コラム「ミュージックバードってオーディオだ!」
<雑誌に書かせてもらえない、ここだけのオーディオ・トピックス>
ミュージックバード出演中のオーディオ評論家が綴るオーディオ的視点コラム! バックナンバー
第272回/村井裕弥さんを偲びつつ ~此岸(しがん)と彼岸(ひがん)[鈴木裕]
オーディオ評論家の村井裕弥さんが亡くなって2年経った。2012年に逝去したカメラマンの山本博道さんのこともそうだが、音楽が好きで、オーディオが好きで、夭逝してしまった方々のことを考えると、自分が生きてオーディオをいじって、音楽を聴けているありがたさを感じるし、二人の分まで楽しまなきゃとも考えてしまう。
さて、そんなことを思い出していた折り、ミュージックバードでクラシックの番組をたくさん制作し、村井さんの番組も担当していた清水葉子さんがすばらしいコラムを書かれていた。「秋に観る『夏の夜の夢』」。是非読んでほしい。 読みましたか。読んだ人だけ以下に進んで下さい。 それにしてもなんていい文章なのだろう。ちょっと「解釈と鑑賞」風に読み解いてみよう。冒頭は最近のコロナ禍の話題から入る。この何気ない入り方。そしてふだんはクラシックのミュージシャンたちの話題が多いコラムなので、ジャンルが違う井筒香奈江さんを紹介。村井さんを偲ぶ会のこと。そして、村井さん宅に行く前の風景の描写という流れ。この流れに無理がなく自然で読みやすい。しかもこの風景の描写が絶品だし、実は重要だ。引用させてもらおう。 「村井家に向かう途中、下町を流れる小名木川の橋の真ん中で立ち止まった。ビルが並ぶ背景と、隅田川に注ぐ水門の先にある蒼白い雲。普段眺めている多摩川とはやはり異なる風景だ。そして昨年とは全く違う世界のこの状況にふと思いを馳せる。」 |
“No.16”というウェブサイトに連載されている清水葉子さんのコラム。「秋に観る『夏の夜の夢』」。とてもいい内容だった。 |
小名木川にかかった橋から隅田川方面を見ている(撮影:清水葉子氏)。後ろ側は荒川に接続している運河だ。荒川側にあるのが荒川ロックゲイトで水位を調節して船が通過できるようになっている。 |
川景色を見る落ち着いた調子とほの暗い色彩感。心が落ち着いている。西の多摩川と東の隅田川という、ごくごくすっきりした書き方の中に、日常だった昨年とコロナ禍の今年という対比や、村井さんが生きていた”時”と、いなくなってしまった現在の”時”がなにげなく重ね合わされている。そして実はこの風景が、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)がともに存在しているような世界観を表現しているように感じる。硬い言い方で恐縮だが、この世界観を表現しているひとつめの階層、の提示だと思う。 そして奥様のまり子さんと井筒香奈江さんとの会話や村井さんが生きていた時のままに残されている部屋のこと、村井さんのオーディオシステム。そして「その日、私の目に止まったのはブリテンのオペラ全集だった。」という絶妙の流れ。 ここから清水さんによる、新国立劇場の主催公演、大野和士オペラ芸術監督/飯森範親指揮/東京フィルハーモニー交響楽団他によるブリテンのオペラ『夏の夜の夢』の紹介になる。たしかにこの文章の本来のテーマはこの公演についてだが、しかしそれは村井宅で井筒さんやまり子さんと話している最中の一瞬の回想として語られるのだ。こんな構成、自分にはまったく思いつかない。しかし、今回の”偲ぶ会”の趣旨やそこへの持っていき方によってこの組み立て方自体、全然違和感がないのも凄い。 |
こういう書き方によってこの公演自体が克明な現実ではないような、いい意味で宙ぶらりんの世界観を提示するふたつめの階層になっている。
