子どもがランドセルを背負わない町がある。
札幌から車で60分の港町、小樽。ここでは小学生の7割が、ランドセルのかわりに「ナップランド」というリュックサックを背負う。開発したのは、創業95年の老舗かばん店「バッグのムラタ」だ。
ナップランドの見た目は、一見ランドセルのようだが、その素材は100%ナイロン製。ランドセルの半分程度の660gしかないため、手に持つとふわっと軽い。
驚くのはその値段だ。近年のランドセル価格と比べるとかなり割安な6500円なのである。
今から50年前。ある人が、バッグのムラタの前社長・村田正行さんにこう言った。
「小樽は坂が多い。重たいランドセルを背負って通学する子どもたちがかわいそうだ。なにかランドセルに代わる、軽い素材のものを作ってはくれないだろうか?」
その人は、小樽で一番大きな市立小学校・朝里(あさり)小の、当時の校長先生だった。というのも小樽は、一方を海に、三方を山に囲まれており、学校や家々は山の斜面に沿うようにして連なっている。
冬にはそこに1メートル以上の雪が積もり、見通しが悪くなる。しかも当時は除排雪のシステムが整っておらず、子どもたちは雪に埋もれながら懸命に通学していたという。
さらに、50年前の時点でランドセルの値段が約1万円から1万5,000円前後しており、家庭の状況によって買える子と買えない子が出てきていた。
そう、当時の小樽ではすでに、ランドセルの「価格」と「重さ」が社会問題になっていたのだ。
「じゃあ、作ってみましょう」
正行さんは胸をたたき、そして頭を捻った。「安い」「軽い」「丈夫」を同時に実現するには、どうしたらよいのか……。
じつはこのとき、ランドセルではない通学カバンを採用している学校が市内にひとつだけあった。朝里小から9キロ離れた、長橋小学校だ。黄色いナイロン製の巾着袋に肩ひもがついた、ごくシンプルな形のナップサック。
正行さんはこれにヒントを得た。そうして、「素材はナップサック、形はランドセル」という、2つの良さを掛け合わせた『ナップランド』を開発したのだ。
ちなみにこのとき、市や朝里小から開発資金が出たわけではない。現社長の村田達哉さんはこう話す。
「お店的には普通のランドセルを売ってたほうが儲かるんですよ。単価もいいですしね(笑)。でも、小樽は違ったんです」
ナップランドが生まれた1970年は、第2次ベビーブームの直前。子どもが多く、「ランドセルはドル箱」と呼ばれる時代だった。それでもバッグのムラタは、利益のほとんど出ない、3,000円という値段をつけた。家計負担はランドセルの5分の1以下だ。
それでも爆発的に売れたわけではない、と達哉さんは言う。「徐々に、徐々に広まったんです」
なぜなら、当時は小樽でも、今のほかの地域と同じように「新1年生はランドセルを持つもの」という文化が根強かった。そのため1年生から6年生までが、すでにランドセルを購入済み。ただ店頭で売るだけでは、広まらないことは明らかだった。
そこで、朝里小の校長が動いた。ナップランドを自校の子どもたちに勧めたのだ。たとえば、入学説明会では「ランドセルもいいけど、こんなカバンもあるよ」と紹介した。その甲斐あり、朝里小では1年目、2年目と、ナップランドを背負う子の割合が増えていった。
ただ、「朝里小の子はかなり使ってくれていましたが、ほかはぜんぜんでした」と達哉さんは振り返る。
このペースでは、小樽全体に広まるのに時間がかかる……。校長はそう考えたのか、市内29校が集う校長会で、ナップランドを紹介した。すると、多くの小学校が、校内販売でナップランドを扱うようになった。
前社長の正行さんは正行さんで、小樽に4〜5件あった同業者を集めて「小樽カバン・袋物組合」を立ち上げると、「ナップランドを皆で売りましょうや」と声をかけた。
29の学校と5〜6のかばん店、2つの販売ルートを作ったことで、ナップランドは瞬く間に小樽の小学生に広まった。なんと発売から6年後には、7割のシェアを誇る状態だったという。
