2011年7月/第90回(最終回) ナット・キング・コールの魅力

 友人に誘われてカラオケに行ったとき、ナット・キング・コールのナンバーを歌ったりすることが多い。彼の「モナ・リサ」や「トゥ・ヤング」はふつうの店ならリストに載っているからだ。

 それくらい彼の歌はポピュラーなのだが、彼はもともとすぐれたピアニストで、トリオを組んでからは弾き語りで成功し、「スィート・ロレイン」などのヒットを放ったことはよく知られている。

 彼の影響力は結構大きくて、レイ・チャールスも最初トリオを組み、弾き語りでナット・キング・コール風に歌っていたし、ギターの弾き語りのジョン・ピザレリも最初はナット・キング・コール・ナンバーを歌って売り出した。カナダの弾き語り歌手だったダイアナ・クラールも最初の頃はよくナット・キング・コールのナンバーを歌っていた。

 黒人のジャズ・ポピュラー・シンガーの中で最初にビッグ・スターになったのはナット・キング・コールではなかろうか。彼についでビリー・エクスタインやジョニー・マティスがビッグ・スターになっていったように思う。

 ナット・キング・コールの初期のヒット「スィート・ロレイン」や「ストレイト・アップ・アンド・フライ・ライト」は、ちょっとジャイヴ風でユーモアがある。キャブ・キャロウェイに言わせると「俺がナットに白人風にきれいで明快な発音をしろ、と言ってから彼の歌はヒットしたのだ。『モナ・リサ』が大ヒットしたのは、俺の教えを実行したからだ」と記録映画『ミニー・ザ・ムーチャー・アンド・モア』の中で語っている。

 ナット・キング・コールの魅力とすごいところはどこにあるのだろうか。彼は1950年代にポップ・ソングを歌い数多くのヒットを放ったが、ジャズ歌手のようにはくずさずに比較的ストレートに歌っている。しかしとても味わいがあり、彼が歌うと、ただのヒット・ソングがスタンダード・ソングとして後世にまで歌い継がれていくようになる。そこが彼のすごさだと思う。「モナ・リサ」「ネイチャー・ボーイ」「トゥ・ヤング」「スマイル」「ラブ」「オレンジ・カラード・スカイ」「ザ・クリスマス・ソング」など、多くのポップ・ヒットが、彼が歌うことによって後世まで歌い継がれるスタンダード・ソングになっている。

 少し前に中古レコード店で「COLE&CO.」というナット・キング・コールのデュエット集CDを見つけて買い、「PCMジャズ喫茶」で彼とディーン・マーティンの「ロング・ロング・アゴー」と、夫人のマリア・コールとデュエットした「月光価千金」をかけた。このCDにはナットが歌でデュエットしたものと、ピアニストとして歌手と共演したものが収められている。彼のピアノでアニタ・オディが「エイント・ミスビへイヴン」を歌ったり、メトロノーム・オールスターズやジューン・クリスティと共演したナンバーなども聴ける。

 番組でかけた、歌手で夫人のマリア・コールとデュエットした「月光価千金」も聴きもので、この曲はキャピトルのバージョンがよく知られているが、そちらはナット・キング・コールのソロである。このマリアとナットの間に生まれた娘がナタリー・コールというわけだが、歌のうまい両親の子だから当然ナタリーもうまい歌手だ。ただナタリーはナットの娘という目で見られるのが嫌で、30歳を超えるまでは意識して父親のレパートリーには手をつけなかったという。しかし、年と共にそのこだわりは薄れ「アンフォゲッタブル」で父ナットと時を超えるデュエットを行い大ヒットさせた(その年のグラミーも受賞している)。その印税の一部を寄付したのだろうか、NYのハーレムには『ナット・キング・コール通り』が生まれている。

 ところで、ナット・キング・コールと夫人マリア・コールの出会いも面白い。彼女はもともとデューク・エリントン楽団の専属歌手で、マリー・エリントンの名前で歌っていた(RCAに録音があるがエリントンの親戚ではない)。エリントンの伝記を読むと、ある時から毎晩のようにナット・キング・コールがエリントン楽団の演奏を聴きに来るようになったので、いつから俺のバンドが好きになったのかと喜んでいたら、ある日突然専属歌手のマリー・エリントンがいなくなり、その日からナットも姿をみせなくなったという。「ナットの関心は俺のバンドではなく彼女だったのかと、なんだかおかしくもあり、ほほえましく思った」とエリントンは回想している。

 

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2011年6月/第89回 目の上のタンコブ

 

 このところ本欄にミュージックバードのディレクター、太田氏の登場が多くなった。

 別に私と親密感が最近いよいよ高まったとかそういうことではなく、彼、62才にして諸楽器の中でも最難関といわれるトロンボーンを始めたからである。

 少し前のこのページでもそのことはお伝えしたが、大抵の楽器志望者は、最初の勢いはどこへやら、途中で、いやほとんどの人が始めるやいなや、すぐに挫折して果てる。

 これは決定的な事実で99%の人が楽器とバイバイしてしまう。100人に一人、いや1000人に一人というがんばり屋が実に太田さんなのである。これが書かずにいられるか、てなものである。

