金のしゃちほこがそびえる名古屋城のほとり。2022年9月、名古屋市中区にある創業106周年を迎えた古紙リサイクル工場で、とあるイベントが開催された。そのイベントの名は「アートな工場祭」。普段は新聞紙や段ボールが積み重なりモノクロームな工場が、学生たちの声とともに鮮やかに色づき、地域の人たちや他業種の企業の人たちとが交流するマルシェへと変身した。
このイベントを仕掛けたのは、資源循環型企業の株式会社エス・エヌ・テーの取締役の篠田朋香さん。1916年(大正5年)に創業した篠田太吉さんのひ孫で、ミュージカル俳優を志望していた彼女が、古紙のリサイクルやアップサイクルを通して実現していきたい未来とは何なのだろうか。
「会社を舞台だと思えばいい―― 」
この言葉に支えられ、一見地味に思われがちな古紙リサイクルという舞台にスポットライトをあてた篠田さん。彼女に、次世代や他業種を巻き込むこれからのリサイクル事業のあり方への想いを聞いた。
1988年、篠田さんは愛知県名古屋市で古紙リサイクル業を営む父・篠田峰夫さんと当時は専業主婦をしていた母・泰子さんのもと、3姉妹の長女として生まれた。
祖母が日本舞踊を習っていたことから、篠田さんも3歳の時に日本舞踊を習い始めた。そして6歳の時、中区にある御園座という歴史ある劇場で、初めて中央で踊る大役を務めることになる。
「当時、日本舞踊の稽古は厳しくて大嫌いでした。日本舞踊は小学校に上がるタイミングで辞めてしまいましたが、でも、不思議と舞台に立った時の拍手喝采の快感だけは、今もずっと記憶に残っています」
小学校の高学年になると、クラスメイトの心ない言葉から、特に男性に対して、対人恐怖症に悩むことになる。
「高学年になったころから段々と体が大きくなってきたこともあり、容姿をからかわれることがありました。それからというもの、クラスでも目立たないように隅っこの方にいるようにしたし、人前に出るのも苦手。今のように人と話せるようになるまでに、すごく時間が必要でした」
当時、これといった夢も見つからず、人間関係もうまくいっていなかった篠田さんだが、中学校3年生の夏休み、彼女の人生を変える出来事が訪れる。それは「シンデレラストーリー」というミュージカル作品との出会いだった。
「鴻上尚史さんという有名な演出家の方がつくった、日本生まれのミュージカルでした。日本人が脚本を書き、日本人が曲をつくり、日本人が演出をする。それまでにも祖母に連れられてブロードウェイのミュージカルなどいくつも観てきましたが、この作品はそれらとはまったく違った。『日本人でもこんなにすごい作品が作れるのか!』と、本当に頭をガーンと殴られたくらいの衝撃だったんです。観終わった後にもしばらく放心してしまいました。それから一気にミュージカルにのめり込み、『自分もいつか舞台に立ちたい!』『裏方でもいいから舞台に関わりたい!』と思うようになったんです」
なんだか自分がからっぽのように思えていた。夢中になれるものを見つけたかった時、このミュージカルに出会って「これだ!」と感じた篠田さん。それからというもの、時間があれば雑誌『ミュージカル』を読み漁ったり、ミュージカルのCDをずっと聴いたりしながら、どっぷりとミュージカルの世界にのめり込んでいったという。
「もともと、容姿に自信を持てず、人前に立つのが得意な方ではなかったので、大学受験の時にはメディア関係や美術系など、舞台とは異なる分野も受験しました。でも結果は、ある一校を除いて全滅。その受かった学校というのが、まさに私が進みたかった分野である、名古屋音楽大学音楽学部の舞踊・演劇・ミュージカルコースだったんです。やっぱりこの道に進むべきなんだな、と腹を括りました」
ついに、夢の舞台への切符を手に入れた篠田さん。この頃にはまだ、自分が父親の家業である古紙リサイクル業を継ぐという未来は、頭をよぎることすらなかった。
「実は、大学に入ってすぐ、1年目に挫折してしまったんです」
篠田さんは当時、長女として厳しくしつけられたことや小学校のころの対人恐怖症の影響で、「これはこうするべき」「人に迷惑をかけないように周りに合わせる」など、比較的保守的な固定概念の箱に入ったような考え方をしていた。
しかし大学に入って出会うのは、個性あふれる芸術家肌の人たちばかり。彼らの行動や思考にまったく理解がおいつかず、心が折れてしまったのだ、と彼女は言う。
「あまりに自分の性格と舞台芸術の世界に生きる人とのギャップを感じて、大学受験をし直して、一度興味を持ったことがある助産師を目指そうと本気で考えていた時期もありました。でも冷静になってみると、いつ受かるかわからない浪人生活に、看護学校を4年、さらに専攻科期間が2年かかります。いろいろ考えに考えて、『ええい、せっかく開けた道だ。ちゃんと卒業までやってやる!』と、思える瞬間が来たんです。そこから少しずつ変わっていくことができました」
「このまま4年間をここで過ごす」と覚悟を決め、周囲の人々の観察を始めた。すると、今まで見えていなかったものが、少しずつ見えてくるようになった。
