「父が育てた卵を広めたい」養鶏場で働く姉妹がとびきり美味しいマヨネーズを作るまで|奈良県「さかもと養鶏」

2022.8.10 | Author: 池田アユリ
「父が育てた卵を広めたい」養鶏場で働く姉妹がとびきり美味しいマヨネーズを作るまで|奈良県「さかもと養鶏」

奈良県南西部に位置する五條市に、養鶏場を営む姉妹がいる。

 

「さかもと養鶏」の3代目として鶏の飼育管理を行う阪本未優(みゆう)さんと、経理・販売を担当する姉の雅(みやび)さん。ふたりは、父が開発したオリジナルの赤卵「白鳳卵(はくほうらん)」を育てている。白鳳卵は、国産のチキンミール(鶏由来の肉骨粉のこと)を配合した飼料で育てた鶏から毎朝1万個ほど産まれる。コクと甘みのある味が特徴だ。

 

父亡き後、白鳳卵が「奈良県鶏卵品評会」にて最優秀賞を受賞。その後、姉妹は白鳳卵で養鶏を盛り上げるべく、2020年12月にクラウドファンディングを行い、715名の支援者から約300万円を集めた。2022年にはコンテスト「にっぽんの宝物 奈良県大会・JAPAN大会」に出品した「たまご農家の作ったなかよしディップ」が部門グランプリを受賞し、審査員から賞賛の声が上がる。

 

「姉とふたりだから続けてこれたんです」と話す未優さんに、今までの道のりを聞いた。

常連客が卵を買いに来る直売所

奈良の大和二見駅から、車で細い坂道を登っておよそ7分。山に囲まれた一軒の日本家屋にたどり着いた。

入口には「阪本」の表札。その反対側の壁には「さかもと養鶏」という看板が掲げられている。隣接している白い壁の大きな鶏舎から、コケコケッと鶏の声が聞こえた。この養鶏場のなかには1万4000羽ほどの鶏がいる。

養鶏場の背後から、空の卵パックを持った初老の男性がやってきた。一軒家に隣接する平屋に入っていく。しばらくすると、パックにいっぱいの卵を両手で抱えながら出てきた。パックを持参するということは、常連客なのかもしれない。

次に現れたのは、車でやってきた60代ぐらいの夫婦。「いつもこちらで卵を買われているんですか?」と尋ねると、婦人が購入したばかりの淡い色をした赤卵を見せながら言った。

「もう長いこと、ここの卵しか食べてないの。鶏のエサは安心なものを使っているし、スーパーの卵よりおいしいからね。ほかは食べらんないわ」

平屋の正体は卵の直売所。私も実際に入ってみた。ローテーブルに卵がずらりと並んでおり、鶏とひよこのイラストや、ショッキングピンク色の作業着を着た姉妹の写真が飾ってある。

この直売所では、個数ではなくキロ単位で販売されている。例えば、2キロ(約30個)が税込み1,060円。スーパーで売られている卵より数百円高いけれど、多くの常連客が白鳳卵を買いにやってくる。

しばらくすると、さかもと養鶏の3代目の未優さんがやってきて、事務所へと案内してくれた。

取材の日、未優さんの姉である雅さんは、ゴールデンウイーク中に子どもを出産したばかりで産休中だった。そのため、今は未優さんが姉の仕事を兼任していているそうだ。

「事務作業や販売も、ぜんぶ自分で行わなきゃいけなくてほんと大変です。姉の存在の大きさを感じる毎日ですね」と未優さんは笑った。

 

未来ある養鶏場を目指した父、父の卵を広めたかった娘

未優さんの祖父が養鶏場を創業したのは1964年、祖父が30代の頃だ。当時、養鶏の売り上げはうなぎ上りで、卵を量産すれば飛ぶように売れた。この状況をチャンスだと思った祖父は鶏舎をもう1棟増やし、雛を育てるための棟も建てた。その時はおよそ6万羽の鶏を飼っていたそうだ。

しかし、未優さんの父・光志(みつじ)さんが引き継いだ後、急拡大した事業に暗雲が立ち込める。

「父は20歳で養鶏場を引き継いだのですが、大量生産すれば儲かる時代が終わり、卵の単価が一気に下がりました。父はよく、『維持費で借金ばっかりだ』って嘆いていましたね」

2000年頃、光志さんは量ではなく、質で勝負するために経営方針を切り替えた。鶏の数を減らし、鶏舎は一棟に絞る。卵の品質を徹底的に追求し、14年の月日を重ねて一般的な卵より味にコクと甘みがある「白鳳卵」を開発した。