 太田さんはなぜがんばるのか。大概の男性楽器志望者は、よこしまな、いや本能に従った立派な理由、つまり女にもてたいという切なる希望で血を吐くような練習にはげむが、太田さんはこれとは少し違う。

 彼にはライバルがいるのである。そのライバルとは、この人も以前このコラムに登場し、「PCMジャズ喫茶」にも度々ゲスト出演している『ジャズ・キャブ』の藤田さんである。

 ことのついでに藤田さんを紹介しておこう。東京には聞くところによるとジャズを流すタクシー、要するに移動ジャズ喫茶みたいなタクシーが3台ほど走っているらしい。四六時中ジャズを流して、時にはお客のリクエストにも応じるというが、当然ひまな時間もあるわけで、その時間を有効に使って藤田さんは車中でトロンボーンの練習に熱中する。ぴったり窓を閉めれば、これほど音が外に漏れない格好のサイレント・ルームはなく、かんじんの走行業務より楽しいものだからついつい練習に身が入り、結果、上達の塩梅も著しいというわけだ。

 一方の太田さんは自宅で練習する。こちらも防音には気を使う。なにしろトロンボーンは音が大きい。昼間から雨戸を閉め立てるが、どうがんばってもタクシーのように完全密閉というわけにはゆかず音の漏れが気になってしまう。楽器の上達は練習あるのみなのに、思いどおりに事は運ばず切歯扼腕の態なのだ。

 二人は美人トロンボーン奏者、志賀聡美の門下生である。前にもお伝えした通り月一回開かれるメグの『トロンボーンを楽しむ初心者の会』で顔を合わせる。席は決まって向かい合わせに座る。トロンボーンという楽器は、トランペットと同様にベルが前方を向いていて、吹いている本人の音よりも目の前の人の音の方がよくわかる。

 目の前にいる“目の上のタンコブ”が吹き出す美麗な音に、毎回太田さんは悔し涙にくれていた。

 そんな悲しみの日々が半年も続いたろうか。とある日の『トロンボーンを楽しむ会』。私は久しぶりに太田さんのソロを聞いた。始めて半年だから曲といえば「カエルの唄」がせいぜいだろうとふんだが、彼はなんとチャップリンの「スマイル」を吹き出したのである。さすがにまだ流暢というわけにはゆかないが堂々たる吹きっぷりで、わずか半年でこれだけ腕前を上げるとはどれだけ艱難辛苦の日々が続いたのだろう。

 歓声を上げつつ打ち鳴らす藤田さんの拍手が優しかった。

 さらなる進歩を願って、私から曲のプレゼントをしよう。J.J.ジョンソンを“目の上のタンコブ”として励み、スウェーデン、いや北欧、いや世界のトロンボーン名人の一人になったオキ・ペルソンの「ベサメ・ムーチョ」だ。

(ディレクター記)また自分がネタにされてしまいました。ほとんど“ほめ殺し”状態ですね。でも寺島さん、私にも“よこしまな”気持ちも充分ありますよ、隠してるだけで。それから、お願いですからソロをリクエストするときは私が“しらふ”の時にして下さい。

 

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2011年5月/第88回 フランク・シナトラのそっくりさんたち

 フランク・シナトラは一世紀に一人しか現れない大歌手と言われたりする。いやそれどころか、彼に匹敵するシンガーなど絶対に現れないだろうと僕は思う。

 歌がうまいのはもちろんだが、人間としての存在感がほかの歌手とまったく違う。背おって歩いてきた人生の重みが違うのだ。真のスターでありエンターテイナーである。

 だからスキャンダルで何度か危機を迎えたが、それを乗り越え、決して消されることはなかった。スキャンダルによって消されないのが本当のスターなのだ。

 彼はマフィアとの繋がりがスキャンダルのネタにされたこともあった。少々意地の悪い伝記作家キティ・ケリーが、シナトラの伝記を書くと発表しただけでこの作家を名誉毀損で訴えたが、まだ発表されていないという理由でシナトラ側の敗訴となった。この本は日本でも出版されたが、たしかに彼の私生活をあばき立てていた。

 ところで先日イギリスの歌手による『シナトラを歌う!ゲイリー・ウイリアムズ』(SSJ)というCDがでたので、この中の「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」をPCMジャズ喫茶でかけた。

 声はシナトラよりやや細い、明るくクリアーだがバックのオーケストラのアレンジもネルソン・リドルそっくりなので一層シナトラ風に聴こえるのである。ゲイリーはイギリスでは著名で、この『シナトラを歌う!』が10枚目のアルバムというから、彼は決してシナトラのそっくりさんで商売しているわけではない。シナトラが好きなのでシナトラの愛唱歌集を吹き込んだのだろう。

 だからそっくりさんを目指すいやらしさはない。すっきりした嫌味のない歌い方だ。好感はもてるがシナトラと比較してはかわいそうだ。シナトラは女性遍歴も多彩だったし、人生の酸いも甘いも味わい尽くし、重い荷物を背おって歩いてきた人生がその歌に反映されている。深い表現には他の歌手は太刀打ちできないのだ。

