この町の風景をつくりたい——
小田栄治さんは、25年前に美瑛を訪れたときにそう思った。今では、小田さんの営む「スプウン谷のザワザワ村」は、東京ドーム約10個分の敷地面積をもつ。その景色はまぎれもなく、美瑛の美しい丘が織りなす風景の一部である。
ザワザワ村は、北海道・美瑛にあるペンション施設だ。丘と丘のくぼみにあるため、一般道路からは見えない。宿泊予約をした人だけが、その美しいヨーロッパの村のような景色を眺めることができる。
小田さんはもともと、製薬会社で働くいち会社員だった。それがなぜ、広大な敷地に5棟のペンションと畑を——?
じつは、この広大な敷地を小田さんが営むようになるまでには、15年という長い月日がかかった。
小田さんは1964年に、兵庫県・神戸で生まれた。ものづくりが好きな父と祖父をもち、ある日、裏庭に大量のコンクリートブロックが積んであると思ったら、父が手製の風呂をつくっていた。祖父は手先が器用で、ミニチュアで精巧な木工細工をつくっては、小田さんに見せてくれた。
その影響もあってか、小田さんの小学校の図画工作と、中学の美術・技術の成績は「目をつぶってても5」。三次元的な発想が得意で、「目の前に複雑な立体があったら、それを真後ろから見るとどう見えるか? を一瞬で頭のなかに描ける」ような子だったという。
学生時代は山岳部に入り、大学で経済学を専攻した小田さんは、当時文科系の学生の就職先として一般的だった製造業の道へ。大手製薬会社の大阪本社で、商品企画室のプロダクトマネージャーとして、医薬品や医薬部外品・健康食品などの企画開発をした。こつこつと努力をするタイプの小田さんは、当時最年少で国内のブランドマネージャーを任された。
「その頃は美瑛の存在を知りませんでした。北海道といえば、年に数回出張で札幌へ来ていたことと、毎年冬に同僚たちと富良野スキー場を訪れていたぐらい。信州と比べて雪質がいいから、『ちょっと贅沢な冬の旅先』ぐらいにしか考えていませんでした」
ある日の札幌への出張中、小田さんはタクシーの運転手に何気なく「プライベートで旅行に来るなら、どこがおすすめですか?」と尋ねてみた。すると運転手が「景色がいいようで、観光客が増えているらしい」と、美瑛のことを教えてくれた。
翌年、1997年の夏。運転手の話が印象に残っていた小田さんは、「どんなところなんだろう?」と、家族旅行も兼ねて美瑛を訪れた。長男は当時、1歳になるかならないかだった。
「なにか別の、日本じゃないところに来たような衝撃を受けました。それまで、ずっと企業戦士として頑張ってきて、趣味に時間を使った記憶も一切なかったんです。でも第一子が産まれてから、『あれ? このままでいいのかな?』と、少しずつ、生き方・暮らし方への価値観が変化していく自分を感じていました。それと、美瑛の自然との出会いが噛み合わさって、違うキャリアを歩むことを考え始めました」
小田さんはこの日を機に、「会社を辞めたら何ができるかな?」とぼんやり考え始めた。思い切って会社を辞めたのは、2年後。小田さんがまず取った行動は、フリーランスになることだった。
職種として選んだのは、会社員時代と同じ、医薬品関連の商品開発職。製薬会社とアドバイザリー契約を結び、市場リサーチや製品導入のコンサルティングをするのだ。「簡単に言うと、外部の商品企画マン」だと小田さんは言う。
大阪は、日本国内でも製薬会社の本社が集まっている場所だ。小田さんはその多くと前職でつながりをもっており、そこへ自らアプローチし、顧客を開拓していった。
ゆくゆくは、コンサルティングだけではなく、クライアントに採択された商品を自社で開発して、納品まで行うビジネスモデルをつくろうと考えていた。会社はすでに法人化していたため、製剤開発職に就く知人に共同経営者になってもらい、次第に企画提案から商品開発・納品まで一貫して行うようになった。すると、リピート発注が増えた。
