「これが、僕なりの家業の継ぎ方」両親のいちご農園を行列ができる直売所兼カフェにした、若きデザイナーの思い

2022.7.25 | Author: 池田アユリ
「これが、僕なりの家業の継ぎ方」両親のいちご農園を行列ができる直売所兼カフェにした、若きデザイナーの思い

「ボッテガ・ヴェネタ」とのコラボレーションを手掛けるなど、国内外で活躍するアートディレクター・デザイナーの奥山太貴さん。

 

実は太貴さんには、もうひとつ別の顔がある。実家のいちご農園でカフェ兼直売所をオープンさせ、農園の課題に取り組む「農家の息子」としての一面だ。まったく異なる分野に取り組んでいるようだが、ふたつの仕事には共通点がある。それは、「デザインを通して、コミュニケーションを生みだすこと」。

 

岡山県にある「奥山いちご農園」で、太貴さんの今までの道のりを聞いたーー。

岡山駅から瀬戸内海へ向かって車で40分。緑豊かな田園地帯に入ると、ある日本家屋の壁に大きな旗が目に入った。まるで海賊船の旗のようなデザインで、中心に真っ黒ないちごが描かれてある。

日本家屋の壁に飾られた旗。(提供元:奥山太貴さん)

家屋の脇道を入っていくと、芝生が広がった庭にビニールハウスがあり、そのなかで、若い女性客がいちごのパフェを食べていた。そのパフェは、今にもこぼれそうなほどいちごが山盛りだ。

日本家屋の正体は、「奥山いちご農園」が手がけるカフェ兼直売所の「plate(プレート)」。店内に入ると、いちごの香りがふんわりと漂う。

「いちごがお客さんの目に真っ先に映ってほしくて、外観や店内ではあえて赤色を使わず、シンプルにしたんです」

そう語るのは、奥山太貴さん。太貴さんはデザイナーとして東京で活動しながら、岡山にある実家のいちご農園とカフェを企画・運営している。

カフェ兼直売所の「奥山いちご農園|plate」。

2017年にオープンした同店は、大々的に広告を打ち出したことがないにもかかわらず、利用者のSNSや口コミで県内外からたくさんの人が来店する。農園で採れたいちごを使ったジャムは、「DEAN & DELUCA」でコラボ商品として販売されており、出荷が追い付かないほど人気だ。

太貴さんがお店を企画した理由を聞くと、このように語った。

「自分のつくるものを言葉にできない農家さんって、結構多いんです。その代表格がお父さんだったので(笑)。本人はめちゃめちゃこだわってつくってるんですけど、無口で職人気質な人だから一般の人に伝わらない。ちゃんと言葉にできるようにしようと思ったことから始まったんです」

奥山太貴さん。

取材の日、太貴さんの父・茂樹さんにいちご農園を案内してもらったが、熱心に話す姿を見て、寡黙な人とは思えなかった。そう太貴さんに話すと、「お店を始めてから、だいぶ明るくなりましたね」と太貴さんは笑った。

「母も言ってるんですよ。『お父さん、変わった』って。ここ数年ですね。庭に設置するビニールハウスの飾り付けとか、ぜんぶ父がやりました。いろいろなお客さんと話す機会が増えて、すごく楽しいみたいです」

農園と家族に大きな変化をもたらした太貴さん。いったいどんな道のりを歩んできたのだろうか。

 

「人見知りだけど、目立ちたい」

 1988年、太貴さんは岡山県で祖父の代から続くいちごの生産農家に生まれた。

もともと目立ちたがり屋な性格だったが、中学生の頃になると一転して人見知りになり、クラスメイトに自分から話すことができなくなったという。

ただ、「目立ちたい」という欲求だけは人一倍強く、人と話さずに注目を浴びることはできないかと考えて辿り着いたのが、「勧誘ポスター」だった。

「中学では陸上部、高校では吹奏学部に所属していて、どちらでも新入部員の勧誘ポスターを作ったんです。おそらく思春期の承認欲求だったと思うんですけど、自分が描いたものが人前に貼られるっていうのが、なんだか気持ちがよかったんですね。『あ、こっちに行けばストレスを感じずに目立てるかも』って思うようになったんです」