 うまい歌手には、シナトラが最初目標にしたビング・クロスビーもいたし、同じか少し遅れて現れた人気歌手にはペリー・コモもいた。しかし、シナトラに関する本は何十冊も出版されているが、ビング・クロスビーの本は数冊しかなく、ペリー・コモにいたっては1~2冊しか僕は知らない。二人は真面目人間で、大きなスキャンダルもなく、話題にする話がないからだろう。

 僕がニューヨークにいる時、フランク・シナトラが亡くなった。すると一週間後くらいから、ゴシップ誌、ライフ、音楽誌、新聞が一斉にシナトラを特集したので、それを全部買って日本に持って帰った。その中で一番面白かったのが「シナトラが愛した12人の女と憎んだ20人の女」というゴシップ誌の記事だった。シナトラの面目躍如である。

 さて、次の週のPCMジャズ喫茶ではもう一人のシナトラそっくりさんのスティーヴ・ローレンス『Steve Lawrence Sings Sinatra』(GL Music)を持ってきて、この中の同じ曲「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」をかけた。スティーヴのほうがゲイリーよりもっとシナトラに似ている。声も男性的で力強く、シナトラに間違えかねないほどよく似ている。

 寺島靖国氏もスティーヴは好きだという。スティーヴのシナトラ好きはシナトラ公認であり、このCDのジャケにもシナトラと並んで笑っている写真が掲載されている。編曲もまたネルソン・リドル風だ。スタジオでの写真にはスティーヴの夫人のイーディー・ゴーメの姿も写っている。この夫妻はデュエットのレコードも沢山作っており仲の良さでも有名だ。

 スティーヴの方も愛するシナトラに敬意を表するために作ったCDであって、そっくりさんで商売しようとしているわけではないので好感がもてる。

 7~8年前頃だろうか、N.Y.のブロードウェイでミュージカル・ショウ「Dear Sinatra」が上演されていた。シンコッティはこのショウに出ていた一人なので、そっくりさんとはいえないが、シナトラのレパートリーを歌ってきた歌手の一人だ。またハリー・コニックJr.はピアノの弾き語りだが、シナトラがレパートリーにしてきた古いスタンダードが得意だし、シナトラにあこがれ、シナトラのように映画でも成功したいと考え、何本かの映画に出演してきた。うまい歌手だが日本ではあまり人気がないのか、500円以下といった中古CDコーナーに沢山彼のCDが残っている。

 これからもシナトラをめざす歌手は何人か現れるだろう。それを聴くのもひとつの楽しみだ。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2011年4月/第87回 ジョニ・ジェイムスにキスした(された?)男

 

 思い出せば約20年前、熱烈な恋をした。

 片時もそいつのことを忘れたことはなく、歌をうたうやつだったので、夜中になるとよく一緒にデュエットした。

 一番頻繁に歌ったのはホーギー・カーマイケルの作った『The Nearness Of You』で、すっかり歌詞を憶えてしまい、今歌ってみろといわれれば「ほいきた!」とリクエストに応じることが出来る。

 そういえば先日の新聞で、女優の山口智子さんがインタビューを受けていた。「一番好きなことは何ですか?」と訊かれて、「好きな人のそばにいること」と答えていた。あっ、『The Nearness Of You』だと即座に笑ってしまった。昔から知的なムードを漂わせた頭のいい女性で、彼女を恋人にしたかったが他の男に持っていかれた。

 山口智子の話しではなかった。

 熱烈な恋の相手というのはジョニ・ジェイムスである。

 シュテファン・ツヴァイクの書いた短編集に『アモク』というのがあるが、これは熱帯性気候の地域に発生する特殊な熱病で、これにかかると24時間密林の中を走り続け、2日目にばったり倒れて死に至るという恐ろしい病気だ。私のジョニ・ジェイムスに対する愛はまさに『アモク直前』、よくぞ倒れて死ななかったものだ。

 1950年代にアメリカに出現した美人歌手で、最初ダンサーになるつもりだったが、運悪く(私には運良くだが)足をくじいて歌手に転向した。そして幸運が訪れ“アメリカの恋人”といわれるようになった。MGMからレコードを40枚出しているが、私はそのすべてを買い集めた。コンプリート・コレクションは後にも先にもジョニ・ジェイムス一人である。

 どこにそんなに惚れたのかって?あんたねぇ、野暮な質問はしっこなしにしようよ。惚れたから惚れたんで、どこになどという解析はまったく不毛なのだ。

 しいていえば、声。彼女の声を聞けば、他のどんなボーカリストの声も蛙声にしか聞こえない。

 それから目。彼女の目を見れば、他の女の目はすべてトカゲ目だ。

 私は彼女の声を聴いてボーカルに開眼した。それまではボーカルは女子供のなぐさみ物と思っていた。ボーカルを聴く奴の顔を恥ずかしくって見られなかった。昔から今に至るまで原稿を書くことほど嫌いなことはないが、彼女のことだったら幾らでも書ける。惚れた当時、書きまくった。それらを見て岩浪洋三さんが言ったものである。

