豊かな自然に囲まれて、のんびりと過ごす時間。そんな“田舎暮らし”に憧れ、都会から移住する人が増えている。その一方で、現地の暮らしやコミュニティに対して「こんなはずではなかった」と頭を抱えるケースもまた少なくない。総務省が主宰、全国の各自治体が任命する「地域おこし協力隊」の制度を利用し、埼玉から山形県の南部・置賜(おきたま)地域に移住した塗 貴旭(ぬり・たかあき)さんもその一人だったが、地域で地に足のついた暮らしを続け、人々と綿密な人間関係を構築することで、地域の魅力と自らの“役割”に気づくことができたという。都会と田舎の暮らしの違いによるミスマッチを防ぎ、真の意味で豊かな移住生活を送るためにはどんな姿勢が求められるのか。
山形県置賜地域の中央部に位置する人口14,000人の町、川西町(かわにしまち)。2011年、塗さんは同町の「地域おこし協力隊」1期生として埼玉県川口市から移住した。
この地に住み始めて11年。いまや名実ともにすっかり町の顔となっている塗さんだが、置賜地域にはもともと縁もゆかりもない人間だった。
東京都世田谷区出身の父と、埼玉県川口市出身の母。浅草生まれの祖父と、渋谷育ちの祖母。都会出身の親族に囲まれて育った。夏休み、両親たちの実家へ帰省していく友達が羨ましかったと塗さんはいう。
「お盆があけて友達が帰ってくると、田舎で採れたサトウキビなんかを戦利品のように持ってくるんです。いいなぁ、と思って。そういう“田舎”というものに憧れていましたね」
田舎に憧れていたとはいえ、農業をしたり、ロハスな暮らし…… という、いわゆる「田舎暮らし」をしたかったわけではない。どちらかといえば、「都会から脱出したい」という後ろ向きな思いが強かった。
「東京での生活が自分的に飽和状態っていうか、もうこれ以上何もないなと思ってしまったんですね。このまま都会でずっと育って、大学を出て、いずれ自分もサラリーマンになって働きに行くことになるんだろうなとは思っていました。でも、満員電車で見かけるサラリーマンはとても疲れた顔をしていて。『自分も大人になったらこういう生活になるのか、嫌だな』と子ども心に思っていました」
この人たちは、果たして生きることを楽しめているのだろうかーー。
受験でつねに競争にさらされ、順位付けされることも息苦しかった。
「何かにつけて誰が上だとか下だとか、そういう中で暮らしてきていたわけです。中学受験のために小学生の頃からずっと勉強して、テストの点数がいいとか悪いとか、偏差値が高いとか低いとか、どこの学校に行ったとか、そういう競争社会の中で暮らしてきて『やりたいことがやれる人生のために勉強をしているはずなのに、結局は子どもの頃に見た、疲れた顔したサラリーマンになるしかないのか。だったら、これってほんとに意味あんのかな』と思ってしまって」
都会での暮らしに違和感を抱きながら過ごした青春時代。転機がやってきたのは大学生になってからだった。旅行で訪れた地方の景色に、塗さんは「いまの自分にないもの」を見いだす。
「まず、圧倒的に人が少ない。歩いている人も、スーツ姿の人も、朝の通勤ラッシュもない。どうやって生きているんだう?と興味がわいて、自分と全然違う暮らしをしてる人がいるように見えたんです。田舎へ行けば、これまでと違った暮らしに出会えるんじゃないか、と」
大学院を中退し、26歳になった塗さんは、山形県川西町で地域おこし協力隊の第一期メンバーを募集していることを知り、早速応募。とんとん拍子に選考は進んでいった。
最終選考は、川西町での面接。山形県米沢市の米沢(よねざわ)駅から新潟県村上市の坂町(さかまち)駅を結ぶJR米坂(よねさか)線に乗り込んだ塗さんは、“電車”ではなくディーゼル駆動の“列車”にまずカルチャーショックを受ける。