高校を卒業後は、滋賀県の美術大学へ進学。グラフィックデザインの制作に取り組んだ。大学3年のある日、知り合いの新聞部員から「話や作るものが面白いから何か書いてみてよ」と頼まれて、新聞部に入部。学生新聞でコラムを担当するようになる。太貴さんのコラムは在学生から評判が良かった。

ある時、太貴さんは「大学はもっと学生の創作活動に寛容であるべきだ」という大学に対する批評を書いた。しかし、ちょうどその頃、大学側から学生新聞への費用がでることになったため、部員から「この記事は載せられない」と言われてしまう。

これに異を唱えた。

「お金をもらってるから書いちゃいけないなんて、そんな自主規制ってどうなの?」

部員と話し合うも、結局そのコラムは載らなかった。

その後、雑誌や書籍に関心があったこともあり、独自でフリーペーパー『純真MOOK』を創刊した。このフリーペーパーでは、企画から文章、写真、編集、デザインまでを自ら手掛けた。

『純真MOOK 僕からあの娘へのフリーマガジン』。(提供元:奥山太貴さん)

「その頃にはSNSが流行っていましたが、フリーペーパーは直接人と話したり、繋がれたりできるのがいいなと思うようになって作り始めました。フリーペーパーの良さって、何の垣根もなく自由に書けて、ハードルが低いことなんです。僕は人見知りだからうまく人と話せないんですけど、フリーペーパーなら気軽に人に渡せて、置いておけば人が持っていってくれる。普通なら出会うことのない人から直接感想をもらえたりするんです。そこからコミュニケーションが生まれて、たくさんの人と繋がることができました」

 

実家のいちご農園、「完熟栽培」に切り替える

大学生の太貴さんは、いちご農園を営む両親の姿を見て、「農業ってやべぇ。自分には無理だ」と思っていたという。いったい何が無理だと思ったのだろう? それは、奥山いちご農園の労働環境からきていた。

父・茂樹さんは、先代である祖父からいちご農園を引き継いだ。太貴さんが小学校高学年の頃だ。

一般的な農園は、いちごが成熟しきっていない状態で収穫して市場に卸す。もともと奥山いちご農園もそうしていたが、茂樹さんは糖度の高いものを提供したいと思うようになり、完熟したいちごを収穫する「完熟栽培」に切り替えた。

そのおかげで濃厚で甘さが強いものを収穫できるようになり、品評会では毎年賞をもらえるようになったが、完熟している分、いちごの傷みが早いため、通常の流通に合わせようとすると以前よりも手間がかかるようになってしまった。

「父のこだわりの結果でもあるんですけど、鮮度と完熟を大切にし始めたら、収穫の最盛期になると、品種やサイズごとに行うパックの振り分け作業に追われるようになったんです。早朝に収穫して、手早くパック詰めして、その日のうちに市場に運ぶ……。両親が休みなく働いているのを見て、自分には無理だって思いました」

どうにか現状を変えようと、作業場に直売所を設けていちごの販売を始めるようになる。その場所で母・礼子さんがパック詰めをしながら販売する形をとった。

作業場にて。

この直売所は地域の人から好評で、いちごを求めて人が訪れるようになる。ただ、今度は別の問題が発生した。

「母は気前がいいので、常連客にいちごのハネ品(形や大きさなど規格にあわず取り除かれたもの)やB級品をあげちゃうんですね。『人との繋がりはできるけど、ちゃんと買ってもらえなくなるのでは』って思いながら見てました」

 

フリーペーパーに携わりながら働く極貧時代

就職活動を始める時期に差しかかり、太貴さんはとくにアテもなく、東京に行こうと決めていた。理由は仕事を覚えるなら都会がいいと思ったからでもあるが、幼少期から地元への苦手意識があり、早く離れたいという気持ちもあった。

「ここは、良くも悪くも人の目が近いんです。町の人たちが全員親戚みたいで、いつも見られている感覚がありました。田舎特有の繋がりにネガティブなイメージを持っていたこともあり、地元を離れたかったんです」

同級生が就職活動をしている最中の2010年12月、太貴さんは学生フリーペーパーの祭典「Student Freepaper Forum」に出場した。約80組が参加したなかで決勝に残り、500人ほどの観客の前で自分が作ったフリーペーパーのプレゼンを行った。「東京に行くことは決めていたものの、フリーペーパーに没頭していたのでまったく就職活動をしてなかったですね(笑)」と太貴さんは当時を振り返る。