衝撃的なのは、この一連の動きに「市」は一切かかわっていない、ということ。きっかけはあくまでも、いち校長先生の個人的な想いだった。
ナップランドが拡がっていく過程で、想定外のことも起きた。
「試行錯誤しながら作ったものですから、金具の不良が出たこともあって。学校へ行って、修理が必要なものは直す……ということがありました。今じゃ考えられませんけどね」
当時の小学校は1学年4クラスで、1クラス40人はいた。正行さんと達哉さん、ほかにふたりのスタッフの4人で学校を訪ね、中休みに全クラス分のナップランドを預かって別室にこもり、下校までに100個以上を点検・修理したこともあるという。
加えて、保護者から「もっとこうしてほしい」と言われればすぐに対応した。
たとえば「かけひも」。かけひもは、リュックを机の横のフックなどに引っ掛けるためのもので、ランドセルにもかならずと言ってよいほどついている。初代ナップランドは現在のようなナイロン製のかけひもではなく、黒い金属の輪っかを採用していた。
ある日、母親たちから「子どものジャンパーの首が黒くなる」と言われた。首をかしげた正行さんと達哉さんが、通りを歩く子どもたちを観察してみると……
「み〜んな襟元が黒くなってる(笑)。金具がジャンパーに擦れて、サビが色移りしてたんですよ。子どもたちを見たらわかる、そんな時代でした」
また、初代のナップランドは、通称「カブセ」と呼ばれるリュックの真上を覆う”ふた“の長さが、中央のポケットの真上までしかなかった。そのためポケットのでっぱり部分に、雪がたまることに気づいたという。これも、2代目からはポケットを覆える長さに変更した。
あるときには、こんなクレームも来た。「教科書の底がまっ黒。色落ちしているんじゃない?」
達哉さんは驚いた。なぜならナップランドの中敷きは"黒”だったけれど、色落ちしない素材だったからだ。
「おかしい、おかしい、と思いながらメーカーさんに調べてもらっても、やっぱり色落ちするような素材じゃない。それで、さらによく分析してもらったら、『鉛筆の芯の色だ!』とわかったんです」
というのも、当時子どもたちが使っていたのは、ふたが磁石でパカッと開くタイプの角形の筆箱。それを立てて入れたときに、鉛筆のけずりかすが隙間から落ちてしまっていたのだ。
「それ以来、黒だと汚れが目立たないから、逆に目立つように"白”にしたんです。白なら汚れが見えるから、汚れたときに取り替えればいい。簡単なことなんだけども、こうしたこまかい部分を工夫してきたんですよ」
『バッグのムラタ』のモットーは、「言われたらとにかくやる」。「時代に合わせて変わらきゃならないこともあるし、変えたらダメなものもある。変わらなきゃいけないものは、たとえばファッション的な要素。"色”もそのひとつです」
1980年に入ると、ニコルやコム・デ・ギャルソンといったデザイナーズブランドが流行した。若い子が全身黒づくめのファッションを好むようになり、赤と紺しかなかった色のバリエーションに、初めて黒を追加。これは女の子に大好評だった。ほかにも茶色や黄色など、「そんな色どうかな? と正直思った」ものも、リクエストがあれば加えた。
1985年には、生地そのものを変えた。それまでも撥水性の高いナイロンを使っていたが、さらに質を高めるために、エース(現ace.)に生地を特注することにしたのだ。エースはスーツケースの『プロテカ』で今も有名な、日本の老舗かばんメーカーだ。
「私も25歳まで、勉強の目的もあって勤めていたんです。同じナイロンでも、生地が悪いと雪でベタ〜っと濡れた感じになるんですけど、エースは品質の基準が厳しいので、防水性や撥水性、あと発色がぜんぜん違うんです」
特注のナイロン生地は既成のものよりも高価で、しかもある程度まとまった量からしか発注できない。生地は「ロット」と呼ばれる染色釜でつくられるのだが、同じロットで一気に染め上げる必要があるからだ。