「そもそもディーゼル車に乗るのが初めてだったんです。『こんなエンジンで動く“電車”があるんだ』と。降りるときにも、ボタンを押さなきゃドアが開かない。地元の中学生に教えてもらって、なんとか最寄り駅で下車できたというありさまでした」
「首都圏の電車は5分もあれば何かしら次の電車が来るので、川西町の時刻表をはじめて見た時に時刻の印刷が擦れて見えなくなっているのだと本気で思いました。指で擦ってみたりして(笑)。駅員さんに次の電車は2時間後と教えてもらいショックでしたね」
窓の外には果てしない田園風景が広がっていた。旅をしていた時には旅情や懐かしさを感じていた風景だったが、そのときには恐怖の対象になった。
文化が違いすぎる。自分はここで暮らせない。
この些細すぎる出来事は、都会の生活しか知らない塗さんを怖気づかせるのに十分だった。面接が始まるやいなや、塗さんは面接官に“辞退”を申し出る。
「自分で応募しておいてなんですけど、僕、ここで暮らす自信ないです。すみません、落としてください。たぶん縁が無いので」
自分から応募しておいてなんて言い草だと面接官は思うだろう。これくらい印象が悪ければ、問答無用で落とされているはずだ。失礼を承知での“宣言”だったが、面接官にはその姿が逆に新鮮に映ったらしい。
帰京後、無表情で開けた川西町からの封書には「採用」の二文字が書かれていた。当時の心境を塗さんはこう振り返る。
「うわ、やばいなと思って。自分で申し込んだくせに、行きたくないなと思って。もう2度と訪れる事もないだろうから、記念に川西町ならこれっ!というダリヤのクリスタルをお土産で買ったのに」
しかし、それもいまとなっては笑い話だ。
あれだけ行きたくなかった町に、いまはもう11年も住み続けている。
とはいえ、住み始めた当初は、都会の常識が通用しない暮らしにストレス満載の日々だった。その最たるものは、田舎特有の濃密すぎる人間関係だ。
「隣のおばあちゃんが、食事をしていようが、風呂に入っていようが普通に家に入ってくるんです。玄関の鍵を閉めていると『なんで鍵を閉めているんだ』と怒られて」
都会に住んでいた頃は、近所づきあいも最低限。良くも悪くも、自分のことだけを気にしていれば良い生活。それに染まりきっていた分、感じたギャップは激しかった。
自宅の前を通る農道の整備は、地域の人々の役目。農業を営んでいない塗さんとて、例外ではなかった。どうして汗水垂らして、自分に関係の無い農道を手入れしなければならないのか。求められる“つながり”の多さに、塗さんは困惑を隠しきれなかった。
夏になったらみんなで公民館に集まって、何か催しをしなければいけない。地域の冠婚葬祭も業者に頼まず、地域の人だけですべて仕切っていた。町に住み始めて3日目、名前も知らない地元の人の葬式に香典を出すよう求められたときは、思わず声を荒げてしまったという。
「なんでそんな名前も知らない人に香典出さなきゃいけないんですか、って。でも地域の人は『ここで香典を出さないと、ここでは面子が立たないぞ』というんです」
この町では、人との関わりこそがすべてだった。地域の人々と関係をつなぎ、同時に地域に対して有形無形問わず“貢献”しなければ、居場所がなく、その場にいることすらままならない。「自由に自分らしく暮らしたい」という塗さんの“理想”は、木っ端みじんに打ち砕かれた。
「自由に生きたいのに、ここでは自由がまったくないじゃないか! こんなはずじゃなかった!」
しかし、そんな濃密すぎる田舎の人間関係こそが、塗さん自身を大きく成長させることになる。
地域おこし協力隊という任務を背負った以上、塗さんには町での活動が義務づけられていた。
活動費として町から支給されるのは、毎月12万円程度。与えられた住居は、長年放置されていた空き家。快適に住むためには大幅な修繕が必要であり、そこに日々の生活費もかかってくる。支払を済ませると、手元に残るお金はごくわずかだった。