父が仕事に奮闘している最中、未優さんと雅さんは誕生した。

1991年に生まれた未優さんは、2歳上の雅さんとともに養鶏場で幼少期を過ごした。

未優さんは物心ついたときから養鶏場で卵を取るのを手伝っていた。料理を作ることも好きで、台所に向かう母の横で真似をしていたという。

「なんでもやってみたいし、手伝いたい子どもでしたね。姉がアレルギー持ちだったので、両親は姉に付きっきりになることが多くて、私はおじいちゃんとおばあちゃんに面倒を見てもらっていました」

勉強が得意だった雅さん。中学校では生徒会長になり、高校では絵を描くことに目覚め、油絵で全国大会に出場。その後、愛知県の美大に入学し、ひとり暮らしをしていた。

一方、運動が得意な未優さんは小・中・高とバレーボールに取り組んだ。大学進学の際には、「関西は離れたくないけど、ひとり暮らしをしてみたい」と思うようになり、京都文教短期大学の家政学科を受験し、無事合格。家を出て、1ルームのアパートで新生活がスタートした。この学科を選んだのは、栄養士の資格を取得するためだった。

「子どもの頃から料理を作るのが好きだったこともあって、最初は料理人になるつもりでした。ただ、調理師免許なら飲食店で働きながらでも取れるし、国家資格である栄養士を取得してからにしようと思ったんです」

進学当時、未優さんは「自分が継ぐべきなのかな」と思ったという。しかし光志さんはふたりの娘に対して、「養鶏場は俺が最後にするから、お前たちは好きなことをしなさい」と言って送り出したそうだ。

そのため、未優さんも料理人を目指したのだが、在学中にハッとする出来事があった。

成人式の日、小学校を卒業するときに運動場に埋めたタイムカプセルを同級生たちと掘り起こした。未優さんは自分が埋めたものをすっかり忘れていたのだが、入っていたのは大人になった自分への手紙だった。

「お父さんの作った卵で、お店を開いてますか?」

手紙にはそう書かれてあった。

「父の卵で育ってきたから、小学生の頃からそんな夢があったのかなと思います」と、未優さんは振り返った。

父・光志さんと鶏舎内にて。(提供元:さかもと養鶏)

 

父の死、母の病

短大を卒業後、未優さんは栄養士になり、大阪で小中学校の給食調理の仕事を始める。一方、姉の雅さんは愛知県にある広告デザインの会社でデザイナーをしていた。

2014年の12月、仕事に邁進するふたりに、父がすい臓がんを患っていることが知らされる。

「父は1年前から『背中が痛い』と言っていたんです。家族は『早く病院行ってきいや』って促しました。でも、農家の人って、たいてい『忙しいから』と言って休まないんですよね。その後、体調不良が続くので、見かねた母が病院に連れて行ってきました。検査結果を聞いた母から、電話で泣きながら『余命1年だって……』と言われたことを覚えています」

2015年の元旦、父は家族を集めて、「まだまだ頑張りたいことがある。仕事を続けながら抗がん剤治療をする」と話した。

父の一大事を受けて、未優さんは奈良で栄養士の仕事ができるようにした。しかし、父の体調はみるみるうちに悪化。未優さんはすぐにでも父のそばにいるべきだと思い、4月末に会社を辞めて実家に戻った。

5月末、雅さんも「デザイナーの仕事はどこでもできるから」と、仕事を辞める。そうして家族揃って家業を手伝い始めた矢先の同年6月5日、光志さんは帰らぬ人となった。56歳という若さだった。

悲しみに暮れる間もなく、母と姉妹は父が残した養鶏場の営業を続けた。そのわずか3か月後、今度は母・千恵子さんが体調不良を訴え、突然嘔吐した。雅さんが病院に連れて行くと、即入院となり、検査入院中に緊急手術となる。

手術を終えた後、医師からは「もしかしたら十二指腸がんかもしれない。そうだとすると助かる見込みがない」と言われ、姉妹は絶望の淵に立たされたような気持ちになった。

検査の末、千恵子さんの病気は血液のがんである悪性リンパ腫で、治癒の可能性があるものだとわかる。千恵子さんは通院しながら完治を目指し、姉妹は養鶏場の仕事を続けた。

 

養鶏場を辞めたい…姉妹の葛藤

2016年8月頃、未優さんは父の死をきっかけに、いったん養鶏場をたたもうと考えた。ただ、辞めるにしても、方法がわからない。

そこで、父と親しかった食鶏会社(鶏の食肉処理を行う業者)の代表に相談。すると、「養鶏は再起するのは難しいんだよ」と教えられた。その理由は、近隣の住民から鶏の鳴き声や臭いへの理解を一から得るのが大変だから。また、解体費用には数千万円ほどかかることがわかった。

