コラム「ミュージックバードってオーディオだ!」

<雑誌に書かせてもらえない、ここだけのオーディオ・トピックス>

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第230回/塚谷水無子の、トイピアノによるバッハ[鈴木裕]

 塚谷水無子の最新作はバッハ《ゴルトベルク変奏曲》だ。既に、パイプオルガン、ポジティフオルガン、ブゾーニ版によるベーゼンドルファーのピアノを使っての、という3種の録音があるが今回はトイピアノ版。これが強烈におもしろい。
 みなさん指摘しているように、バッハの音楽はオリジナル指定の楽器以外で演奏しても、あるいはかなりの編曲を伴っても、煮ても焼いてもバッハであり続ける。映画『ターミネーター2』のラストのシーンのように、バッハの音楽を溶鉱炉の中に沈めていってさえ、フレーズそれぞれが“アイル・ビー・バック”と呟いて溶けていきながら、結局やっぱりバッハとして復活してしまうようなところさえある(と、唐突な譬えのようで、実はこの文章の後半への伏線でもあり、あとバッハとトランペットのバック=Bachを引っかけている)。

「塚谷水無子《ゴルトベルク変奏曲》」
キャッチンコピーは”たかがトイピアノ、されどトイピアノ、だからトイピアノ。
デジタルトイの登場で消えつつある美しきトイピアノの世界!”


 しかし、いくらなんでもゴルトベルクである。トイピアノだけで1時間近い音楽として飽きないで聴けるものにできるだろうか、とは少なからず考えるだろう。そこにヒントがあった。今回の収録ではさまざまな時代や国の、さまざまなトイピアノ60台以上が使われている。しかも多重録音ではない。それぞれの変奏ごとにそれ用のトイピアノをセットして、しかもけっこう変則的な弾き方も交えつつ演奏している。変奏ごとにトイピアノの組合せを変えなければいけないが、逆に言えばひとつの変奏だったら生演奏できるのだ(これは是非、動画を見てほしい)。

「ライナーノーツの一部」
ライナーノーツの中には、各変奏をどんなトイピアノのセットで行なったかの写真がある。収録は山梨県小淵沢のフィリアミュージアムにて。


 使っているトイピアノについて、塚谷水無子自身はこんな風に書いている。ライナーノーツから引用させてもらおう。
 「カワイはピッチも安定していて調律も狂いにくい、優等生。(中略)重音も和音も思いのまま。」「シェーンハット、ミシェルソンヌは鐘の音色。ジェイマーはずっしり重たくて筐体鳴りがする!鍵盤の戻りが遅く無骨さもあるが、カワイのトイピアノが不得意なカノンや対位法は、ジェイマーがあれば無敵だ。デザインがお洒落なヴィラックは腕白だ。イノウエはじめ一連の日本のトイピアノはちびっこが指1本でポンポン鳴らして遊ぶタイプに特化されている。」
 そして、「ゴルトベルクのそれぞれの変奏の個性に合わせて、音色つまり使用楽器を(オルガン演奏でレジストレーションを選ぶがごとく)セレクトして、原曲世界に出来るだけ忠実に演奏」したという。ちなみのカッコの中、つまり「オルガン演奏でレジストレーションを選ぶがごとく」というのももちろん塚谷水無子自身の言葉で、さすがハイプオルガンという主戦場で戦っている人の発想と技術があってのトイピアノ版。

 さて、その演奏自体、そして録音物としてどんな魅力を持っているのか。たとえば冒頭の「アリア」とラスト(トラック32)の「アリア・ダ・カーポ」は楽器編成を変えている。冒頭では、楽器の音として鐘のような感じがあり、余韻も長い。トイピアノにしては低域も良く鳴っている。有楽町のどっかのビルの正面の大きな時計がパカっと開いて、人形が音階に並んだ鐘を叩いているようなイメージ。カラフルで開放的な始まりの音楽だ。それに対してアリア・ダ・カーポでは音域の感じは高めで、音の厚みも薄め。トイピアノらしいと言えばトイピアノらしい、何かひとつのものが終わっていくようなせつなさがある。テンポもポップスで言う後ノリのタイム感を持っている。

 第16変奏の祝祭的な賑わいや、28変奏から29変奏へと続く、華やかで楽しげな感じもいいが、第25変奏も特徴的だ。本来は左手で弾くパート(音像で言うと、右上で鳴っている)音が妙に際立って定期的に聞えてきて、それが時を刻んでいるようなイメージに思えるのだ。本来低い音域のフレーズなのだが、さすがにそんなに低い音域のトイピアノはないので、結果としてバッハの楽曲構造が解体されて新たな響きを生み出している。もともと死とか老いといったことを想起させる25変奏だが、速めのテンポが残酷に過ぎていく人生をイメージしている。

 そして録音。
 基本的に演奏者から見ているようなサウンドステージで、自分の前に楽器が並んでいる。たとえば「アリア」ではその音像は大きめだ。そもそも5台のトイピアノを重ねている楽器セットという要素もあるが、堂々とした感じがあり、先述の始まりのイメージを踏襲している。それに対して「アリア・ダ・カーポ」ではカワイ一台のセットで音像も小さめ。空間の広さに対してポツンとした感じ。エピローグとして、オルゴールが鳴り終わってフタをパタンと閉めるような(そんな音は入っていない)と書くと恣意的に書きすぎだが、録音自体がそういうせつない感じを演出している。
 つまり、各変奏ごとに次々と部屋を移っていくような録音も大きな魅力。トイピアノのセットによって音色が違い、録音によってサウンドステージが違うので、ゴルトベルクという洋館のアリアという玄関から入って、30の部屋を回り、最後にアリア・ダ・カーポという別の口から出て行くような趣きがある。ちなみにおそらくそういう意味もこめて、各変奏の間隔は長めに取られている。