「収入面はとても厳しかったです。必要経費のほかにも毎週のように週末に飲み会があって、その代行代を払うのが大変でしたね。収入でいえば、都会でアルバイトをしていた方がよかったですね。だから、よほど地域のことが気に入って住みに来た人だとか、何か目的がある人じゃないとみんな帰ってしまう。実際に僕の4ヶ月後に来た人は、数ヶ月でギブアップして帰ってしまいました」
地域おこし協力隊に就任して1年、塗さんも町での暮らしに精神的に追い詰められていた。
「縁もゆかりもない田舎に暮らすのって、こんなに辛いんだって。別に何も悪いことをしていないのに地域には溶け込めないし、誰かが助けてくれるわけでもない。疎外感ってこういうことなんだなって」
ついにある晩、塗さんは自転車で「逃亡」しようと試みる。隣の県へ通じる峠を越えることができたら地域おこし協力隊を辞め、都会へ帰ろうと考えたのだ。
「今考えると馬鹿な話なんですけど、人間って、本当に追いつめられると何とかしてその場から逃亡しようとするんです。自転車で逃亡したのは、自分の車を持っていなかったというのと、昔、東北を自転車旅行したときに『田舎の良さ』を感じたからでしょうね。あの時の感覚に戻りたかったというか」
しかしその途中、塗さんはトンネル内の坂道でスリップ事故を起こし、重傷を負ってしまう。事故を目撃した地元住民に近くの病院に担ぎ込まれ、もっと大きな病院で診てもらうため、「誰か迎えに来てくれる人はいますか?」と言われた時、ふと我に返った。
「ケータイの電話帳に唯一登録してあったのが、隣の家の人でした。この町は嫌だと言って勝手に飛び出してきたんだから、その人に頼って連絡するなんて恥知らずもいいとこだなって。でも、そうするしかなかったんです」
担ぎ込まれた病院に駆けつけたのは、肉親でも友人でもなく、あれだけ塗さんが避けていた“地元”の人だった。
「帰りの車の中でも病院でも、自業自得だとか嫌なら実家に帰れ、みたいな感情はまったく感じませんでした。「お前は、こんな田舎でよくやってるよ、そりゃ大都会から来たら逃げ出したくもなるわな」と言われて、少しホッとしたというか。その時に競争社会の都会暮らしでは気づかなかったものを感じて、自由に生きるって自分に責任持つことだなって実感しました」
よそ者である自分をまるで自分自身のように心配する人々を見て、塗さんの考えが変わった。
ここで諦めて帰ったら、この町の人たちは「やっぱり都会から来た人は住めない町なんだ」と証明されてしまうだろう。結局、何もできずに自分のわがままで他人に迷惑をかけた事実しか残らない。そう思ったら、不思議と悔しい気持ちが沸き上がってきた。
ここで自分の価値観だけに意固地になっていたら、町も自分も変われない。どうなるかわからないけれど、とにかく考えたことを一つ一つ試してみよう。
自分なりに蓄積してきた経験や思考を、塗さんは自分なりに発信していくことに決めた。
塗さんは地域おこし協力隊への着任と同時に、町内の吉島(よしじま)地区にあるNPO法人「きらりよしじまネットワーク」に所属していた。地域の公民館を拠点とし、その地区の住民全員が“会員”として参加する、全国的にも珍しい「全戸加入型NPO」。いわば、現代版「寄り合い」だ。
「都会からシティボーイが来たぞ!」
歓迎とも冷やかしとも取れる声に戸惑う塗さんに、ある住民がこんなことを頼んできた。
「田舎の人間には気づけないが、外から来た塗さんには見えている景色がきっとたくさんあるだろう。それを発信して、見せてくれないか?」
もともと写真が好きだった塗さんは、町で撮影したさまざまな風景を個人的な趣味としてインターネットに公開していた。自分にとっては何気ない一枚も、町の人には新鮮に受け止められたという。やがて、地域のセンターが配布する会報誌やホームページに塗さん撮影の写真が掲載されるようになった。