大学の卒業式が開催された2011年3月11日、東日本大震災が起こった。次の日には東京で家探しをする予定だったが、断念せざるを得なくなる。

3カ月ほど実家の農園を手伝いながら過ごした後、上京。震災後の就職難も重なり、仕事先が決まらないまま、フリーペーパー専門店「ONLY FREE PAPER」を手伝い始めた。しかし東京での暮らしは極貧で、「床が腐っていて畳が沈むようなボロアパートでした」と太貴さんは言う。

渋谷パルコに店舗を構えた「ONLY FREE PAPER」は、日本全国のフリーペーパーが置いており、客が自由に持ち帰ることができた。ただ、商材がフリーなので家賃が出ていくばかり。バイト代ももらっていなかった太貴さんは店長の松江さんとお金を生み出す方法を模索し、太貴さん自身イベントの企画・運営や新規事業の立ち上げを行うなど尽力するも、生活の苦しさは変わらなかった。

「僕も含めてフリーペーパーに携わる人はみんなお金がありませんでした。店長は明け方まで工事現場でバイトして、店の狭いバックヤードで寝てるんです。新しいことをしようと思っても、カルチャー畑ってあんまりお金にならないんですよね。その時から、『自分の作ったものがなにかに繋がらないと嫌だな』って思うようになりました」

上京して1年後、「そろそろ生活を立て直さなくちゃ」と太貴さんはWeb制作会社に就職。その間も「ONLY FREE PAPER」の活動を続けていたが、しばらくすると渋谷パルコのフロア代を捻出できなくなり、お店は撤退。大学時代からフリーペーパーが人と繋がる手段だった太貴さんは、居場所をなくしたような、さびしい気持ちになった。

その後、1年間働いたWeb制作会社を辞めてデザイン事務所に転職するも、社長とそりが合わず、過酷な働き方に疑問を呈したことで口論になったため、2ヶ月で解雇。「デザインをちゃんと勉強しよう」と思っていたのだが、出鼻をくじかれてしまう。

そのことを松江さんに告げると、「今度、新しいフリーペーパー専門店を東小金井の高架下にオープンすることになった。そこで店番してみない? スポンサーもいるから、今度はバイト代出るよ」と言われ、「ラッキー!」と思った太貴さんは快諾した。

店番をしていたある日、スポンサーのひとりが太貴さんに声をかけた。

「松江さんから話は聞いてるよ。今ちょっとデザイナーを探してるんだけど、興味ない?」

スポンサーは、「グッドデザイン賞」で特別賞[地域づくり]を受賞した経験を持つ、「場づくり」の会社だった。場づくりとは、人と人とが関わり合う場所をつくること。

太貴さんはその会社でデザイナー、ディレクターとして働きながら、駅の商業施設や駅高架下のコミュニティスペースの運営などに携わった。街の個人店や地元の作家を集めたマルシェなどのイベントやワークショップを担当し、デザインを通してつくるまちづくりやコミュニティづくりを経験する。

地域の人たちと直接コミュニケーションを取りながら仕事をするうちに、少しずつ人見知りの性格が和らぎ、コミュニティデザインの知見を広げていった。のちに、ここでの知識が実家の農園を救うことになる。

 

「両親の働き方をどうにかしたい」

2015年からコミュニティをデザインするデザイナーとして1年ほど働いた太貴さん。久しぶりに実家に帰ると、農園の仕事はさらに忙しくなっていた。

帰郷したタイミングがたまたまいちごの収穫の最盛期だったのもあるが、母・礼子さんは農作業に加え、いちごをパック詰めする作業と直売の接客に追われて疲れきっていた。父・茂樹さんの顔にも疲労の色が浮かんでいて、ひさしぶりに帰っても歓迎されない雰囲気もあり、太貴さんはショックを受ける。

社会に出て良くも悪くもいろいろな経験をしたことで、「両親の働き方をどうにかしなければ」と痛切に感じた太貴さんは、農園の問題点を考え始めた。

もっとも大きな問題は、種類や大きさで分けるパック詰めの作業に時間がかかっていることだ。そこで、まずはパック詰めが必要となる市場に卸すのをやめようと思った。せっかくこだわって完熟させたイチゴが安く買いたたかれしまうこともあったので、今後は直売のみで販売できないかと思案した。化粧箱に入れてグラム単位で販売することができれば、作業の負担も減らせる。

