2008年12月/第63回 小澤征爾とサイトウ・キネン

 長野県松本市は日本アルプスへの入り口で、美しい山並みに囲まれた信州の町。ここにあった旧制松本高校(信州大学の前身)の愉しい伝統は北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』に活写され、現在も保存されている校舎と、隣接する旧制高等学校記念館を通じて、そのよすがをしのぶことができる。
 長野駅からその旧制松本高校校舎のある「あがたの森公園」を結ぶ直線道路の、ちょうど中間に建つのが、まつもと市民芸術館。
 ここはサイトウ・キネン・フェスティヴァルの会場の一つで、今年はヤナーチェクの傑作オペラ「利口な女狐の物語」が上演された。また、長野県松本文化会館ではオーケストラ・コンサートが行なわれ、下野竜也指揮の「わが祖国」や小澤征爾指揮のマーラーの「巨人」ほかという、2つのプログラムが演奏された。さらに毎年恒例の武満徹メモリアル・コンサートや「ふれあいコンサート」などの室内楽演奏会、子供のためのオーケストラ演奏会や青少年のためのオペラなど、さまざまな演奏会が8月中旬から1か月にわたって開かれた。
 松本市でこの音楽祭が始まったのは、1992年。毎年オペラや大規模な声楽曲とオーケストラ演奏会を中心として、今年で17回めを数えることになった。松本市民だけでなく日本各地からやってくる聴衆に根づく一方、中継や毎年つくられるCDを通じて、広く親しまれる催しとなっている。
 ミュージックバードではその演奏会、さらにはCDも大挙してお送りしているので、どうぞこの機会に。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年11月/第62回 ウィーンのイタリア男

 モーツァルトが生きた時代のウィーンでは、オペラはイタリア語で歌うのが当然だった。音楽とはイタリアから輸入されたものだったから、歌詞もイタリア語ということになっていたのである。
 ドイツ語で歌うなんていうのは、たとえていえばパスタを箸で食ったりするような、下品なふるまいとされていたのだ。ときには啓蒙主義の皇帝が「みんながわかる言葉で歌おう」などと言い出して、モーツァルトがドイツ語歌詞で「後宮からの逃走」を作曲する時期もあった。しかし、すぐに宮廷のイタリア人音楽家たちが巻き返して、音楽はやっぱりイタリア語ということになり、「フィガロの結婚」などのダ・ポンテ三部作はイタリア語で書かれた。
 もはや歴史の中の話だから、どちらが正しいか間違っているかを論じてみてもはじまらない。ただ、ドイツ語圏のなかでも南のカトリック地域には特に、音楽においてイタリアとの関連が深いという伝統があって、これはいまも脈々と生きている。
 ムーティがウィーンで人気が高いのは、まさにそんな伝統に則ったものなのである。彼は今年、日本でもウィーン・フィルとニーノ・ロータを演奏し、国立歌劇場を指揮してはイタリア語の「コジ・ファン・トゥッテ」を上演することになっている。
 そして、400年の歴史を持つウィーンの宮廷楽団(ホーフムジークカペレ)を指揮して、ケルビーニとハイドンのカトリック宗教音楽を演奏する。ウィーンのイタリア男の誇りは、いまも生きているのだ。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年10月/第61回 ゲルギエフ、世界を征く

