銘酒で“甦る”人とまち 福島県浪江町「鈴木酒造店」が復活の地“山形県長井市”で取り組む震災復興

2022.9.20 | Author: 天谷窓大
銘酒で“甦る”人とまち 福島県浪江町「鈴木酒造店」が復活の地“山形県長井市”で取り組む震災復興

山形県南部・置賜(おきたま)地方にある長井(ながい)市。近隣の米沢市と一体の生活圏を形成し、およそ2万7000人の人口を有するこの街に、震災からの復興に奮闘する一軒の酒蔵があります。

 

その名は、「鈴木酒造店 長井蔵」。江戸時代からの歴史を持つ、福島県双葉郡浪江町の老舗酒蔵でしたが、2011年の東日本大震災によって沿岸部にあった酒蔵が全流失。さらに原発事故による全町避難で酒造りの中止を余儀なくされました。しかし、社長の鈴木大介さんは避難先の山形県長井市で酒蔵「東洋酒造」の設備を使い、酒造りを再開。その後同酒造の全株式を取得し事業を再開、名称を「鈴木酒造店 長井蔵」に変更して再起を果たしました。

 

壊滅的ともいえる震災の深い傷から復活を遂げた「鈴木酒造店」。その背景には、奇跡とも言える人との縁、そして長井町と浪江町との歴史的な深い縁がありました。

浪江の“祝い酒”として愛されてきた「磐城壽」

鈴木酒造店には、江戸・南部方面への輸出を行う廻船問屋を営むかたわら、浪江地域を統治していた相馬藩より濁り酒の製造を許され、天保年間(1830〜1844年)にはすでに酒造りを行っていたと記録が残っています。浪江町の沿岸部・請戸(うけど)地区に拠点を構え、地元の酒蔵として200年以上の歴史を積み重ねてきました。

日本酒といえばまだ普通酒が主流だった昭和30年代に、純米酒など、原料米の精米歩合、製造方法などに基準を設けた「特定名称酒」の製造にいちはやく着手。その高い品質とまろやかな口当たりの良さは、地元でも広く知られる存在です。

そんな鈴木酒造店の酒を誰よりも愛してきたのが、変わりやすい海を相手に縁起を何よりも重んじていた、地元の漁師たち。代表銘柄である「磐城壽(いわきことぶき)」は、その名前のめでたさから、出港時の清め酒や大漁時の祝い酒として重宝されてきました。

「震災前までは、大漁になると、漁業組合が船主に祝い酒として『磐城壽』を贈る習慣がありました。いまでも浪江の漁師たちは、『魚が獲れたか?』という意味で『酒になったか?』と聞き合います」

目を細め、語る鈴木さん。そのまぶたの裏には、活気溢れる港の風景が映っているかのようです。

 

看板を継ぎつつ見いだした、自分の作り方

鈴木さんは、東京の大学に在学中、飲んだ酒の酒造の環境と情景が思い浮かんだことから、奈良「梅乃宿酒造」で修行を重ね、酒造メーカー勤務を経て、1999年に鈴木酒造店の専務に就任。目の当たりにしたのは、鈴木酒造店に対する、地元の人々からの絶大な信頼だったといいます。

「『この蔵の長男が作るなら間違いない』と、すでにある信用をもとに、地元の人が味も見ずに買ってくれるんです。『磐城壽』の看板を継ぐということは半端じゃないなと思いました」

鈴木酒造店 現社長・鈴木大介さん

先代が守り続けてきた看板を尊重しながら、自身の酒造りを模索した鈴木さん。地域の食生活を細かく分析し、見えてきた飲まれ方をヒントに、「磐城壽」のブラッシュアップを試みました。

「浪江町では近海で獲れる白身魚がよく食べられていましたが、海が荒れて漁に出られない日には塩蔵品がよく食べられていました。『磐城壽』はお燗で飲まれることが多かったのですが、これによってお酒に含まれるアミノ酸が働き、塩蔵品特有の強い塩味や酸味をやわらげることがわかったのです。磐城壽はやはり『土地の酒』なんだな、と思いました」

熱燗にすると、お酒の持つ豊富な旨味成分が活きる。しかし、食事に合わせた飲み方である冷や酒にすると、風味がとがって白身魚の淡泊な味わいを打ち消してしまう。鈴木さんは、このギャップを埋めるべく、製法の改良に着手します。