舞台において主役を張るためには、「人に迷惑をかけない」というような考え方では存在感を出すことができないということ。自分の「弱み」があったとしても、それを「個性」として押し出していくことで、舞台では役割を担っていくことができるんだということ。
「周囲との考え方や感じ方の違いを面白がって観察してみたら、自分にもまだまだやれることがある、ということがわかってきたんです。自分は、主役の器ではありませんでした。でも、主役たちのサポートはできると思った。もしあの時続けることを諦めてしまっていたら、まだ小さな固定概念の箱に入った自分のままだったかもしれません」
この舞台芸術の世界から学んだことが、後に家業を継いだ篠田さんに、大きな影響を与えていくことになる。
前向きな気持ちで音大での時間を過ごすことができるようになったものの、同時に大好きだったミュージカルを仕事にするという大変さも知った篠田さん。「音大での4年間をやり切って、一般企業で働こう」と決心するも、リーマンショックの後で就職活動は難航。一般企業への就職は叶わず、卒業後は大学の先輩からの縁で日本舞踊の先生の事務所でアルバイトとしてアシスタント業務をすることに。その事務所で働きながら、年に1〜2回、地域の劇団の舞台のオーディションを受けては出演をするという暮らしが始まった。
舞台に関わる道を歩む娘に対し、両親はずっと協力的で良き理解者であった。社長である父・篠田峰夫さんも、家業を継ぐことを提案するどころか、家業について話すことすらあまりなかったという。
「父はしつけには厳しい人でしたが、とても子煩悩。忙しい仕事の合間をぬって、習い事の送り迎えをしてくれたことを覚えています。家業については、生まれたのが3人とも娘だったので、いつかお嫁に出てしまうと思っていたのかもしれません。改めて父と家業について話したことはほとんどなく、実際に仕事をするまで古紙リサイクルの仕事の内容はまったく知りませんでした」
家業との関わりに変化が訪れたのは、2014年。舞台の世界に関わっていくことに限界を感じ、大学卒業後に働いていた事務所の仕事を辞めて、転職活動を始めたのを見た父から「新規事業を手伝ってくれないか」と声をかけられたことがきっかけだった。まだ次の仕事が決まっていなかった篠田さんは、もともと2016年の創業100周年記念式典の企画に関わることになっていたこともあり、「いいよー」と気軽に仕事を引き受けた。
そして迎えた2016年。ドタバタの中で100周年式典を終え、まだ舞台への出演なども続けながら、週に3日ほどバイトとしてエス・エヌ・テーに通っていたある日、社長である父・篠田峰夫さんが突然こんなことを言い出した。
「取締役にお前を入れた」
思わず「は?」と声に出してしまうほど、それは突然の出来事だった。何の事前の相談もなく、父が娘を取締役に就任させたのだ。
「あの時は、私の代わりに、母が怒ってくれていましたね。『何で本人の確認も取らずに、娘の人生を決めるようなことをするんだ』って。これは後から聞いた話ですが、父は私たちには『家業を継いでほしい』とはひと言も言ってきませんでしたが、周りの友人などにはやっぱり継いでほしいという気持ちをこぼしていたみたいです」
父の会社で働くようになってからというもの、「継ぐんでしょ?」という周囲の期待を感じて続けていた。さらにちょうどその頃、長年働いていた社員さんが辞め、バイトという立場でありつつも篠田さんがエス・エヌ・テーのNo.2になっていたことで、どこか責任も感じ始めていた。
「取締役になるのなら、バイトじゃなくてちゃんと社員として働きます」
腹をくくった篠田さんは、エス・エヌ・テーで働くことを決意する。
取締役就任後、本格的にエス・エヌ・テーでの仕事を開始した篠田さん。しかし、舞台と古紙リサイクル業界の仕事のギャップは大きく、やりがいを見つけられずに苦しむ時期が続いた。この頃の自分は「どん底」状態だったと彼女は言う。
「古紙リサイクルの仕事は、本当にこの社会にとって必要な仕事であると思います。それでも、あまりにも華やかな舞台の世界から、淡々と地味に見える古紙リサイクルの世界に来て、どこに楽しみを見つけたらいいのか、当時の私にはわからなかったんです。『なんで自分はこの仕事を選んでしまったんだろう』という気持ちと、『目の前の仕事に楽しみを見いだせない自分が嫌だ』という悔しさを、夜な夜な飲み歩いては友人にこぼしていました」
どんどん気持ちが落ち込んでいってしまっていたある日、友人から「自分の会社を舞台だと思えばいい」と言われ、はっとした。「…確かにそうだな」と、目が覚めたような気持ちになった。
ふと、夢へと一歩踏み出した矢先、心が折れそうになった大学1年の頃を思い出す。そうだ、舞台では「弱点」すら「個性」にしていくことで一人ひとりが輝いていくことができていた。それなら、今の仕事で私がやるべきことはなんだろうか?