 ゲルギエフの名が広く知られはじめたのは、1988年に35歳の若さでロシアのマリインスキー劇場(キーロフ劇場)の芸術監督になって以来のことだから、今年でちょうど20年ということになる。
 その直後にソビエト連邦が解体され、新体制が始まったが、社会的、経済的混乱を受けてロシア音楽界も激動の時代となった。そのなかでいちはやく基盤を固め、組織を活性化して大躍進したのが、ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場であった。
 それ以来、ゲルギエフのスタミナは尽きることを知らない。マリインスキーばかりにとどまることなく、その活動範囲は広がるばかりである。オランダのロッテルダム・フィルとの密接な関係も20年に及び、同地では自らの名を冠したフェスティヴァルも開催してきた。
 このように日常の演奏に加えて、音楽祭のような集中的活動を好むのはこの指揮者の特徴の一つで、ほかにサンクトペテルブルクの「白夜の星」音楽祭、フィンランドのミッケリ国際音楽祭など数々の音楽祭を創設、取りしきっている。
 今年の11月末から12月にかけて、東京のサントリーホールで行なわれる「プロコフィエフ・チクルス」も、そうした音楽祭的活動の一つといえる。演奏するのは、昨年から率いるロンドン交響楽団。
 10月の「ウィークエンド・スペシャル」では、ロッテルダム・フィルやロンドン交響楽団とのライヴ録音を中心に、その野性的なカリスマぶりをたっぷりと楽しんでいただこうと思う。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年09月/第60回 ラトルとベルリン・フィルの6年

 サイモン・ラトルがベルリン・フィルを初めて指揮したのは1987年のことだから、カラヤン時代の終わりごろである。
 まだ32歳の指揮者は、定期演奏会でマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を演奏してそのデビューを飾ったのだった。このときの成功ぶりはベルリン・フィルの自主製作盤に聴くことができる。それ以来、客演を重ねるようになり、1999年に行なわれたアバドの後任を決める楽員たちの投票により、2002年からの新しい芸術監督に選ばれたのだった。
 芸術監督の就任披露演奏会ではまたしてもマーラーの作品が選ばれ、交響曲第5番が演奏された。ラトルとは長いつきあいのEMIレーベルはこれをライヴ録音して発売し、それから最新録音の幻想交響曲まで、オペラも含めて20点を超すCDが発売されている。
 就任直後の一、二年はなぜか新録音が出てこなかったが、その後は堰を切ったように、コンスタントに発売されている。
 冥王星が惑星から外されたのとほぼ同時にホルストの「惑星」、それもマシューズ作曲の「冥王星」や小惑星などの新作を加えた盤が出て、ベストセラーになったのは記憶に新しい。ハイドンの交響曲集では、ノリのいい演奏のために思わず聴衆がフライングで拍手してしまった演奏と、それと同じ楽章の拍手なしの演奏との2種類をいれるなど、遊び心の嬉しい工夫も行なわれている。近代と現代の音楽では鋭利に、ロマン派音楽では堂々と、作曲年代でスタイルを鮮やかに変えるのもこのコンビの特長だ。その躍動ぶりを、就任以来の全録音に追ってみよう。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年08月/第59回 生誕90周年のバーンスタイン

1989年11月、ベルリンの壁が崩壊して東西ベルリンの交通が自由になったとき、世界のあちこちで歓喜の声があがったが、そのとき、ヘルベルト・フォン・カラヤンはもうこの世にはいなかった。
 4か月前に急逝していたのである。だから、続いて各所で行なわれた祝賀演奏会に加わることはなかった。ベルリン・フィルが急遽開いた演奏会の指揮をしたのはバレンボイムだったし、クリスマスに関係諸国の音楽家を集めて演奏されたベートーヴェンの「合唱」を指揮したのは、バーンスタインだった。
 そう、バーンスタインの方はこの世界史的大事件に間に合った。彼もその1年後には亡くなってしまうのだが、カラヤンと違って、どうにか間に合った。
 この一事が象徴するように、生誕100年目のカラヤンと90年目のバーンスタインの人生は、時代的には重なりながらも、微妙にズレているのが面白い。第三帝国と、戦後の東西分断の時代のドイツ・オーストリアを拠点として生きたカラヤンと、史上未曾有の繁栄を謳歌した20世紀アメリカに生きたバーンスタイン。前者は指揮に専念したのに、後者は作曲にも大きな足跡を残した。
 そのバーンスタインの遺産を聴きながら、彼の生涯をふり返ってみる。そこからは、繁栄の陰にかくれがちな不満、貧困、憎悪、対立といった人間の苦しみにつねに目を向け、しかしニヒリズムに陥ることなく、人間を信じようとする情熱の炎を燃やし続けた音楽家の姿が、かいま見えてくるかもしれない。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年07月/第58回 ネマニャ!

