオリンが飲みこまれていっても肯定できるし、その絶妙なバランスがあれば優秀録音になるとは思う。
いやでもこれ、鳴かぬなら泣かせてみようホトトギス、みたいなオーディオマニアとしてはなんとか分解能の高い音で、ソロヴァイオリンの演奏の細部を聴いてやろう、という話にはなる。それが現在の録音、現在のオーディオでは可能だ。というのも図式的に言うならば、オーケストラが10の音量で鳴っている時に、歌手が6の音量で歌っていたらその歌は聴きにくい。このバランスをテープにたとえるならば、オーケストラが10センチの長さのテープ、歌が6センチの長さのテープとすると、この2本をまとめて1本にしたら6センチのテープは埋もれて見えなくなる。しかし、10センチの横にちょっと間を空けて6センチのテープを置いてみれば、それは両方ともに認識することができる。分解能が高いというのはつまりそういうことで、分解能の低いオーディオではひとつの音に聴こえていたものが、現代のハイファイのオーディオシステムでは2つに、あるいは3つに分かれて見えてくるので音量バランスが小さくとも”聴く”ことができてしまうのだ。
しかしここでまた、マーラーやらベルクからはクレームである。「人がせっかくオーケストラの各楽器の音色や音域、ハーモニーを考えに考えて、うまく溶け合うようにオーケストレーションしているのに、それをまた分けて聴こうっちゅう了見はいかがなものか」である。ただし分けて見える、分けて聴こえるからと言って、ハーモニー感自体、溶け合った音色感が失われてしまうわけではない。この要素も実はオーディオシステムによって合わさった音が良く聴こえてくるものと、そうじゃないものがあるのだが、分解していても、溶け合う成分が聞こえないわけではない。
どちらが本来の音楽なんだろうかとは考える。音楽もオーディオも好きな自分としてはどちらの言い分もわかって、これが正解というのもなかなか言いづらい。
![]() マジコ M3 | ただ、こうも考える。 作曲者の頭の中で鳴っていた音って、実はそういう分解能の高い状態のものではなかったかと。少なくとも、マーラーやリヒャルト・シュトラウスのようにバリバリの売れっ子指揮者でもあった作曲家であれば、指揮台に立っている状態での聴こえ方として、各楽器、各パートが溶け合う以前のそれぞれ鳴っている状態と、溶け合ってハモって鳴り合って、ウネリのようになった状態の両方をイメージできていたのではないか。そういう、彼ら天才のみが頭の中で見えていたもの、聴こえていたものを、現代のいい録音を分解能の高いオーディオで聴くことによって自分のような平凡な人間でも体験することができるようになったのではないかと。コンサートホールで生演奏を聴いている限りけっして体験することができない、そういう世界に到達してしまうのもまた真実なのだ。前回のコラムでのマジコM3による再生音にはそうした人類が初めて聴くような世界が見えてきた。
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そういう意味で、山崎さんの言葉を借りて言えば「お前なんかちっとも特別の存在じゃないよ」とオーケストラに歌を埋没させようとしたマーラーの狙いは、現代ではよくも悪くも裏切られてしまうのだろう。個人がインターネットによって世界中の同じ感性を持つ仲間どうしと繋がり合うこの時代では、その”言葉たち”は肯定され、小さい音量でも埋没しない。そういった意味では、マーラーは実はもう古いのかもしれない。って、前世紀の遺物(『大地の歌』の完成は1908年)にイチャモンつけても始まらないのだけれど。マーラーは大好きなだけにここでもまた雑念だらけになる。 話が大きく広がりすぎ、ボロが出そうなのでその前にコラムを終えたいが、そういう様々なことを考えさせられて、愉しくなってくる山崎浩太郎さんの文章だった。 | ![]() 山崎浩太郎さん |