 「彼女のことなんかとっくに知っていて僕なんかよく聴いているよ。」

 なら書けばいいのに書かない。私ほど情熱がなかったのと、当時は白人女性歌手など毛ほどの価値もなく、もっぱらエラ・サラ・カーメン全盛時代。

 ジョニ・ジェイムスのことなどを吹聴すれば、ボーカルのわからないエロじじい扱いされるのが関の山だった。私はそんなの平気だった。悪態つきたい奴はつけ。惚れてしまったらこっちの勝ちよ。

 そういうジョニ・ジェイムスにキスした男がいるのである。アメリカ人ならまだしも日本人である。しかも私の知り合いだ。

 ディスク・ユニオンの菊田有一氏がその極悪犯だ。

 八つ裂きにしてもあき足りないその菊田有一が、今回PCMジャズ喫茶に出演した(3月5日放送)。当然その話題が出たが、マイクの前なので公式的な発言しかしない。DIWとの契約でシカゴまで彼女に会いにいき、帰り際に握手をして別れたという。

 何が握手だ!

 番組の録音の帰り、四谷に出て、酒をのみ、自由になると、どうだ。

 「帰り際に彼女は自分にキスしてきた」と言うのである。

 それほどの男には見えないがねぇ。ジョニ・ジェイムスもカンが狂ったのだろう。長い女の一生、そういう日もあるということだろう。後で彼女、一生の不覚と思ったに違いない。「私としたことがどうしたことだろう。わけのわからない東洋人の男と、何ということをしでかしてしまったのだろう・・」洗面所に行き、オキシドールを探し、脱脂綿にひたして唇をなんどもぬぐった。しかし何度ぬぐっても肉体的なけがれはともかく、精神的なけがれは落ちない。よって1980年某月某日は彼女にとって最悪な人生の一日になったはずである。

 ああ、少しすっきりした。

(ディレクター記)
菊田氏は「あのキスはあくまで交通事故みたいなもの」と録音後の飲み会でしきりに弁解していましたが、その現場の様子を実にリアルに描写したのが、寺島氏の怒りの炎にさらなる油を注いだようです。写真のツー・ショットは事前のものか事後のものかは不明です。

 

寺島靖国(てらしまやすくに) 
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2011年3月/第86回 イタリア系テナー、ジョー・ロヴァーノの魅力

 ミュージックバードの番組出演を、体調を崩して休み、関係者や出演者に多大の迷惑をかけたが、1月16日に2ヶ月ぶりに退院し、1月31日にやっと復帰出演した(2月19日放送)。寺島靖国氏やAさん、それにゲストでドラマーの諸田富男氏の元気な姿に接し、なにか自分にも生気が戻ってきたようだ。

 ただ復帰出演といっても古いCDや日本盤だけ持っていっての出演ではいささか無責任である。

 それで2ヶ月ぶりに吉祥寺の輸入レコード店に足を運び、輸入CDを数枚買った。家で試聴すると、それほど当て外れのものはなく、早速録音日に持っていき、2枚ほどかけた。

 その中の一枚がテナー・サックス奏者のジョー・ロヴァーノの『バード・ソングス』である。ロヴァーノは名前で分かるようにイタリア系の白人テナーで、もっぱらニューヨークで活躍している。

 ただ、日本では不思議とあまり人気がない。彼の最高傑作『ジョー・ロヴァーノ・プレイズ・カルーソー』(Capitol)が日本で発売されていないからだろうか。 日本で白人のテナー奏者といえば、エリック・アレキサンダーやグラント・スチュアートの方が人気が高い。レコード会社の売り出し方がうまいからかもしれないが、アメリカではジョー・ロヴァーノの方がずっと人気がある。イタリア系ミュージシャンは人なつっこいところもあり、ライヴのやり方がうまいからかもしれない。また彼のよく歌うスケールの大きなテナーは、一度ライヴを聞くとファンになってしまうところがあるが、彼は意外と来日が少ないので、日本では人気が上がらないのか もしれない。

 僕はロヴァーノが好きで新譜が出ると買うことにしている。今回の新譜『バード・ソングス』では、チャーリー・パーカーのオリジナルや愛奏曲を集めて演奏している。パーカーはアルト・サックスでロヴァーノはテナー。ちょっと違和感を持つ人がいるかもしれないが、昔ソニー・ロリンズに『プレイズ・バード』(Prestige)というアルバムもあったし、少し前に日本のテナー奏者川島哲郎もパーカー愛奏曲集を吹き込んでいた。要は演奏次第ということになる。

 今回のロヴァーノはちょっとひねった演奏もみせるが、よく歌っているのと、ユーモアのセンスが生きているのがいい。

 僕は『バード・ソングス』の中からパーカーのオリジナル・ブルース「バルバドス」を選んでかけた。パーカーはこの曲をサヴォイに録音しているが、西インド諸島のバルバドス島をテーマにした曲である。ラテンの国ということで、この曲はラテン・リズムを用いて演奏されることが多い。パーカーの演奏もそうだったし、今度のロヴァーノもラテン・リズムを用いて演奏しており、ドラマーのほかにパーカッションも参加、メンバー・クレジットにはラテン系の名前のメンバーも見られて、エキサイティングな本場のラテン・リズムのよさに感心した。ロヴァーノ嫌いの寺島氏も珍しくこの盤のロヴァーノは気に入ったようだった。