 ネマニャ・ラドゥロヴィチ。
 1985年セルビア生れの、若い男性ヴァイオリニスト。メジャー・レーベルに録音していないせいか、メディアに大きく取りあげられてはいないのだけれど、ここ1年の間に数回来日して、熱心なファンを獲得している。
 日本での始まりは、昨年の「熱狂の日」音楽祭だった。その直前のナントでの元祖「熱狂の日」でラドゥロヴィチなる若者の演奏が大きな話題になったと伝わってきて、その彼が日本にもくるということから、耳ざとい人たちの噂になったのだった。
 ふだんは流行遅れなことばかりしている私だが、なぜかこの人は気になった。ひとまずフランスのマイナー・レーベル、トランスアートから1枚だけ出ていた無伴奏リサイタルを聴いて、まだ粗削りだけれど「大化け」を予感させる個性の大きさに惹きつけられた。
 そして、ナマを聴いて、大好きになった。チャイコフスキーの協奏曲。まさに躍動するヴァイオリン。歌い、飛び跳ね、踊る。その自由さと活力。
 印象的なのは、弾くうちに弓がチーズのようにささくれること。合間合間に「削りカス」をちぎりすてる。右手のバネが強靱で、独特の激しい動きをするために、弓が削れるらしい。しかしこの力強い動きこそが、ダイナミックに瞬動する音楽を生むのである。
 彼を聴いて痛感するのは、ヴァイオリンがリズム楽器でもあること。そしてリズムとメロディの、不可分な結合だ。こういう人がいるかぎり、クラシックは活きつづける。
 その待望の新譜は、メンデルスゾーンの協奏曲。やっぱり凄い!

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1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年06月/第57回 フルネとベルティーニのこと

 今年は、ジャン・フルネの生誕95周年であるという。
 2005年12月、東京都交響楽団を指揮して引退コンサートを行なったフルネが初めて日本にきたのは、1958年のことだった。ドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」の日本初演を指揮するためである。
 いまからちょうど50年前のことで、存命の指揮者のなかでは、もっとも早い時期の来日経験をもっている。
 興味深いことに、同じく都響に縁が深いベルティーニも、最初の来日は1960年にイスラエル交響楽団とのツアーだった。つまりある時期までの都響には、最古参の来日経験をもつ指揮者二人が、ならんで登場していたのだ。が、2005年3月にベルティーニが急逝、同じ年にフルネも引退して、もはやその指揮姿を実演で見ることはできなくなった。
 さいわいどちらもそれなりの量の録音を残しているから、かれらの芸術が虚空に消えてしまったわけではない。二人と都響とのライヴ録音も、フォンテックから発売されている。芳しい叙情性をたたえたフルネ、鋭利な緊張感にみちたベルティーニと、芸風が対象的なのも面白い。
 今月の「ニューディスク・ナビ」では、フルネの都響とのライヴ録音、ベルティーニとケルン放送交響楽団とのライヴ録音と、偶然にもここでも二人の名がならぶことになった。日本で長く愛された両者の指揮ぶりを、楽しんでいただければと思う。

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1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年05月/第56回 カラヤンとムター

ヘルベルト・フォン・カラヤンは、これと見込んだ演奏家を、集中的に協奏曲のソリストとして起用する習慣があった。
 ピアノではワイセンベルクがそうで、ベートーヴェン、ラフマニノフ、チャイコフスキーなどの協奏曲を録音しているし、ヴァイオリンではフェラスというフランスの奏者と、ベートーヴェンやブラームスの協奏曲を録音している。それは60年代から70年代にかけてのことだが、彼らがドイツやオーストリアの演奏家でないのは、この時代のドイツ語圏に不作が続き、若手の有望な奏者がなかなか出なかったからである。わずかにエッシェンバッハをソリストにしてベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を録音しているが、他の曲は録音されず、やがてエッシェンバッハは、指揮者中心の活動に転じてしまった。
 その状況を変えたのが、カラヤンより55歳年下のヴァイオリニスト、アンネ・ゾフィー・ムターの出現だった。77年にザルツブルク音楽祭でカラヤンの指揮でモーツァルトの協奏曲を演奏した彼女は、翌78年にそのモーツァルトをカラヤンとともに録音して、14才でレコード・デビューを飾る。そして以後も共演は途絶えることなく、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブルッフ、ブラームスの協奏曲、ヴィヴァルディの「四季」、そして1988年、カラヤンが亡くなる前年のチャイコフスキーの協奏曲まで、たくさんの作品が録音されることになった。
 それから20年、いまやムターはドイツを代表するヴァイオリニストとして、押すに押されぬ地位にある。カラヤンの慧眼を示す、最良の例となっているのだ。