それでも未優さんは、「私には続けられない」と思った。雅さんがアレルギー体質のため、未優さんが鶏舎での仕事を担っていた。当時24歳の未優さんは「なんで私だけ汚れ仕事しなきゃいけないの!」と思ったという。

ある日、もともとデータ分析が得意だった雅さんがパソコンに向かい、エクセルで事業にお金がどれだけかかるのか勘定した。未優さんと千恵子さんを居間に呼び、表を見せながら会議を始めた。

大黒柱がいなくなった阪本家。姉妹と母、祖父母の5人が生きていくためにはどれくらい必要なのか。はたして養鶏場をたたんで、会社勤めでやっていけるのだろうかーー。

話し合いの中で、雅さんが未優さんにこう言った。

「1回だけ頑張ってみよう。やめるのはそれからでも遅くないよ」

その言葉を聞いて、未優さんは「よし、やらなあかん」と腹を決め、養鶏場を継続させる決意をした。

雅さんと未優さん。

その後、食鶏会社の代表から養鶏コンサルタントを紹介されたことで姉妹の運命は好転していく。養鶏コンサルタントとは、鶏の扱い方や作業のポイントなどを教えてくれる畜産指導者のこと。

さっそく会いに行くと、「続ける道はある。本当に続けたいなら力を貸すよ」と背中を押され、姉妹はその養鶏コンサルタントと契約することにした。

しかし、先代である祖父から猛反対を受ける。人に教えてもらって続けるものではないという思いから、祖父に「お金を払ってまでするぐらいなら、やめてまえ」と言われ、未優さんは大喧嘩してしまう。

そもそも、未優さんは祖父から養鶏を学ぼうとしなかったのはなぜだろう?

「祖父は鶏舎で使う機械が壊れるとその場しのぎの直し方をしていて、同じようにやっていくのは先が見えないなと感じてしまって。それに、祖父は休みなく働くのが普通という感覚だったので、生き方の違いを感じて祖父のやり方では続けられないと思ったんです」

両親が休みなく働いたことで病気になったのでは、という思いがあったからかもしれない。養鶏場の働く環境を整えるために、光志さんは祖父と衝突することが多かったそうだ。自らの身体を酷使しながらも養鶏場の働き方を変えようとした父の姿が忘れられなかった。

未優さんは祖父に「一回自分たちでやってみるから、黙って見ていてほしい」とお願いした。祖父は最初こそ口を出していたが、未優さんの本気が伝わったのか、次第に様子を見るようになった。

未優さんは養鶏コンサルタントからの指導を仰ぐうちに、養鶏場の問題点に気が付いた。鶏が健康でなければおいしい卵が産まれない。鶏舎の換気や鶏に与える水の品質、こまめに体重や糞の状態を確認できる環境づくりが必要だと思った。

未優さんは養鶏コンサルタントに頼り切ってはいなかった。養鶏関係の知り合いに学んだ知識を共有し、取り入れるべきかどうかを一つ一つ吟味しながら向き合った。そして2016年の11月、父が目指した働きやすい環境に整えるべく、養鶏場を法人化。再スタートを切る。

鶏の健康状態をチェックする未優さん。(提供元:さかもと養鶏)

 

父の開発した卵が認められた 

2016年12月のある日、さかもと養鶏に吉報が届く。奈良県が開催している「鶏卵品評会」にて、白鳳卵が最優秀賞を獲得したのだ。鶏卵品評会とは、養鶏関係者や消費者が卵の形状や卵殻の厚みなどの外見と、卵黄・卵白の形状や色調などの中身を審査するコンテストだ。

約40件の出品の中から1番になった同大会。「今作っている卵がいいか悪いかがわからないから、とりあえず出してみよう」と軽い気持ちで応募したのだが、未優さんは応募したことを忘れていたそうだ。

受賞の連絡を受けた雅さんは、「続けてよかったんだ」と安堵した。それは、父が人生をかけて開発してきた卵が認められた瞬間だった。

「私たちが今どんなにがんばっても、なかなか最優秀賞は取れないんですよ。この賞は私たちではなく、父が獲得したんです」

2017年、母・千恵子さんに、またもや試練が訪れた。

病気から回復して、養鶏場を手伝い始めた矢先のことだった。千恵子さんが卵をパックに詰める機械を操作しているときに服が巻き込こまれ、腕が機械に挟まれて骨折してしまう。