この間も、小田さんは、美瑛でどんな暮らし方ができるかを考えていた。そして、学生時代から旅が好きだった小田さんは、「宿なら自分にもできるかもしれない」と思った。小田さんは、人びとが北海道旅行に求めるものは何か? 内地の人はそもそも、なぜ北海道旅行をするのか? を、市場リサーチの経験を活かして丹念に調べた。すると、ある構想が浮かび上がった。
「北海道を旅する人の第一ニーズはロケーションであって、ほかの観光地にみるような娯楽性や先進性ではない、というのは自分のなかではっきりしていました。したがって、地勢的には不便でも、『はじめてなのになぜかすごく懐かしい』と感じるような、幼い頃の記憶の奥底にあるようなサービスと情景をつくろうと思いました。世界有数の波状丘陵の景観とどうやってマッチングを図るか。それだけが、今もザワザワ村の理念です」
そのプランを胸に、小田さんは妻と長男を連れて、頻繁に美瑛を訪れた。美瑛の周辺にも候補地を広げ、南富良野、美瑛、旭川とドライブしながら、一戸建てを複数建てられる広さがあり、かつ制約がなさそうな土地を探した。
美瑛をドライブ中、小田さんは気になるものを見つけた。なだらかな丘のくぼみに廃屋が4つ、雑然と立っていた。昔の農家の跡地と思われる母屋やガレージ。中はもぬけの殻で、誰もいなかった。
小田さんは美瑛町内の不動産屋へ行き、「ここは売り物件ですか? ちょっと調べてほしいんですが」と尋ねた。すでに土地を探し始めてから3年が経過していて、今回もダメ元だった。すると持ち主がわかり、しかも「売る意思がある」という。小田さんはすぐに交渉し、約1600坪の土地を購入した。
そうして、会社経営と同時進行で「スプウン谷のザワザワ村」の開村準備が始まった。ネーミングの由来は、この土地を初めて見たときに妻が口にした、「スプーンみたいだね」の一言。近くでは、麦の穂がザワザワと揺れていた。
「こちらで頼りにできる人脈は一切なかったので、まずは設計士さんに連絡を取ることから始めました。今よりSNSも発達していない時代だったので、もうとにかく電話です。道内の10数件の設計事務所に、『こんな企画を構想として持っています。一緒にやっていただけませんか?』と伝えました。よい返事があったのは2社で、最終的にお願いしたのは旭川の設計士さんです。その方に銀行や業者も紹介してもらって」
実は小田さんは、町周辺の銀行に何件か融資を申し込んでいた。小田さんには頭金程度の自己資金はあったが、大部分は借入する計画だった。ところがどの銀行からも、「どこから来たの? 大阪? 札幌の金融公庫へ行って」と門前払いされていた。設計士の紹介で出会った旭川信用金庫神居支店の支店長は、小田さんの話を唯一聞き、融資してくれたという。
ザワザワ村の建築について小田さんは、「予算のこともあるけれど」と前置きしたあと、「工務店に丸投げするんじゃなく、自分でやりたい気持ちがあった」と明かす。建築の知識がなかった小田さんは、得意の美術のスキルを活かして、ずっと思い描いていた構想をラフ画にした。それを設計士に渡し、図面化してもらったのだ。ラフ案がどこまで実際の建築に反映できるのか、無理のある部分はないか、何度も設計士と話し合い、微調整した。
建築にあたっては、またも“片っぱしから電話をかける”という方法で、大工や左官、板金といった職人を雇った。彼らに教えを請いながら小田さん自らも作業に加わり、内装インテリアに関しては、小田さん自身がほとんどを手がけた。
「浄化槽を入れるために浄化槽屋さんに直接電話したり、材木を入れるために製材会社の人に来てもらって打ち合わせをしたり……20数件の契約を自分でやりましたが、普通は工務店のやる仕事です(笑)。だからよくある『住宅10年保証』とかは一切ないんですよね」