太貴さんがデザインした化粧箱。

だが、市場に卸すのをやめたとして、今の集客状態では金銭的に続けられない。新しい方法でもっとお客さんを増やす必要があった。

太貴さんがアイデアを練っていると、以前、礼子さんが「あんたがデザインしたいちごのカフェをはじめるのって楽しそうだね」と話していたことを思い出した。

母からその話を聞いたときは「きっと大変な仕事から逃避したいんだろう」と受け流していた。でもよく考えてみると、「直売所&カフェ」なら常連客と新しい客、どちらとも接点を持つことができて、集客につながるのではないか。

「もしかしたら、飲食をやるのはありかもしれない……」

太貴さんは実家のリビングにパソコンをひらき、家族にカフェの構想を説明するための資料をパワーポイントでつくった。家族に相談するなら口頭で良さそうなものだが、太貴さんは「親だからこそ、ちゃんと話さないと聞いてもらえない」と思ったという。

両親、太貴さんの妹・華帆さんをリビングに呼び、店をつくる意図やキャッチコピーなど、地域の場づくりの会社で培った経験を駆使して説明した。カフェを開くにあたって、両親に自信を持ってもらいたいという意図もあった。

「農家であることの良さを両親に知ってほしくて、『都会の人たちから見たら、ふたりは憧れる存在だよ』と話しました。地方で農家をしたいという若者はけっこう多いんです。でも、イチから始めるのってハードルがめちゃめちゃ高い。そう考えると両親は恵まれた環境にいるし、お客さんにとってふたりとコミュニケーションをとることは嬉しいことだって、伝えたかったんです」

茂樹さんと礼子さんは、「うまくいくんじゃない?」と頷いた。当時JAに勤めていた妹の華帆さんも乗り気になり、「会社を辞めて、店長をやるよ」と言った。

このプレゼンからまもなく、太貴さんは会社を辞め、カフェの準備を始めると同時にいちご農家のブランディングを考えた。

両親の茂樹さんと礼子さん、妹の華帆さん。

 

いちごを売るカフェ「plate」

この頃、太貴さんにとって清水の舞台に飛び込むような出来事があった。

それは、近隣の人たちに向けた直売所兼カフェの説明会。前述した通り、太貴さんは地元の人たちとの距離感に苦手意識を持っていた。けれど、お店を開くとなれば、近所の人の理解を得る必要がある。そこで太貴さんは、近所の家や農園を1軒ずつ回って「この日に説明会を開くので来てください」と頼んだ。

「昔から僕のことを知ってるおじいちゃん、おばあちゃんたちです。でも、世代も仕事も違うから、もしかしたら話が通じないんじゃないかって不安で、説明会の準備を入念にしました」

説明会の当日、まだ内装ができあがっていない店内に、近所の人たちが15名ほど集まった。その中には昔から地域の世話役をしている男性もいた。

両親と妹が見守るなか、太貴さんはこのように話した。

「ここでカフェを始めたいと思っています。人がたくさん来て、もしかしたら皆さんに迷惑がかかるかもしれません。ごめんなさい……。でも、僕がしたいことは、うちのいちごがおいしいと知ってもらうこと、妹の新しい仕事をつくること、なにより、両親が夜中まで働く環境を変えることなんです。そして、この土地で生まれた僕たちがはじめるお店を、地域と一緒に歩んでいける場所にしたいんです」

太貴さんが奥山いちご農園の現状と課題を話し終えた後、店内は一度静まり、大きな拍手が起こった。

これには太貴さんも面食らった。まさか、こんな反応が返ってくるとは思っていなかったのだ。

「もっと排他的な感じだろうと思っていたんです。意外とみんな受け入れてくれるんだって、応援してもらえている実感があって嬉しかったです。あの説明会は、人生で一番緊張しました(笑)」

説明会以降、カフェの準備を進める太貴さんのもとに近隣の人たちがやってきて、「このイスを店で使ってくれんか」「私が書いた絵、飾ってもらえる?」と声をかけてくるようになった。

以前ならおせっかいだと感じるような応援だったが、太貴さんはもう苦手だと思わなくなっていた。

そうして2017年2月、直売所兼カフェを運営する店「奥山いちご農園|plate」を開店。2日間にかけて行われたオープニングイベントには440名の人が集まり、行列ができるほどの盛況ぶりだった。