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2008年04月/第55回 カラヤンの両輪

 これは演出家の三谷礼二さんから昔うかがった話だが、朝比奈隆は「コンサートとオペラは指揮者にとって両輪のようなものなので、並行して指揮した方がいい」という意味のことを語っていたそうだ。
 その言葉通り、ご両人は関西で協同してオペラ公演を行っていた。そのときのライヴ録音の「蝶々夫人」の一部を三谷さんが聴かせてくださったが、その指揮ぶりは意外にも、じつに堂に入ったものだった。だが「意外」というのは若造の勝手な思い込みで、三谷さんによれば「マタチッチなど、優れたブルックナー指揮者は同時に優れたプッチーニ指揮者であることが少なくない」。朝比奈隆もまた、その一例なのだそうである。
 残念ながら朝比奈隆のオペラ指揮は、東京ではあまり聴く機会がなかった。「ニーベルングの指輪」全曲の演奏会形式上演ぐらいなのではないだろうか。しかし、1950年代からヨーロッパ各地のオーケストラに客演し、かの地の音楽活動をその目で眺めてきたこの指揮者は、オペラの重要性を肌で感じ、日本でも実践しようとしていたのだ。
 こうした姿勢は、オペラという形式が広範囲に楽しめるようになった現代の日本でこそ、再評価しうることなのではないか。そして、朝比奈と同い年のカラヤンがオペラの上演と録音に心血を注いできたこと、これもまた「カラヤンの両輪」として再考すべき活動なのではないか。
 幸いにもカラヤンは、朝比奈とは対照的にたくさんのオペラ全曲盤を遺してくれている。ここであらためて聴きなおしてみたい。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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2008年03月/第54回 生誕百年のカイルベルト

今年、生誕百年を迎えるアーティストの中で、知名度が飛び抜けているのはもちろんカラヤンだが、指揮者ではほかにカイルベルト、朝比奈隆などもいる。
カラヤンという人は先輩フルトヴェングラーに嫉妬されたとか、年下の指揮者の活動を妨害したとか、同業者との関係にとかくの噂がある(あくまで噂話)のだが、同い年のカイルベルトとは不思議と仲が良く、共存共栄の関係だったという。一九六三年にバイエルン国立歌劇場の本拠地ナツィオナルテアターが再建されたときには、カイルベルトに花を持たせるためにカラヤンがわざわざこの歌劇場に二晩だけ客演し、《フィデリオ》を指揮しているくらいである。
このとき、カラヤンはウィーン国立歌劇場の芸術長、カイルベルトはバイエルン国立歌劇場の音楽監督として、ドイツ語圏のオペラ界をリードする立場にあった。このあたりのことが、それぞれのポストが二人にとってどのような意味を持っていたか、同時代の交響曲偏重の日本の音楽界ではもう一つ理解されていなかったように思う。むしろ、オペラへの偏見が減った現代こそ、かれらとオペラとの関係を、あらためて評価できる時代なのではないか。
というわけで、三月のカイルベルト特集では、一九五五年バイロイト音楽祭の《ニーベルングの指環》など、オペラを中心に構成してみた。さまざまな歌手が出入りし、合唱も加わる大編成の、長大な「綜合芸術」を指揮者カイルベルトがいかにまとめ、花開かせているかを、 確かめていただきたいと思う。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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