このころの小田さんは、大阪と東京、北海道の3拠点生活。商品を卸す先のクライアントは大阪に多いが、市場リサーチのようなマーケティング活動は、東京で行うことが多かったのだ。
美瑛への移住を決意し、独立してから8年。会社の売上規模は、約3億円に成長していた。
「これであと5、6年は食える。その後のことは自分で考えろ」
2006年、小田さんは共同経営の知人にそう伝え、もとのコンサルティング会社を譲渡した。「もったいない」とは微塵も思わなかったという。
2007年のスタート時、ザワザワ村に今のような敷地面積はなかった。約1600坪、東京ドーム0.1個分ほどの土地で、5棟のペンションだけを経営していたのだ。
というのも、ザワザワ村を囲む14haほどの畑は当時、お隣の農家さん(Sさん)が営んでいた。14haは東京ドーム約3個分の広さだ。北東にある畑はCさん、その隣はKさんというように、「他人の農地」に囲まれた袋小路にザワザワ村はあった。
小田さんは、「隣のじいちゃん(Sさん)みたいな畑をやりたい」と憧れた。けれども当初は、Sさんをはじめ、周囲の農家からは応援されるどころか、冷たい視線を感じた。
じつは当時、美瑛では観光被害が問題になっていた。観光客がSNS映えなどを理由に農地に無断で侵入し、農地が荒れたり、靴底についた菌によって作物がだめになったりしていたのだ。大阪から来た小田さん、そして観光客の目を惹きそうな目新しい施設が、警戒されるのも無理はないかもしれない。
2010年、小田さんは宿泊業と並行して、美瑛町の「農業研修生」として農業を学び始めた。これは、農業を始める人のために、全国の市町村や農業協同組合などが行う研修制度だ。研修の期間はコースによってさまざまだが、美瑛町では、「担い手研修センターや自分がめざす農業形態の農家、農業法人などで、2年以上の農業研修を必須」としている。
この研修期間中、45歳未満の人は、条件を満たせば年間180万円の給付金を受け取ることができる。しかし、小田さんは当時46歳。誰しもが“あと2年早ければ”と悔やみそうなものだが、小田さんは「補助金ゼロ、民間100%の世界で生きてきたので、そういうもんだと思った」と、給付金には見向きもしなかった。
小田さんの年齢で、なんの支援もなしに農業を始める人は稀なのだろう。おそらく、道内最高齢の農業研修生だったという。研修期間中は住み込みスタッフを募集し、雇い入れた。
「農業にどっぷり浸かった2年」を終え、やる気と意欲、知識や技能をもつ人だけがなれる「認定農業者」に認定された小田さん。研修先の農家から、ザワザワ村からすぐ近くにある5haの畑を譲り受けた。5haは、東京ドームおよそ1個分だ。
ただ、町から勧められたのは小田さんのイメージしていた「広大な畑作」ではなく、ビニールハウスでのトマト栽培だった。美瑛町では「酪農1億円、畑作5,000万円程度の初期投資が必要」とされており、新しく農業を始める人には、大型機械を必要としない、かつ低予算で始められるトマト栽培を推奨しているのだという。
そこで、通路と小屋を除いた4haのうち、1haでトマトのビニールハウス栽培を、3haの畑で蕎麦の栽培を始めることにした。
「蕎麦は一般的に、栽培管理に手間がかからないんです。種をまいたら蕎麦の実が収穫できるまで、ほかの作物に比較すると時間や経費がかからない。それだけ収入にもならないのですが。本当は小麦畑をやりたくても、トマトに手を取られる身では、そういう選択しかなかったんです」
この5haの畑が、今のザワザワ村の風景の出発点となった。
宿泊業は2007年のオープン以来、ずっと順調だった。「電話予約のみ」という不便さにもかかわらず、3か月前の予約開始とともに、5棟すべてが満室になる日も増えた。