「写真については面白いエピソードがあって、「今日は何の写真撮ってきたんだ?」といわれて「山の写真です」って言ったらセンターの人がみな爆笑したことがありました。「山なんて珍しくねーべ、そこらじゅう山だらけだべ」だそうです。でも、こういう暮らしの中で気づいた何気ないことでも、誰かの役に立つんだなと。これまで自分の独り言として内にとどめていたことも、とにかく外に出してみようと思うようになりました」
写真だけにとどまらず、移住体験を綴ったコラムの執筆や地域のガイドマップ、ホームページ、ご当地ソングの制作など、仕事の範囲はどんどん広がっていった。
「町を車で走っていると田んぼの隅に卵型の何気ない石がたくさんあって、よく見ると文字が刻んであったんです。調べてみたら草木塔(そうもくとう)というこの土地が発祥とされている石碑だと知って、昔から田舎の人は自然に感謝しながら生きてきたんだなあとか想いを馳せてましたね。やっぱり、文化とか歴史とか全然違うなって。何を信じて生きていくとか、そういう暮らしに対する考え方が根本的に違うんだと思います」
地元の人々にとって当たり前だとされていたことに価値を見いだすのが、自分の使命だ。
塗さんの中に、ひとつの芯が出来上がっていった。
興味があったが、まだやってみたことのないことにも手を出してみた。そのひとつが、野外映画祭の開催だ。地域の人の軽トラを借りて、ホームセンターで資材を買ってスクリーンを手作りした。開催当日は塗さんの知らないところで地域の人が協力してくれていてポップコーンや綿あめなどの出店もしてくれた。近所の人に声掛けをしてくれて、いつの間にか大賑わいになっていた。
「こういう知らないところで支えてくれたり、協力してくれることが、この町の人のいいところだし、粋なところです」
引っ越してきた当初は煩わしくてしょうがなかった人同士の距離の近さが、ここへ来て追い風になっていった。
「僕が町の広報誌に書いたコラムの感想を、町の人が直接伝えてくれるんです。手渡しで配るから、その場でダイレクトに反応がわかる。ここのあれが良かったとか、そういう風に言ってくれるんです。すごく嬉しいですね」
暮らす年数を重ねるにつれ、地元の人と交わす会話の中にも自分との「思い出話」が多く挙がるようになってきた。自分がこの町で過ごしてきた経験と、自分に対するイメージが蓄積されていくことに、いつしか塗さんは無上の喜びを感じるようになっていた。
中でも特に忘れられないというエピソードを、塗さんは教えてくれた。
「たまたま銀行へ行ったとき手にした町のフリーペーパーに、自分のことが書いてあったんです。『都会から来て大変だろうけど、頑張ってる』って」
不安に思っていたのは自分だけだった。
最初から、川西町は塗さんのことを歓迎していたのだ。
置賜地域に住み始めて11年。「よそ者」であった自分も、いまやすっかり「川西町の人間」だ。同時に、都会側の人間が田舎に対して抱きがちなイメージとの齟齬も感じるようになった。
田舎は生活費が安いと思われがちだが、実際にはそうではないことも知った。
「都会では家賃が支出の大きな割合を占めていますが、寒暖差が激しく積雪も多い車社会の田舎では、光熱費が都会に比べてかなり高いんです。だから、かかる費用は結局都会も田舎もそう変わらない。たまにSNSでインフルエンサーの人々が『田舎で暮らせば安上がりだ』と言っているのを見かけますが、あれは本当に住んだことがないから言えるんです」
自身も抱いていた「のんびりとした暮らし」というイメージも同様だ。「田舎暮らしって、実際にはめちゃくちゃ忙しいですよ」と塗さんは語る。