やや大味だった作り方を変え、比較的温度の低い『ぬる燗』でもやわらかい味わいを保てるようになった。これまで親しまれてきた酒質を最大限保ったうえで、鈴木さんは自分なりの解釈を加えていきました。

さまざまな製法をひたすら試すこと5年、ついに2004年に鈴木さんは納得のいく製法に到達。福島県内のみならず首都圏にも販路を拡大し、1999年には約2万本だった出荷本数を、2011年には約5万本にまで大きく伸ばすことに成功しました。

「自分の造る酒が、この地域を表すようになってきたと感じるまでに5年かかりました」

自らの酒造りを確立し、順風満帆だった鈴木さん。

しかしその運命は、大きく狂わされることになります。

 

すべてを流し去った大津波

2011年3月11日、14時46分。その年の仕込み最終日に臨んでいた鈴木さんを、突き上げるような激しい揺れが襲いました。

浪江町は震度6強の揺れを記録。さらにその直後、15mを越す津波が到達し、沿岸部にあった蔵は全壊。鈴木酒造店の社員たちは全員無事でしたが、酒造りの要となる原料米を作ってきた契約農家さん一家が、津波の犠牲となりました。鈴木さんは当時を思い出し、こう語ります。

「街に津波が押し寄せて、建物が崩れていく様子を高台から眺めることしかできませんでした。あとから聞いた話なのですが、私は膝下まで水に浸かりながら『田んぼ、できねぇよな』とつぶやいていたそうです」

酒造りの命といえるものをすべて流し去っていった大津波。材料や設備だけでなく、企業としての鈴木酒造店に与えた経済的な損害も甚大でした。

「酒蔵は秋口にお金を借り入れて、それで米と人を集め、酒を造ります。でも、田んぼが塩水をかぶったら、もう米は作れない。米が取れないことには酒が造れない。これまでにかけてきたお金や労力を、全部棒に振ってしまったような感じです。下手したら、会社を整理しなければならないかもしれない。正直言って、もう無理だろうと思いました」

事態はさらに絶望的な状況へと突き進んでいきます。浪江町から数キロメートルの福島第一原発がメルトダウンを起こし、浪江町は帰宅困難区域に。「全町避難」を余儀なくされた鈴木さんは、家族の避難する山形県米沢市へ身を寄せ、会社の整理に着手します。

「米沢へは先に家族が避難していたので、その伝手(つて)でいろいろお願いして、仮事務所を提供してくれるとこを紹介してもらったり、寝泊まりするところを紹介してもらったり。会社としての体裁を整えるためにFAXが必要だったので、家電量販店に行って『かくかくしかじかで、ちょっとでも安い機種を売ってくれませんか』と説明したら、お店の人が事情を理解してくれて、ノベルティの生活雑貨を一緒に付けてくれたのを覚えています」

被災後、会社としてまず着手したのは、売掛金の回収。しかし、資料はすべて津波で失われ、鈴木さんの手元には何一つ残っていませんでした。

「まずは取引先の住所を調べて、親戚に手伝ってもらいながら全部手書きでリストアップして、売り掛けの回収や協力のお願いに明け暮れていました」

とにかく会社を軟着陸させなければいけない。

鈴木さんには、悲しむ時間すらもありませんでした。

 

復活は1本の電話から始まった

震災から20日後の2011年4月1日。この日受けた一本の電話を、鈴木さんはいまでも忘れないといいます。その声は、地元の工業試験場の先生のものでした。

震災の2ヶ月前に研究サンプルとして預けていた伝統製法の酒母が、奇跡的に残っている。

「うちの蔵で使っていた酵母にたまたま特殊な形のものがあって、それを研究サンプルとして試験場に送っていたんです。それが残っていたと。何も見えない暗闇の中に、一筋のの光が差し込む思いでした」

伝統製法の酒母には、長い年月をかけて蔵に付いた酵母が含まれる、酒蔵の歴史そのもの。この酒母から酵母を取り出すことができれば、ふたたび蔵の歴史をつなぐことができる。津波で資料が流され、原発事故で地域に戻れなくなったけれど、ふたたび酒造りができる。こんなに嬉しいことはなかったですね」

鈴木さんには、忘れられない出来事がもうひとつありました。

奇跡の電話から2週間後、人が退避していた浪江町で行方不明者の捜索が再開され、犠牲となった契約農家さんの遺体が見つかったのです。

「お世話になった人たちなので、家族みんなで行きました。でも、1ヶ月以上野ざらしにされたご遺体は、すでに元の姿をとどめていなかった。こんなにもお世話になったのに、ちゃんとお別れすることができなかった」