こうした改良は、3〜5年という短期スパンで行った。改良は既存商品の売れ残りを考えると、店にとってロスが大きい。けれど「必要だから言われる」というのが、達哉さんらの考えだ。
一方で、絶対に変えたくない部分もあった。それが「安さ」「軽さ」「雪への強さ」の3つ。とくに安さは譲れない条件だった。達哉さんは言葉のトーンを強めて言う。
「校長先生の言葉が原点だと思ってますから。『ナップランドは小樽の子どもたちのためのものだから、儲けにならなくてもいい』というのは、ずっと守り続けてますね。それは変えてはならないことだと思ってる。それが、50年続いている理由ではないでしょうか」
当初の3000円から3500円、4000円、4500円、そして現在の6500円と少しずつ値上げをしてきたが、それは物価の上昇によるもの。小樽の出生数は、ナップランドができた1970年当時の年間約3,000人から1990年には約3分の1になった。それでも、子どもが減ったことを理由に値上げするようなことはしなかった。
子どもが減って、売り上げは落ちる。でも、ぎりぎりの低価格を維持する。商売を度外視するようなその苦労は、相当なものだったのだろう。「生まれ変わったら、何をされていると思いますか?」 と問うたとき、達哉さんはこう答えた。
「もうちょっと楽な仕事したいですね! なんつって(笑)。こういう商売は大変です。私はもう、未練はありません」
ところが2000年に入ると、ナップランドの売り上げが再び伸び始めた。中国や韓国で、北海道観光ブームが起きたのだ。2014年ごろには、ハリウッド女優のズーイー・デシャネルが着用したことで、ランドセルが世界的に人気となった。達哉さんはこう振り返る。
「随分と売れました。当時はナップランドだけじゃなくてランドセルも売っていましたから、付随してナップランドも売れて。中国人や韓国人のご家族が3〜4人でいらして、『いいね』と言って買っていかれたりしましたよ」
外国人観光客が落としていく金額は、ときに小樽の子どもたちへの販売額を上回ったという。
つい2〜3年前まで、その賑わいは続いていた。バッグのムラタがある小樽都通り商店街は、外国語がメインで聞こえてくるほどだったという。そこでパンデミックが起きた。
「ここ2、3年が、昔の10年くらいの感覚で変わりましたから。町自体も、コロナでね……。日曜日だけど、飲食店関係も閉めてるところが多い。コロナ前はこんなんじゃなかったんですよ」
ただじつは、小樽以外でもナップランドは買われている。たとえば市外で唯一ナップランドを売る、札幌の店舗だ。ランドセルが主流の町でなぜだろうか。
「おうちの方が『ランドセルじゃなくて本当にいいの?』と聞いても、お子さんが『これでいい』と仰るようで。お子さんご本人さえよければ、いいのではと思いますね。大人と子どもの価値観の違いもありますから。ただ、各ご家庭でいろいろな価値観がおありなので、『こんなのもあるよ』と伝えて『いいな』と思ってもらった方に買っていただければ、それでいいと思っています」
「持ってもらえるうちはやっていく」、達哉さんはそう言い切った。
ナップランドのふたを留める金具には、深めの溝がある。小樽の子どもたちが、分厚い手ぶくろをはめたままでも開けられるように。こうした温かな気遣いは、小樽の子どもたちを知り尽くしたバッグのムラタにしかできない。
ふと店のドアが開き、財布を手にした母親と小さな女の子が入ってきた。予約していたナップランドを取りにきたのだ。
「はい、どうぞ!楽しみだねぇ。もうすぐだもんね〜。学校がんばってね!」
達哉さんは、スカイブルーのナップランドを両手に抱えてスキップする女の子に、優しい笑みを浮かべた。そして、店のウィンドウから見えなくなるまで手をふった。
文・写真 = 原由希奈
編集 = 川内イオ