 どうしても言及しておかなければいけないのはピッチ(音程)についてだ。各国のいろんなトイピアノで基本的なピッチが合っていない場合がある。半音くらい違っている楽器もあって、かえってそれを黒鍵として使っている曲もある。問題は半音ズレていない楽器だ。4分の1音とか8分の1音、低いとか高い楽器の存在。一般的には「音程が悪い」という状態だが、これを新しいコード感のようなものとして感じられると、俄然このトイピアノ版ゴルトベルクは気持ち良くなってくる。

 たとえば第2変奏の後半。テーマのピッチが(一般的には)外れている。でも、その「気持ち悪さ」が気持ちいい。ひとつの音程が外れていると「音程が悪い」という認識になるが、フレーズごとごっそり外れているので、ポリリズムのフレーズのようにそこがひとつの別の音楽のように聞えてくる。自分の感覚で言うとマーラー晩年の交響曲、9番とか10番(5楽章版)での調性の展開にもちょっと似ていて、調性の酩酊感がある。このこと自体は意図的にやっているわけではないだろうが、結果としては新しい“アレンジ”の手段になっているし、1オクターブを12に分け、そのうちの8個に優先権を与えるという調性音楽。この行き詰まりを打開する方法のようにも思えてくる。

 さて、トイピアノ版《ゴルトベルク》というアルバムの終わり、トラック33は「Digital Aria Non da Capo」と名付けられている。これについて書いておきたい。ここまで名前を出さなかったが、今回のレコーディングエンジニアは生形三郎が担当している。作曲家であり、録った音をPCの波形編集ソフトでメタモルフォーゼさせることもするし、オーディオ評論家でもある。本人はオーディオ・アクティヴィストという言葉を使っている。彼が作ったのが「Digital Aria Non da Capo」だ。32トラックまでとぜんぜん違う。アリアの各フレーズを溶鉱炉の中に入れて溶解しきる前に取り上げ、さらに加工したような音楽だ。洋館ゴルトベルクの地上の32の部屋とは隔離された地下室に、悪霊たちを集めたような雰囲気のアレンジ。ボーナス・トラック的な置かれ方をしているが、この表現で、是非《ゴルトベルク》全曲を作ってほしい。

 それは言ってみれば富田勲のシンセサイザーを使った音楽。オリジナリティで言うと、特にその最初の2枚のアルバムの延長上ということになるだろう。『月の光-ドビッシーによるメルヘンの世界』(1974年)はグラミー賞4部門ノミネート。2作目の『展覧会の絵』(1975年)は1975年度日本レコード大賞・企画賞受賞。いずれもビルボード誌クラシックチャート第1位獲得、全米レコード販売者協会の最優秀クラシカル・レコード賞を2年連続で受賞。自分もリアルタイムで経験しているが、あの時、誰も作ったことがないような音楽に聞えた。あれの延長上のオリジナリティを感じる。グラミー賞の舞台でコメントしている生形三郎の姿を見てみたいものだ。

 以前のアルバム『ぬんこむ』では、教会のコラール“いざ来ませ、異教徒の救い主よ (Nun komm, der Heiden Heiland) ”に基づいた、16名の作曲家による全22作品を時代順に並べて、16世紀近くかかって作られて来た変奏曲のようにアルバム1枚を編んだ塚谷水無子だが、今回は60台以上のトイピアノを使って、草葉の陰で聴いているバッハをニヤニヤさせるような音楽を生み出してしまった。このおもしろさ、偶然に出来たもんじゃない。このコンセプトを受け止められる人の力量に期待したい。(文中敬称略)

「『ぬんこむ』」
平仮名のタイトル『ぬんこむ』が印象的だった。教会のコラール'Nun komm, der Heiden Heilandと歌いだす曲のことを、オルガン弾きの間ではそう呼んでいるという。」


(2019年9月02日更新) 第229回に戻る 第231回に進む 
鈴木裕

鈴木裕(すずきゆたか)

1960年東京生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。オーディオ評論家、ライター、ラジオディレクター。ラジオのディレクターとして2000組以上のミュージシャンゲストを迎え、レコーディングディレクターの経験も持つ。2010年7月リットーミュージックより『iPodではじめる快感オーディオ術 CDを超えた再生クォリティを楽しもう』上梓。(連載誌)月刊『レコード芸術』、月刊『ステレオ』音楽之友社、季刊『オーディオ・アクセサリー』、季刊『ネット・オーディオ』音元出版、他。文教大学情報学部広報学科「番組制作Ⅱ」非常勤講師(2011年度前期)。『オートサウンドウェブ』グランプリ選考委員。音元出版銘機賞選考委員、音楽之友社『ステレオ』ベストバイコンポ選考委員、ヨーロピアンサウンド・カーオーディオコンテスト審査員。(2014年5月現在)。

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