 パーカーのオリジナルとパーカーの存在は不滅だ。

 今回の入院中、僕がよく聴いたのがチャーリー・パーカー、デューク・エリントン、ルイ・アームストロングのCDだった。この3人の演奏はいくら聴いてもあきがこないのだ。

 パーカーのアルトはシンプルで、暖かく、音の魅力も大きい。パーカー以前のアルトはジョニー・ホッジス、ウイリー・スミス、ベニー・カーターと、比較的線の細い、女性的な音の人が多かったが、パーカーはアルトを力強く、男性的に吹いた最初の人ではなかろうか。

 さて、この録音日の寺島さんは風邪をひいていて、自身で「日頃の美声がそこなわれて」などとのたまっていたが、むしろ低音の魅力が出ていたように僕は思ったのだが......。

 なお、この日の夜は高田馬場の「コットンクラブ」でジャズ界の新年会があるというので、寺島氏、Aさん、それに迎えにきてくれた越谷政義氏とパーティーに出かけた。ディレクターの太田氏も後からかけつけた。

 

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2011年2月/第85回 こんなアルバムがあってもいい

 病を得た岩浪洋三さんが元気になられ、一時退院された。目出度いことなどまるでなかった私の今年の正月だが、このことが唯一お目出度いことだった。

 退院祝いはぜひ当店でと申し出た飲食店があるというから、いやすばしこいというか、商魂たくましいというか。広い店を持っていたら私も商戦に加わっていただろう。

 その岩浪さんから以前聞いた話だが、オーディオ評論家は大抵の人が私のことを嫌っているらしい。

 なぜだろう。思い当たることは、私がことあるごとにオーディオとはもっと楽しいものだ。そんな大それたホビーではないんだ。楽に気軽に音を聴こう。など広言しているからだ。

 オーディオ界の先生方にしてみれば、もっとシリアスにオーディオを扱ってゆきたいところだろう。私と違って『その道』を極めた方たちだから、そんなに簡単なものに思われては困ると。

 わかります。

 すみません。

 そうしたオーディオ評論家の中で、ほとんど唯一私と口をきいて下さる方が林正儀さんである。林さんを「PCMジャズ喫茶」にお招き出来たのはうれしいことだった。

もうおひと方は誰にお願いするか。当番組のヘビー・リスナーであり、胸に一物、手に二物(?)ある横須賀のあの方、といえばもうどなたも先刻承知の三上剛志さんである。久しぶりにオーディオ話が激して私は興奮した。

 おのずと3人の話が長くなり、ディレクターの太田さんによると番組の冒頭から50数分間曲がかからなかった。これは故安原顕さん時代の48分という従来の記録を破る新記録だとのこと。

 ジャズ・ファンの方、申しわけなしである。

 まあ実際の激論(?)ぶりはオン・エア(1月8日)の通りだが、今思い出してよかったなと思うのは、私がお二人に質問した「いい音とは?」である。

 林さんは実際のオーディオ運用面からいろいろ発言して下さった。三上さんはたしかご自分の人生におけるオーディオの音とは、みたいなお話だったと思う。

 言い足りないことがあったらしく、ご自分のホームページで詳しく開陳されているという。これらも要参照である。(私はパソコンの類を一切やらないのでわからないのである。)

 結局その日は私も10枚ほど選んでいったが、1枚かそこいらしかご紹介出来なかった。

番組収録後、すぐに林さんと三上さんから「言い足りないことが多かったし、もっと曲をかけたかったので、リターンマッチをやらないか?」とのお誘いがあり、勿論二つ返事でOK。

 で、1月22日の放送はお二人の再登場になった。

 今回登場のアルバムは必ずしも適切であるとは思えないが、いや申しわけないという選曲なのである。

 どうも本日は謝ってばかりいるが、それというのも私がかかわっている「寺島レコード」の4月新譜なのだからいささか身の縮む思いなのだ。

 ただ、言いたいことは一言、ミュージシャン凄し、なのである。

『オール・アバウト・ベサメ・ムーチョ』という一枚を企画した。全曲「ベサメ・ムーチョ」である。

 ミュージシャンは11人。一人一人彼らの都合に合わせて録音していたら莫大なお金がかかるので、「今までのアルバムの各録音の度に、番外でこの曲を追加演奏してくれ」と頼んだのである。

 凄いのは、OKとばかり、パッとその場でプレイしてしまうことである。

まあこの曲を知らないミュージシャンはいないから当然だろうという声も聞こえるが、その場で瞬間的に自分の「ベサメ・ムーチョ」にしてしまうのがさすがプロの音楽家。というわけで別種、別雰囲気の11通りの『ベサメ・ムーチョ』が出来上がった。

あらかじめ企画の趣旨を話し、アレンジなど考えていたら、こういう自然発生的なプレイは生まれなかったろう。自然発生がジャズという音楽の一番あらま欲しきことなのである。