もうお礼を言うことも叶わない人への恩は、酒でしか返せない。自分で酒を造ることができれば、地域そのものを残すことができる。亡くなった人たちの生きた証を残すためにも、絶対に復活させなければ。

鈴木さんの目に、光が宿った瞬間でした。

 

長井という土地に見た“浪江の景色”

震災から3ヶ月後、鈴木さんは工業試験場に保存されていた蔵の酵母を使い、「磐城壽」の製造を再開。試験的に販売したところ、わずか2日で売り切れるほど反響がありました。

販売所には、遠方の避難所から泊まりがけで買いに来たという浪江町の人の姿も。

「その方は、避難中に出産されたというんです。こんな状況でお祝いをする気持ちになれなかったけれど、『磐城壽が出るから、お祝いする気になって、前日の夜からずっと待っていた』と。そんな話をされたら、うかうかしてられないなと思って。当初は福島県内で新たな拠点を探そうとしていたのですが、もう県内にこだわらず、いろんな場所を探そうと。そのなかで見つけたのが、いまの“長井蔵”でした」

移転に先立ち、鈴木さんは「まずは長井がどんな土地なのか知らなければ」と、市内を散策。すると、偶然とは思えないほどに、浪江町との共通点が次々と見えてきたといいます。

「内陸部の長井と海沿いの浪江が“似ている”、というのも変な話なのですが。長井市の東端には最上川が南から北へと流れていて、浪江町もまた、夏には東端の沖合を流れる黒潮(日本海流)が南から北に流れている。そしてどちらの町も、水運の拠点として栄えた歴史があった。かつて廻船問屋を営んでいた蔵の人間として、どこか通ずるものを感じずにはいられなかったのです」

さらに鈴木さんが着目したのが、長井の水の良さ。

「蔵に流れる地下水の源流は田園地帯を通り、田んぼを潤していました。この水で農家さんに原料米を栽培してもらえば、米と酒、同じ水を使って酒を造ることができる。こんなにいいロケーションはない、と直感しました」

偶然は重なります。

「移転を検討するにあたり、初期費用に充てられるお金も多くなかったのですが、銀行から『長井市内に事業承継を検討している酒造がある』と聞きました。それが、『一生幸福』と『蘇る』という銘柄を扱う『東洋酒造』だったのです」

2011年10月、鈴木さんは長井市内の酒造メーカー「東洋酒造」の蔵を買い受け、酒造りをスタート。さらに地元の農業法人と協力し、避難している人々を長井市に呼び、原料米作りにも取り組みました。

「当時、避難した人たちは外に出る機会がほとんどありませんでした。やっぱり外に出ないと、いろいろと精神的に参ってしまう。そこで、農業を体験してもらいながら、長井市の人たちと交流できる場を作ろうと考えました。震災のことを人に話す機会があれば、避難している人たちも気持ち的に楽になれるのではないかと考えたのです」

この取り組みに長井の人々も賛同してくれ、避難している人々と長井の人々が、同じ酒造りを通じて交流を深めていきました。

鈴木さんは語ります。

「長井の人たち、みんないい人たちばかりで。面倒見がいいっていうか、ほんとに気を遣ってくれて。原料米づくりに協力してもらえるようになってから、どんどんこの土地に馴染み始めました。実際、土をいじっていると、本当に“その土地の人間”になった気がしたんです」

 

製造を引き継いだ地酒がつなぐ、新たな縁

浪江の人々が、長井の田んぼでの米作りを始めて1年目の秋、鈴木さんは、農業法人の担当者から、蔵の譲渡にともない製造が止まっていた、ある地酒の製造を再開してもらうよう頼まれます。

その名前は「甦る」。鈴木さんが買い受けた蔵「東洋酒造」が、長井の地で作り続けてきた純米酒です。長井市が循環型社会をめざして立ち上げた事業「レインボープラン※」と深い関わりがあり、まさに地元の人々の、地産地消・循環型農業への思いが込められたお酒でした。(※レインボープラン:長井市内の一般家庭生ゴミを回収し堆肥に変え、安心安全な農作物をつくる循環型社会を目指した社会的事業)