友人の言葉を聞き、仕事を舞台と捉えて、それをどうやったら面白くできるか考えればいいんだ、と発想を転換することができた。仕事に面白さを見つけられないなら、面白いと思える仕事にしてしまえばいいんだと。
「その時、ふと過去に読んだ本に書いてあった『他人と過去は変えられない。でも自分と未来は変えられる』という言葉を思い出したんです。そうだ、自分から変えていくしかないんだって。そこで『こうあるべき』の枠をとっぱらって自由にアイディアを考えられたのは、大学時代に自由な人たちと一緒にやってきた経験があったからだと思います」
友人の言葉から、ミュージカル俳優を目指した自分が、古紙リサイクルの世界にいる意味を見出しはじめた篠田さん。ここから、篠田さんを中心としたエス・エヌ・テーで、新しい取り組みが次々と生まれていくことになる。
「一緒に仕事をした人に『面白かった』と言って欲しい」
そう心に決めた篠田さんは、自分が感じた違和感にふたをせず、ひとつひとつ向き合っていくことにした。まず始めたのは、業界の枠を超えて人と出会い、一緒になにかを生み出していくという取り組みだった。
「古紙リサイクルの仕事は、新聞紙やダンボールなどの紙類を集め、リサイクルして販売するという、単調な同じ作業の繰り返しです。業界も閉じてしまっていて、他業種との接点も少なく、若い世代がなかなか入ってきません。そうなると同じ人とばかり仕事をすることになり、考え方が固定され、すぐに時代に取り残されていってしまいます。そうならないように、もっと他業種との繋がりを広げたり、若い世代との交流から、自分たちの思考をアップデートしていきたいなと思ったんです」
そこで2020年に始めたのが「spread circulation SNT」というインターンプロジェクト。エス・エヌ・テーと学生インターンを中心としたチームを組み、アップサイクル事業の事業開発を行うことにした。派遣会社に依頼して企画運営を手伝ってくれる学生を求めたところ、アップサイクルやイベント企画に関心のある学生たちが集まった。
アップサイクルとは、本来であれば捨てられるはずの廃棄物に「デザイン」や「アイディア」といった付加価値を持たせることで、別の新しい製品にアップグレードして生まれ変わらせること。「spread circulation」には「拡張する循環」という意味が込められており、エス・エヌ・テーではこのプロジェクトを通して、工場に溢れる新聞紙や段ボールなどの資源のリサイクルだけでなく、アップサイクルにも積極的に取り組んでいる。
「spread circulation SNT」の特徴は、学生インターンを採用していることのほか、積極的にデザイナーやアーティストとのコラボレーションを行ない、エンターテイメントを意識したプロジェクトが生まれている点だろう。これまで愛知県出身の現代アーティストのYoh Nagao(長尾洋)さんや、デザイナーの清水夏樹さんなどとコラボして来た。
「自分が舞台芸術の出身であるからかもしれませんが、より多くの人を惹きつけ、巻き込んでいきたいと思ったら、デザインとエンターテイメント要素は必須だと思うんです」
「spread circulation SNT」からは、これまでにアップサイクルの体験ワークショップ「新聞バックでジャンケンポン」や、アーティストとコラボレーションした「5感と段ボール -リメイク照明展-」、古紙を利用したアップサイクルブランド「Lune Lune」の立ち上げなどさまざまなプロジェクトが誕生している。
さらに篠田さんは、地味に見えてしまう部分を外に見せようとしないという、業界にありがちな体質の変革を始めた。
「リサイクル業界は、コツコツ集めていけばそれなりにお金になってしまうので、比較的保守的なんです。新しいことへのチャレンジをしようという文化もありませんし、自分たちを外へ『見せる』ということもほとんどしない。でも、工場での作業ひとつをとっても、見せるってすごく大事だよなって。こういった古紙リサイクルという仕事がないと、日々これだけのごみが出てしまうんだよということも、実際にその現場を見るだけで伝わり方って違いますから」