 今回番組では、内田光昭さんのトロンボーン演奏で皆さんのご機嫌を伺った。

(ディレクター記)
アルバム・ジャケットはまだできてませんが、かなり“官能的”なものになるという噂が....。だって「ベサメ・ムーチョ~たくさんキスして」ですからねー。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2011年1月/第84回 岩浪洋三の強さ

   岩浪洋三さんはジャズ界でいちばん偉い人だが、岩浪さんの凄いのは絶対に威張ったり自慢したりしないことだ。自慢など聞いたことがない。

 人間は、特に男は60才を過ぎたら自慢したくて仕方がない生き物に生まれ変わるのである。なぜなら未来は少なく過去だけは豊富にあり、その中で特に大きく記憶に残っているのが栄光の時代だからである。

 我々には努力しなければいけないことがたくさんある。その中でも特に大事なのは、自慢しないことなのだがこの抑制がむずかしい。出すまいと思っても酒などを飲むとつい気持ちよくふっと出てしまうのが自慢なのだ。自分は気付かず他人が気付くのが自慢なのだから始末が悪い。

 ちょっと講釈が長くなったが要するに自慢とは無縁の人が岩浪洋三さんということを言いたかった。

 そういう岩浪さんだが、たまにふと自慢めいたことを口にすることがある。

「いやあ、昨夜はライヴハウスを3軒はしごしたよ。六本木へ行ってそのあと目黒へ行って、最後は吉祥寺でしめたんだ。酒、しこたま飲んでね。きつかったけど楽しかったよ。」

「北海道へ行ってね。向こうの連中と一気飲みをやったんだ。雰囲気出ちゃってスキャット歌って、翌日朝一番の飛行機で東京に戻ってその足でPCMジャズ喫茶出演なんてちょろいもんだよ。」

 これ、自慢というより、言ってみれば健康の押し売りである。岩浪さんの誇りは健康第一にあるのである。普通の人は健康第一なら節制するだろう。しかし岩浪さんは健康を維持、そして倍増するために頑張って無理を重ねてしまったのである。

 その結果が入院となった。

 少し前に練馬にある大学付属病院に入院中の岩浪さんをお訪ねした。岩浪さんは何をしていたとお思いだろうか。

 原稿を書いていたのである。

 こういってはなんだが原稿書きというのは健常者にとっても大変にきつい作業である。それを平気な顔をして書いておられたから、これは当然元気に決まっている。同行の太田ディレクターと顔を見合わせ、これはひとまず安心だわい、と。

 ネマキ姿の岩浪さんは初めてだが、ネマキを着ていてもやっぱり岩浪さんは威厳を失わない。凄いことだと思った。少し面やつれしていた。それは仕方がないだろう。岩浪さんの普段の食事は肉である。三食肉だらけといってもいいほどの肉食獣、いや肉好きである。それが一挙にカロリーゼロに近い病院食。ちなみに病院食は治療食などと称して、費用をけちり病気の直りを遅くしている傾向がなきにしもあらずだ。

「今ね、肺に水がたまってドレーンに抜いているんだ。」

 岩浪さんの脇腹のところからビニールの細い管が出ている。時々黄色い液体がツツーとしたたり落ちる。

「ひょっとしたらリンパのガンかもしれないって医者は言うんだけどね、だけどこんだけの歳だろう。進行が遅々としてはかどらないんだよ。そこがめっけものだよね。」

 そんな深刻な話をしながら岩浪さんは口許にエミを浮かべている。

「そうですよ岩浪さん、世の中には45才でガンにかかって今だに生き延びてのさばっているやつがいますからね。私ですけど。」

 そういえば私、ガンを宣告された時、ジャズなど聴く気になれなかった。うずくまってひたすら我が身の不幸を嘆いていた。

 しかし岩浪さんは変わらず耳傾けているというのである。CDを病院に送らせているらしい。精神力の弱い私でさえガンから生還したのだから、精神力の強い岩浪さんが勝たないわけはないのだ。

 さらにこの一発。ポリー・ギボンズの強力肉食的発声ボーカル『マイ・フェバリット・シングス』を岩浪さんに贈りたいと思う。まだガンと決まったわけではないが、この一曲を毎朝起きがけに聴いたら病気などたちまちどこかへすっ飛んでしまう。

 

寺島靖国(てらしまやすくに) 
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
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2010年12月/第83回 歌はストレートに歌うにかぎる

 

 「歌はストレートに歌うにかぎる」という考えでは、僕と寺島靖国氏とは意見がほぼ一致する。

日本の歌手の中には、無理にくずして歌って個性を出そうとする人も多いが、人間の声は千差万別であり、ストレートに歌っても、自然と個性はにじみ出すものである。無理なくずし方をして個性を出そうとする必要などないのである。

 ストレートに歌って、すてきな個性を発揮した歌手は1950年代に多かった。ドリス・デイ、ジョー・スタッフォード、ローズマリー・クルーニー、ダイナ・ショア、ジョニ・ジェイムス、フランク・シナトラ、ディック・ヘイムズらがその代表。マーガレット・ホワイティングもその一人だった。

 マーガレットは一度も来日公演を行ったことはないが、以前、日本のラジオ局の朝の番組で、彼女の歌う「グッド・モーニング・ミスター・エコー」が長くテーマ音楽に使われていたことがあり、それなりにその名は通っていたのではないかと思う。