鈴木酒造店が引き継いだ「甦る」(写真左)のラベル。長井の大地と手をつなぐ人々を円状に描き、「循環の輪」を表現した。

「当時はまだSDGsという言葉もありませんでしたが、『甦る』は、まさに名実ともに『再生』を意味するお酒だったのです」と鈴木さん。さらに偶然は重なり、鈴木さんたちが長井で作り始めた酒造米「さわのはな」が、まさに「甦る」の原料として用いられてきた品種であることが明らかとなります。

「甦る」という文字は、“更”に“生”きるという文字で出来ている。その意味に気づいたとき、鈴木さんは思わず身震いがしたといいます。

「これはえらいことだ、と思いました。私たちがつないできた酒造りを復活させ、長井で育まれてきた米も復活させる。この一生幸福というものを、ここの土地の酒としてちゃんと残さなければならないと決心しました」

2011年10月、鈴木さんは、「東洋酒造」の全株式を取得。勤めていた従業員たちもほぼ全員受け入れ、「鈴木酒造店 長井蔵」としてスタート。さらに、「甦る」の製造も引き継ぎます。

「鈴木酒造店 長井蔵」の皆さん。「東洋酒造」時代から引き継いだ「一生幸福」の旗と共に。

鈴木さんはこれまでの系譜を受け継ぎ、さらに新たな歴史へとつなげるべく、「酒蔵版レインボープラン」を開始。酒造の際に副産物として出る酒粕を使い、肥料や除草剤などへの天然材料としての転用をはかります。

「長井や米沢の特産である行者菜(行者にんにく)の栽培につながったり、米沢牛の飼料になったり。自分たちの酒造りが、地域に根付いていくのを感じました」

 

そして「甦る」の歌が生まれた

蔵から長井の街へと伸びた根は、新たな人とのつながりも生み出しました。浪江と長井の人々が「甦る」様子を、歌にしたいという人が現れたのです。

手を挙げたのは、福島県郡山市のシンガーソングライター・伊東和哉さん。震災のショックによって歌うことができなくなり、歌手活動を休止していましたが、長井を訪れ、「甦る」と出会ったことによって、ふたたび歌への思いが再燃。活動を休止している期間に、オリジナル曲「甦る」を書き下ろしました。

「2021年、震災から10年を迎えることを機に音源化が決定。売上は、復興のために全額寄付されることとなりました。長井での縁が、さらにまた次の未来へとつながっていきます」

鈴木さんたちの取り組みは、一人のシンガーソングライターの心をも「甦らせた」のです。


長井の経験を元に、浪江の酒造りを甦らせる

いま、鈴木さんは新たなことを「甦らせる」べく、歩みを進めています。

2018年3月31日に「帰還困難区域」を除く区域で避難指示が解除された、浪江町での米作りです。

浪江町では放射能汚染の影響により、2013年まで農業ができない環境でした。その3年後、2014年に町内で「実証実験」という形で米の栽培を再開しましたが、当時、浪江町の田んぼは除染で土が入れ換わり、地力が低下した状況だったといいます。

「ここで、私たちが長井で行ってきた『レインボープラン』の技術を活かし、浪江の田んぼを甦らせることができないかと考えました」

鈴木さんが手がけるのは、浪江町産コシヒカリの栽培。長井での酒造りによって生まれた副産物を活用した肥料・抑草剤によって、田んぼにふたたび力を与え、長井で製造したみりんや焼酎をアルコール原料として、浪江での新たな酒造りを模索しています。

浪江町の田んぼで撮ったという写真には、皆の笑顔と活気に満ちた様子があった。

酒造りには浪江産のコシヒカリを使用します。一般的にコシヒカリは雑味のもととなるタンパク質が多く、酒造米として用いられることはありませんでしたが、分析の結果、浪江産コシヒカリの場合はそれが少なく、ご飯として食べても、酒造米としても優れていることがわかったのです。

酒造りに使う米の放射能安全基準は、1kgあたり10ベクレル以下です。一般的な食用米の安全基準である「1kgあたり100ベクレル以下」よりもはるかに厳しく設定された基準を、浪江の米は2014年からずっとクリアしていました。

浪江の人々が日常的に食べるお米を使ってお酒を造れば、その安全性を証明することにもつながる。

「地元から避難したことで、自分たちのふるさとに自信が持てなくなっている人が多いんです。だからこそ、浪江の人たちが地元を自慢できるものを作りたい。浪江の食とともに歩んできた自分たちの酒を通じて、地域の素晴らしさをふたたび知ってもらいたい。浪江が『甦る』日も、遠くありません」

取材・文 = 天谷窓大
編集 = 藤井みさ
撮影 = いしむらひろのぶ

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