そしてさいごはこれから観に行くというブリテンのもうひとつのオペラ「カーリュー・リヴァー」について。「これは能の「隅田川」を基にしている作品(中略)。能における川はしばしばあの世との関係性を示す。村井さんの三回忌を迎えた季節に観られるのもなんだか不思議な巡り合わせである。」 ここではっきりと此岸/彼岸が共存する世界観に言及している。ここまでふたつのイメージを表現してきているので、この三つめの階層がぐんと入ってくる。 自然な流れでありつつ、深いイメージが重なってくる清水さんの文章。そのあとに書きつらねていくのも心苦しいのだが、自分がこの内容に特に惹かれるのは、自分自身の体験によるところもある。そのことを書いてみたい。 |
散歩のルートの途中、旧道の終わりの方にある古民家の「横山家」。江戸時代から続く富裕な商家だという。 |
千住(ちなみに、地名としては”北千住”は存在しない)には、こうしたカンバンや石碑などがところどころに設置されている。 |
今年は新コロナウィルス禍の中、自宅でずっと仕事をしていることも多く、夜になると1時間程度歩くようになった。拙宅があるのは隅田川と荒川に囲まれた千住という地区だが、まず昔の日光街道の旧道まで東に向かい、商店街のあるところで左に曲がって北上。世の中いろいろな旧道があるのだろうが、けっこう栄えている旧道だ。一部古民家(というか、商家)のある商店街を歩いていく。そのまま行くと荒川の土手に突き当たるが、旧道はその手前で左(北東)に斜めに曲がるのでその旧道通りにルーティング。いったん荒川の土手の下に斜めに当たる形になってから現在の日光街道の、その千住新橋の下を通過。通過してすぐに土手に上がる。ここから土手の道を、大きな空を感じながら進んでいく、西新井橋に到達したところで左折。墨堤通りを南下してくるルート。時に逆回りに歩いたり、商店街の終わりには右に曲がると旧水戸街道に分岐するポイントがあるのでそちらに入って、わざと遠回りしてみたりしていた。9月の終わりくらいまでおそらくは200回くらいは歩いたと思う。 |
繰り返し歩いていると石碑や歴史のある古民家、ところどころに立っている歴史的なポイントを説明する看板等も目に入ってくる。あるいはネットで古地図を辿ってみたり、研究している人の文章を読んで調べていくと、かつて江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれるうちの中でももっとも人口が多かった宿場町、江戸時代の千住のイメージがいろいろと湧いて来た。300年前の賑わいや旅人たちの気持ち、微妙な土地の高さの意味。元はあった川、橋。基本的な道の幅や、微妙にまっすぐではない道の形など、おそらく昔のままなのだ。何気なく歩きだした散歩のルートだったが土手以外は、実は江戸時代からある古い道ばかりなのがわかってきた。そこを繰り返し歩くことによって何か道自体が記憶を持っているような感覚を持つようになった。 |
バースタイン指揮/イスラエル・フィルによる『マーラー:交響曲第9番』。1985年の録音(Hericon 02-9656)。 |
コロナ禍になって、堅固でずっと続くように感じていた日常が実は脆弱なものであることを思い知らされたが、同時に土地にしみついている過去の記憶のようなもの、微妙に空中に漂よっている存在のようなものがあることも感じられるようになった。村井裕弥さんも山本博道さんもそこここで音楽を聴いているんだと思う。 二人は亡くなったかもしれないが、いなくなってはいないのだ。もちろん二人以外のたくさんの人たちも同じなのだろう。亡くなった演奏家の演奏を再生していて、時にその人が来てしまっているように感じる瞬間も、きっとそういうことなんだと思う。 ここからオーディオにおける生きた再生と蘇生しきれていない再生の話題に展開しそうだが、それはまたの機会に。清水さんのコラム。「秋に観る『夏の夜の夢』」は特にそういうことを強く思い出させてくれた。実はその次の回も「能とオペラのパラレルワールド」という、まさに続編の内容なのを追記しておきたい。 |
清水葉子さんのコラム。「秋に観る『夏の夜の夢』」の次の回は続編的な内容の「能とオペラのパラレルワールド」。
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