 ただ、僕が50年代に聴いた彼女の歌で最初に惚れ込んだのは「ア・トゥリー・イン・ザ・メドゥ」で、日本でもこのキャピトル盤はキングからSP盤で発売され、買って聴いた記憶がある。

 その後もずっと彼女に関心を寄せ、LPを買っては聴き、いつも素直にストレートに歌っていてる様子が気に入った。中でも好きな一曲が、チェット・ベイカーも歌っている映画「虹の女王」の主題歌「ルック・フォー・ザ・シルバー・ライニング」だった。

 一度彼女の生のステージを聴きたいと思っていたところ、偶然そのチャンスが巡ってきた。

 1970年代の中頃だっただろうか、ニューヨーク五番街近くの52丁目の銀行前の舗道で、昼休み時間に、彼女の無料ライヴがあるという情報を得てかけつけた。

 一時間ほど、うっとりと彼女の歌に聞き惚れたあと、ステージを降りてきた彼女に話しかけると、いやな顔もせず10分ばかり立ち話に応じてくれた。

 日本には一度行って赤坂のクラブで歌ったことがあるという。また「私は歌手になるつもりはなかったのに、作詞家の父のところに作詞家で歌手のジョニー・マーサーがよく遊びにきていて、こんどキャピトル・レコードという会社を立ち上げるのだけど、歌手が足りないのでお前歌手になれ、と強引に歌手にされてしまったの」とデビューの裏話を聞かせてくれた。

 彼女の歌はキャピトルで何曲かヒットし、スター歌手に育っていくことになる。

 その後もマーガレット・ホワイティングとはニューヨークで二度ほど会ったり、歌を聴いたりしたことがある。一度はキャバレーに出演していた時。とても温かい和やかなステージだった。スタンダード・ナンバーにおしゃべりを交えながら淡々と歌っていた。終わってから挨拶にうかがったら、以前銀行前のライヴの時会ったのを思い出してくれた。記憶力もいいようだ。

 アメリカでは歌手が年輪を重ねると、ローズマリー・クルーニーやバーバラ・リーのようにキャバレーに出演する機会が多くなる(もっとも、バーバラ・リーは根っからのキャバレー歌手だが)。キャバレーといっても日本のようにホステスのいるクラブではなく、エンターテインメントのある大人の酒場のことである。

 また、1980年代にニューヨークのダニー・ケイ・ホールで行われた「トリビュート・トゥ・リー・ワイリー」というコンサートで、ロビーでばったりマーガレット・ホワイティングに会ったこともあった。聞けば、バーバラ・リーとは仲のいい友だちだという。

 「PCMジャズ喫茶」ではマーガレットとジョニー・マーサーのデュエット・ナンバー「ベイビー・イッツ・コールド・アウトサイド」をかけた。幸い寺島氏は気に入ったようだった。やはりストレートに歌った歌はいつ聴いてもいいものだ。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
1現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2010年11月/第82回 生真面目な生徒

 「PCMジャズ喫茶」の担当ディレクターである太田さんがトロンボーンを始めるという話を前に書いた。

 その後、その件が立ち消えになった。よくある話である。人間は一時的な高揚、衝動で物ごとを決めたりするが、それが収まるときれいさっぱり忘れてしまうものだ。

 太田さんも、その手だなと思っていた。だから薦めた張本人である私もせっついたり強要したりはしなかった。大体人に言われて不承ぶしょうやるようなことにいい結果が生まれたためしはない。

 ところが先日、急に始めると言い出したから驚いた。率先楽器を買いに赴き、ヤマハのかなり高額な一品を手に入れたという。

 こいつは本物だなと思った。

 そうしてジャズ喫茶「メグ」で行われている『トロンボーンを楽しむ会』に入会したのである。楽しむ会は練習が終わった後の“反省会”という名目の宴会が楽しい。50~60代のおっさんたちが大部分であるから金を持っており、ビールも一本ではなく5本単位で注文する。店にとっては神さまのような人たちである。

 酔いがまわると遠慮がなくなるから、会の運営について言いたい放題が始まる。

 先生は志賀聡美さんといって、美形だがまだ30代の前半なのでおっさんたちにとっては娘のような存在であり、それでつい放言が度を超してしまうのだ。

 「あのさあ、オレ、オタマジャクシなんて読めなくていいんだよ。アローン・トゥゲザーとビューティフル・ラブの二曲さえ吹ければあとはどうでもいいんだよ。」

 という人がいる。個人タクシーの運転手で、始めて間もない人だが近頃めきめき腕を上げているおっさん中のおっさんだ。それに賛同する人が何人もいる。私もその口であり、なにしろ老い先短いのだ。

 先生は困った顔をする。彼女が卒業した芸大ではそういう教え方はなかった。

 そこで断固一説述べたのが太田さんだった。

「そういう話もわからなくはないが楽器の練習はやっぱり基本でしょう。私は譜面も憶えたい。ロングトーンをみっちりやって、音が満足に出るようになってしかる後の曲の演奏でしょう。先生、今のままの練習スタイルでお願いします。」