この改革の中心となるプロジェクトが、「spread circulation SNT」から2021年にはじまった「アートな工場祭」だ。
「アートな工場祭」は、堀川のほとりにあるエス・エヌ・テーの工場を開放し、人と人、企業と企業のつながりを生むアートイベント。初年度の2021年は展示をメインとしていたが、翌年2022年からはマルシェとして参加企業を募集したところ、約10社が集まり、学生によるパフォーマンスやライブアートとともに、普段とはまったく違う工場の風景が生み出された。
「とにかく、工場にいろんな業種の人に集まってもらうということが大事だと思いました。そこで出会った人たちがつながって、なにか新しいことが生まれていく。自分たちの場を開放していくことで、新しい可能性を生み出せるんだということが、一歩踏み出していない人たちにも見せられたらいいなと」
2021年、2022年と続けてきたことで、より広い業種の人たちから「自分たちも関わりたい」という声が届くようになった。
「見せる、ということを、本当にもっとみんなやったほうがいいと思います。見せるということで、これまでに接点のなかった人たちとの関わりしろが生まれて、新しい可能性にも気づくことができる。2023年もまた、新しい可能性を探して、チャレンジしていきたいと思っています。この場でしっかり収益が上がる仕組みをつくり、輪が広がっていく場所へとさらに成長させることが目標です」
「アップサイクルもリサイクルも、どちらも『正しい』と思っているわけではないんです。例えばリサイクルは、実際にはその工程で大量の水や電気を使います。環境のことを考えた時、リサイクルが本当に『正しい』選択肢なのかどうか、これはとても難しい問題なんですよね。本当に目指すべき最終ゴールは、100年後の地球を守ることだとしたら、リサイクルやアップサイクルは、その手段のひとつに過ぎません。『正しい』からやるのではなく、『ゴール達成のための選択肢を増やす』や、『それを一緒に実現していく仲間に出会う』ためにやっています」
なにが「正しい」かどうかを考えると、時に視野が狭くなり、複雑に入り組んでいる全体像が見えなくなってしまう。そういった「正しい」という尺度を手放し、「仲間に出会うための手段」という方向へと舵を切ったのだ。
今のやり方が、いつか時代にマッチしなくなることだってある。その時に選択肢がたくさんあれば、また別の手段を使って解決に近づいていくことができる。そのビジョンを共有できる仲間に出会うために、今日も新しいチャレンジを続けたい。それが彼女の願いだ。
「『オーシャンズ11』という映画をご存知でしょうか。それぞれ分野の違うプロフェッショナルがぐっと集まって、ひとつの目的を達成するためにその専門性をチームで発揮し実現していく作品です。このチームの互いにリスペクトしあっているそのあり方が私の理想で、いつかそんな風に仕事ができたらと思っています。ひとりでは変えられないし、10人集まってもそんなに変わらないかもしれません。でもそんなチームがあちこちで増えていって、社会全体が少しずつ変わっていくことが大事なんじゃないかなと思っています」
困難にぶつかるたび、自分と向き合い、仕事と向き合い、自分なりのやり方で答えを見出していく篠田さん。その仕事の切り拓き方には、ミュージカル俳優を目指し学んできたことが大きく影響している。
「小学生の時に心ない言葉で傷ついた過去も、舞台芸術の世界に踏み込み、一度挫折を味わった過去も、家業を継ぎそのギャップに苦しんだ過去も、すべてが今の自分に繋がっています」
創業105年以上という歴史を積み重ねてきたエス・エヌ・テーでの古紙リサイクルの仕事に、舞台芸術というエンターテイメントの風を吹き込ませている篠田さん。
ここから古紙リサイクルという業界の新しい可能性が生まれていく。
取材・文・撮影 = 谷本明夢
編集 = 川内イオ