いつもなら、何かあった時すぐに機械を止められるようにとふたり体制で作業を行うが、この時は未優さんが忙しく、千恵子さんだけで機械を操作していたのだ。近隣の小学校に到着したドクターヘリで、千恵子さんは病院に搬送された。指の神経を移植するほどの大ケガだったが、手術は成功し、事なきを得た。

その後、未優さんは事故の元となった機械を最新のものに変えた。家族が休みなく働き続ける状況を改善させるため、アルバイトと社員を雇い、人に任せられる環境づくりを行った。

現在は、卵を自動でパックに詰める最新式の機械を導入。

鶏舎の換気扇の工事、設備の修繕工事も行ったことで、全部で4,000万円ほどお金がかかり、国からの補助金や農協への借り入れを申し込む。経理を担当していた雅さんは、「こんなにお金を使って大丈夫なん?」と心配した。けれど、未優さんは必要な先行投資だと思い、環境づくりの手を緩めなかった。

また、未優さんは、「鶏は種鶏場で育種改良が行われているのに、同じエサを与え続けるのはどうなんだろう?」と思ったことから、今の鶏に最適な栄養素が入ったエサの配合を自ら調整した。

一般的に市場に出回る卵を産む鶏のエサは、穀物やトウモロコシ、大豆が使われるが、さかもと養鶏では、国産のチキンミール(鶏由来の肉骨粉のこと)を配合したエサを使用。良質な動物性タンパク質が含まれており、コクと甘みのある卵が産まれるそうだ。

こうして未優さんは、人が安心して働けて、鶏が健康的な卵を産む環境を整えた。

ちなみに、千恵子さんは今では自ら車を運転するほど回復している。

「休みの日に趣味の山登り出かけるなど、今では母が家族の中で一番元気です(笑)。たくさんの試練を乗り越えてくれて、母はほんまに強いなって思います」

母・千恵子さんと。

 

クラウドファンディングで、養鶏場を救いたい

 2020年春、新型コロナウイルスが猛威を奮い始めたことで、養鶏の業界にも影響が出た。

前述したように、さかもと養鶏では自宅の隣に直売所を設けており、そこの売り上げが全体の6割を占めていた。そして、残りの4割は卸業者が買い取っている状況だった。

しかし、4月に緊急事態宣言が発令され、卸業者から「百貨店も休業するので卵を引き取れない。1週間以内に別の業者を探してくれ」と連絡がきた。

このままでは、毎日約1万個産まれる卵の半数以上が廃棄になる……。

この状況を救ったのが、雅さんだった。

その頃の雅さんは広告制作会社で培った知識を活かして、自社のホームページを作成。BASEなどのECサイトでオンライン販売にも取り組み、早い段階で自分たちで卵を売る仕組みを整えていたため、なんとか卵を売り続けることができた。

同年の12月初旬、さらなるピンチが襲う。県内の養鶏場で鳥インフルエンザが発生したのだ。発生地から5キロほど離れており、さかもと養鶏に直接被害があったわけではないが、一時的に卵の出荷を止めざるを得なかった。

「鳥インフルエンザが起こったのは、いつも相談に乗ってくれている養鶏場のお兄さんのところでした。直接連絡があり、落ち込んだ声で『ごめん。迷惑かけてしまって』と言われたんですが、姉も私も、『起こそうと思って発生したわけじゃないから謝る必要はないのに』って思いました」

そこで、今の養鶏の状況を多くの人に知ってもらおうと、12月15日、クラウドファンディングを立ち上げた。

コロナや近隣の鳥インフルエンザの影響で余りがちな卵を、廃棄せずに届けることをテーマにしたこの企画は、世間で食ロス問題に注目が集まっていたことも手伝って、3日間で100万円が集まり、月末には支援者が700人を超えた。リターンはもちろん白鳳卵。卵を梱包するダンボールには、姉妹がイラストとメッセージを描いて送った。

支援者からは、「まろやかで甘みのある味」「リピートしたい」「イラストとメッセージに癒される」と声が届いた。その後、集まった金額の15%は養鶏組合に送り、鶏インフルエンザの被害があった養鶏場への補助金として寄付をした。

 

「奈良×卵」でオリジナルソースを開発

クラウドファンディングを終えた2021年の冬、雅さんはもうひとつの挑戦をしていた。

ドキュメンタリー番組「ガイアの夜明け」で、2019年に特集が組まれたコンテスト「にっぽんの宝物」に白鳳卵を出品したのだ。

このコンテストは各地域で開催され、最終日に東京で全国大会が開かれる。雅さんは奈良大会に出場し、素材・調理部門で審査員特別賞を受賞した。

(提供元:さかもと養鶏)