 先生にホッと安堵の表情が浮かぶ。さすが私が『ミスター正論』と呼んでいるだけあって立派な発言である。生徒からこのように言われて可愛く思わない先生がいるだろうか。段々オボエがめでたくなっていくような塩梅である。

 ドリス・デイの昔の歌に「ティーチャーズ・ペット」というのがあったが、そっちの世界にめざましく発展してゆきそうだ。

 そのうち、太田さんがうまくなってリチャード・ロジャースの作曲した「ピープル・ウィル・セイ・ウィー・アー・イン・ラブ」などをデュエットで演奏し始めるんじゃないか。

 邦題が「粋な噂を立てられて」。

 春が来たようであり、光る未来が見えてきて、思わず「がんばれ60の手習い!」と言いたくなった。

 番組でもとりあげたトロンボーン奏者の片岡雄三さんは、すでにそのことを実践されている方である。奥さんはベース・トロンボーン奏者の山城純子さん。このCD(片岡雄三QUARTET)のラスト・トラックでなんと微笑ましくも奥さんとデュエットで演奏を行っている。あんまり面白くなくて、この曲だけは聴きたくないのである。

(ディレクター記) 寺島さーん、妄想いいかげんにして下さいな(笑)

 

寺島靖国(てらしまやすくに) 
938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2010年10月/第81回 いまイタリアのジャズが熱い!

 最近ヨーロッパのジャズが人気を博しているようだが、僕はイタリアのジャズにいちばん魅せられている。 

 イタリアのジャズが素敵なのは今に始まったことではない。もともとアメリカのジャズ界で活躍してきた白人ミュージシャンで、数の上でも実績の上でも一番際立っていたのはユダヤ系とイタリア系のミュージシャンである。ヴィド・ムッソ、チャーリー・マリアーノ、アート・ペッパー、バディ・デフランコ、トニー・スコット、フランク・ロソリーノ、パット・マルティーノ、ジョー・ロヴァーノなど、いくらでもイタリア系の名前が思い浮かぶ。歌手ともなれば、イタリアは歌の国だから、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ヴィック・ダモーン、ディーン・マーティン、コニー・フランシス、ジョニー・ジェイムス、ロバータ、ガンバリーニと数えきれない。

 ところが、このところイタリア本国でもジャズメンの活躍が目立ってきたのだ。ポニー・キャニオンなどはイタリアのレーベルと契約して次々にイタリアン・ジャズを発売している。もともとイタリアはクラッシックにおいても傑出した音楽家をたくさん輩出しており、音楽的水準の非常に高い国なのだ。ジャズのレベルが高いのも当然だと思う。

 最近のイタリア・ジャズでいちばん感心したのは、2年前に出たハイ・ファイヴの「ファイヴ・フォー・ファン」だった。ホーン入りのクィンテットというのも嬉しかったし、メンバーの中ではなんといってもトランペットのファブリッツィオ・ボッソが凄い。いまアメリカのトランぺッターたちを抜いて世界一のトランぺッターと言っても過言ではない。グループのサウンドは「ネオ・ハードバップ」といえばいいだろうか。ハード・バップ期や新主流派時代のナンバーに新しい生命を吹き込み、さらに自分たちのオリジナルも演奏するというグループなのだ。

 そして、今度このグループの新作「スプリット・キック/ハイ・ファイヴ」が出た。これがまた前作を上回るスマートで、しかも熱い演奏なのだ。なんとハードバップを最初に推進したホレス・シルバーのオリジナルを3曲も取り上げている点に感心した。特に僕はアルバム・タイトル曲「スプリット・キック」に心が躍った。

 僕にとってこの曲には忘れられない思い出がある。この曲はアート・ブレイキー・クィンテットの有名なアルバム「ナイト・アット・バードランド」で演奏されているナンバーだが、僕はこの曲の演奏をほぼリアル・タイムで聴いている。まだ四国の松山にいた頃、多分55年頃だろう、南海放送が試験電波を出しはじめていて、友人のいる局の資料室を訪ねたところ、ブルーノートの25センチ盤が何枚かあり、セロニアス・モンクやミルト・ジャクソンとともに、このブレイキーの「スプリット・キック」を聴いたとき、従来のビバップとは違う、何か新しいサウンドの誕生を感じ胸がときめいたのだ。従来のバップと違って、とてもメロディックな曲のテーマにも驚かされた。今振り返ると、この曲の演奏こそがバップとハードバップの境界線上にあった曲であり、演奏であることを知るのであった。

 ハイ・ファイヴが今改めてこの曲を取り上げたのは、このグループがメロディックな演奏をめざすことを宣言したとも言えるわけで、その行き方に僕は共感したのだ。

 さっそく番組に持ち込み、かけようとしたが、寺島氏はオリジナルの「サッド・デイ」をかけることを主張した。だが僕は「スプリット・キック」に固執し、この曲をかけた。

 それでよかったのだ。この曲こそ今回のこのグループの主張だと思うからだ。ボッソのトランペットも凄いし、いまジャズ界でいちばん魅力のあるコンボはこの「ハイ・ファイヴ」なのだから。

 

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。