「近所の集まりは頻繁にあるし、休日になったらお祭りを手伝わないといけない。道路の掃除もしなきゃいけないし、集まりのたびにお酒を飲まなきゃいけない。でも、そうすることによって絆みたいなものが生まれるんです。この場所に住んでいるアイデンティティが」
いまでも田舎暮らしのすべてを肯定しているわけではない。いまだに違和感を感じるところも少なくない。それでも、この地で11年暮らしてこられたのは、地元でしっかりとした人間関係を築くことができたからだ。
「関係も築けていないまま『俺が変えてやるぜ』みたいな気持ちで来る人は、まず受け入れられない。『それは都会だからできるんだ』『住んだことないから、そういうことが簡単に言えるんだ』で終わりです。そりゃそうですよね。その地域のことを知らない人に、勝手なイメージで語られたくない。そういうのを突破していくためには、地域の一員になって、地道に信頼を得ていくしかないんです」
現在、塗さんは米沢市のコミュニティFM「エフエムNCV(エヌシーブイ) おきたまGO(ご)!」で制作スタッフとして働いている。手がける番組のひとつに、自身の移住体験を振り返るトーク番組*がある。毎回ゲストに迎えるのは、町でお世話になった人たち。外から自身を迎えてくれた人の視点から、そのとき感じたことを忌憚なく語ってもらっているという。
*「Over the Border」#1~#5
置賜地域での暮らしを含め、自身の半生を綴った電子書籍*も出版した。都会と田舎の暮らしの違いに向き合ってきた人間として直面した課題や葛藤を、そのまま率直に綴っている。原動力は、「自分の感じたこと、考えたことが誰かの役に立つ日が来るかもしれない」という、ただ一つの思いだ。
*書籍「Over the Border」Webエディション
移住してくる人々とのミスマッチを無くすために、必要なこととは何か。塗さんはこう語る。
「僕みたいに移住した人が、移住して感じたことを素直に発信することだと思います。 地元の人が気づかないことって、たくさんあるんですよ。最初の頃に僕が感じたように『自分だけが違うんじゃないか』と思わされる構図がたくさんある。それをおざなりにせず、一つ一つ発信するということがかなり大事だと思います」
住めば都、という言葉がある。
最初は違和感に感じていたことも、長く暮らしていくにつれて自分の中に溶け込み、忘れていく。「慣れ」と「忘れ」は、人間が安寧な暮らしを得るために備えた本能とも言えるだろう。
しかし、その違和感こそ、移住者が忘れてはいけない部分なのだと塗さんは言う。
「慣れてくると、最初感じていた違和感も全部忘れて『ここってこういう町だから、そうだよね』と考えるようになる。合わせるのは簡単だけれど、本当の意味で自分らしい生活をするためには、その違和感こそ忘れてはいけない部分だと思うんです。今までの生き方と違うから違和感があるわけで、そこを自分なりに受け入れて乗り越えないと今までと違う自分には出会えない。移住をして暮らしの環境を変えた意味がなくなってしまう。知らない土地で生きていくって、つまりはそういうことだと思います」
少しでも感じた違和感をずっと覚えていて、それを地元の人にも、これから移住してくる人にもはっきり分かる形で伝えていくことが、ミスマッチを防ぐことに繋がっていくーー。これは、外から来た移住者にしかできないことなのだ。
「人の数だけ、考え方は違うもの。それを貫かないと、自分だけの“楽しい感じ“は作れないと思うんです。だから、そこから絶対にブレちゃいけない。どんなに細かいことでも発信し続けることが大事だと思います。そうすることで、お互いのギャップみたいなものも埋まると思うし、都会でも田舎でも最後は結局、人と人だなって実感しています。人に恵まれれば、誰でもその場所に自分の居場所はあるんじゃないかと思います」
取材・文 = 天谷窓大
編集 = 藤井みさ
撮影 = いしむらひろのぶ