お店のキャッチコピーは、「いちごを摘んだ、その手で届ける」。その言葉は、カフェの空間デザインからもうかがい知れる。

「テラス席からは、農園で収穫したいちごを運ぶ両親の姿が見えるようにしました。以前の直売所の頃から続いている母とお客さんとのコミュニケーションを大切にしたかったんです」と太貴さん。

「plate」では、農家が新しくはじめた取り組みとして話題になり、いちごのパフェやスムージーも人気を集めて、テレビや雑誌の取材が増えた。もっとも多い日で約500人の客が来店。これにより、いちごの直売率も上がり、市場へ卸しに行く必要がなくなった。農園の収入も安定し、収穫作業をする人を雇えるようになったことで、太貴さんの両親は休みを取りやすくなった。

それ以外にも、太貴さんは和菓子屋の「敷島堂」とコラボ商品をつくったり、マルシェなどのイベントに出店したりするなど、より多くの人に奥山いちご農園を知ってもらうための活動を続けた。

カフェで販売しているスムージーやパフェ。

 

うつ病を患ったことで気づいた「自分なりの継ぎ方」

取材のなかで、太貴さんはたびたび「健康的に働く」という言葉を口にした。その理由のひとつとして、「実は、僕自身がメンタルを壊したことがあるんです」と打ち明けてくれた。

2017年の9月、農園と店が軌道に乗った頃、太貴さんは幼なじみと会社を立ち上げた。デザインを通して、一次産業に携わる人たちの役に立ちたいという想いがあった。しかし、起業から2年で体に異変が起きた。

「朝起きると震えが止まらなくて、妻からも心配されて、自分の状態を自覚したんです。仕事では、社外の人との大事な打ち合わせで言葉がでないことがあり、幼なじみから心配されましたね。初めての子どもが産まれた時期で周りに協力してもらって十分な育休はとっていたんですけど、復職してからも育児と起業を頑張ろうと思いすぎてしまったんだと思います。僕のテーマは『健康に働く』ことだったのに、自分で破っちゃったなって思いました」

心療内科で診てもらうと、うつ病とのことだった。太貴さんは会社を幼なじみに任せ、処方された薬を飲みながら1年ほど休養をとった。このことがきっかけで、「僕は経営が向いてないんだな」と思うようになり、自分の働き方を見直すようになる。

その症状が回復しはじめた2020年の春、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた。

「plate」の運営も一時止めざるを得なくなる。ただ、この時、奥山いちご農園はカフェとショップでの直売率が100%になっており、いちごを収穫してもお客さんが来なければ廃棄することになってしまう。お店の休業は死活問題だった。

そこで太貴さんは、収穫したいちごでジャムとシロップを作り、自らデザインしたパッケージでオンライン販売することにした。公式SNSとホームページからの告知とともに、個人のSNSで発信したところ、利用客だけでなく新規の客からも問い合わせが入り、配送が数カ月待ちになるほど注文が殺到した。

いちごのジャムとシロップ。 奥山いちご農園では『ジャムのいちご』『シロップのいちご』と名付けて販売している。

デザインはとてもシンプルだ。ジャムとシロップを入れる瓶には、いちごの絵が描かれているのみ。食べきった後はインテイリアに使いたくなるような、かわいらしさがある。

「うちのイチゴを食べてもらえばわかると思ったので、あえてコピーやテキストのような情報を載せませんでした。これは直売だからできることなんです。商品にいろいろ書かないぶん、お客さんとコミュニケーションをとりながら説明するようにしています」と太貴さん。

その話を聞いて、学生の頃の太貴さんが部活の勧誘ポスターを描いている姿を想像した。「太貴さんのデザインは、コミュニケーションのためなんですね」と言うと、太貴さんは大きくうなづいた。

「デザインって、なにかのビジュアルを作るだけじゃないんです。デザインという方法を使って、作り手の思いが伝わるようにすることが僕の役目。ここでは奥山いちご農園のデザイン部の部長くらいの感覚です。これが、僕なりの家業の継ぎ方だなと思っています」

取材・文 = 池田アユリ
編集 = 川内イオ
撮影 = いしむらひろのぶ(株式会社トランジットデザイン)

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