この結果を受けて全国大会の出場権を得た。しかし、さかもと養鶏はクラウドファンディングの返礼品の準備と日々の養鶏の仕事に追われ、とてもコンテストどころではなかった。

未優さんから「今、無理して取り組まなくてもいいんじゃない?」と促され、雅さんは泣く泣く全国大会の出場を辞退。2022年、姉妹で同コンテストに再挑戦することにした。

けれど、卵だけでは去年と変わらないし、インパクトに欠ける……。そこで、卵を使った加工品の開発に取り組むことにした。

姉妹で相談の末、「マヨネーズなら認知度も高いからいいかもしれない」と考え、マヨネーズを作る業者を探した。愛知県にあるマヨネーズの加工会社を見つけ、電話で相談したところ、白鳳卵で試作品を作ってもらうことになる。

届いたマヨネーズはとてもおいしかったが、「もっと差別化できるものも作るべきではないか?」と考えた。

そこで目を付けたのが、マヨネーズ作りで捨てられてしまう卵白だった。

「食ロスの問題もありますが、大切に育てた卵の一部が捨てられるのは養鶏の人間にとっては悲しいことです。それで、卵黄と卵白、それぞれのマヨネーズを作れないかと考えました」

その後、雅さんがYouTubeからある動画を見つける。その動画ではシェフが卵白を使ったマヨネーズを紹介しており、「淡白で素朴な味なので、バジルなど味の強い素材と組み合わせるといい」と語っていた。

「素材との組み合わせとなると、プロに相談した方がいいかも」と考えた雅さんは、コンテストで親交があった奈良市にあるレストラン「セトレならまち」の井田弘料理長に連絡し、「卵白と何か素材を組み合わせたマヨネーズを作りたいんです」と相談。料理長は二つ返事で引き受けてくれた。

料理長から、いくつかの試作品が届く。試食するとどれもおいしくて、姉妹は思わず顔がほころんだ。

なかでもふたりが気に入ったのは、刻んだ奈良漬とシナモンが入った卵白のマヨネーズ。味の良さはもちろんだが、奈良漬けという県の特産品を使っていることに魅力を感じた。

また、シナモンは奈良時代に正倉院で所蔵され、漢方薬として使われていた、といういわれがあった。姉妹は「これは奈良でしか作れないものだね」と思い、商品化することにした。

 

子どもだった自分への返事

迎えた2022年2月、東京で「にっぽんの宝物」の全国大会が開かれ、未優さんが出場した。

昨年から先陣を切って準備を進めていた雅さんは、この時妊娠しており、つわりがひどくて大会に参加することができなかった。姉に思いを託された未優さんは、ひとりでコンテストの舞台に立った。

「喋ることは苦手だし、あがり症で人前に立つと言葉が詰まって出てこなかったりするので、めちゃめちゃ練習しました」という未優さん。

出品した「たまご農家の作ったなかよしディップ」は、奈良大会の新体験・加工部門と、全国大会の調味料・ソース部門でグランプリ、ダブル受賞を果たす。

プレゼント用に包装された、「たまご農家の作ったなかよしディップ」。

実際に2つのマヨネーズを試食した。濃厚な味わいの「きみのマヨネーズ」と、まるでデザートのような甘さを感じる「しろみのスイートディップ」。口に含んだら、「おいしい!」と思わず声が出た。現在、同商品は直売所とオンラインで販売中だ。

未優さんは、次なる目標を定めていた。

「これからは地域の活性化にも取り組みたくて、奈良の素材とどんどんコラボしたいと思っています。多くの人に白鳳卵を知ってほしいし、過疎化が進む五條市を知ってほしいんです。数年後には卵をたっぷり使った軽食店を設けて、生産者の方から素材を仕入れ、その人たちを紹介していきたいです。人と人との繋がりの大切さも、世の中に伝えていけたらと思っています」

小学生だった未優さんへの手紙には、「お父さんの作った卵で、お店を開いてますか?」と書かれてあった。私が「タイムカプセルで書かれた夢が、続いているんですね」と聞くと、未優さんは笑って答えた。

「そうですね。あの頃の気持ちが活きてるなぁって感じます」

 

取材・文・撮影 = 池田アユリ
編集 = 川内イオ

シェア

  • Twitter
  • facebook
  • はてなブックマーク

カテゴリ