ただ、トマト栽培のほうは違った。6棟あるビニールハウスには、7,000〜8,000本のトマトがある。これだけの量は家族ぐるみで経営するのが普通だというが、小田さんにはこのとき次男と長女が生まれており、3人の子どもたちは当時小中学生。市街地への通学ひとつにも送迎が必要だった。
育児と農業、宿泊業を両立させるために「農業は妻には関与させない」と決めていた小田さんは、農業をひとりで担当し、時間を惜しんで働いた。毎朝、日が昇る前にビニールハウスへ行き、ひと仕事のあと戻って送迎、ふたたび日が暮れるまで作業をする……という日々だった。
「知らぬが仏。それが僕の強みでもあったと、今では思いますね。普通は2〜3人でやる作業をひとりきりでやるぐらい、農業の常識を知らなかった。本当にトマト漬けの日々でした」
過酷なのは、体力的なことだけではなかった。
先述のように、ザワザワ村の周りはぐるっと一周Sさんの畑で、一般道路からザワザワ村に出入りするにはSさんの畑の一部を通路として借りる必要があった。そのため100メートルほどの通路を借りる契約を結んだが、そこはSさんにとって、本来は自由に農作業ができていた場所。「(Sさんへの)気遣いは怠らなかったが、仕事柄迷惑もかけたし、ときどきは摩擦もあった」と小田さんは振り返る。
それでも小田さんは、Sさんや周囲の農家に認めてもらいたい一心で、とにかく真剣にトマト栽培に取り組んだ。そのためか収穫量は、1年目から順調だった。一方、内心では、「10年かかってもいい。絶対に畑をやってやる」と心に決めていた。
就農から5年経った、2017年。ザワザワ村の東側にある6haの農地を、「引き受けてみないか?」という話が小田さんにもたらされた。さらに2019年には、集落の集まりを通して、6haの農地に隣接する2haの農地を購入できることになった。
前年の2018年には、もともとの農地の一角に建つ古家を改造した農家カフェ「Café BIEI」をオープン。宿泊業とは別に、農業もひとり歩きできる経営内容にしたかった小田さんは、畑でつくった野菜をそこで提供しようと考えたのだ。
ザワザワ村から見える風景は、こうして、少しずつ小田さんが営むものになっていった。
美瑛の肥料会社で14年間働き、美瑛全域の農家や集落をつぶさに見てきたザワザワ村のスタッフ・鈴木信太朗さんは、「大型重機に乗って、大面積をこなす農家さんしかいないこの周辺で、新規就農のトマト農家さんが(周囲の働きかけで)畑作のほうへ引っ張ってもらえること自体が稀」だと話す。
美瑛町では東京ドーム約2〜6個分の畑をもつ農家が4割近い。そのなかで新規就農者が苦労するのは土地そのものを得ることに加えて、周囲の農家から信頼を得ることなのだ。
「農家って、集落ごとに結束が固いんです。なまくらだと(怠けていると)全然相手にされません。でも、朝から晩まで自分に恥じない仕事をしていると、ひとり、ふたりは必ず見てくれている人がいる。そういう人の多くは、洞察力が強く、周囲からも慕われている方なんですよ。僕にチャンスをくれたある農家さんは、『お前ならやれる』と、陰に日向に引き立ててくださいました。『あの人が絶対に見てくれている』と思うと、頑張れちゃうんですよね。裏を返せばそれだけ孤独だったんです」(小田さん)
また、移住してきた当初からすれ違いがちだったSさんが、小田さんに世間話をしてくるようになった。「ビニールハウスでの仕事ぶりをずっと見てくれていたようです」と小田さん。Sさんの話題はもっぱら、後継ぎの息子さんのことだった。小田さんはそのたびに、「親があんまり出しゃばるんじゃない。頼ってきたときだけ答えてやれば」と笑って返した。
Sさんが入院したときは、毎日のように見舞いへ行った。Sさんは、奇跡的に退院したあと、小田さんのビニールハウスにたびたび遊びに来るようになった。そして、71歳のとき天国へ旅立った。
「いちばんの思い出は、最後のほうで『あんたのことが一番好きだ』って言われたとき。10年に及ぶ走馬灯の中で、泣けるほど嬉しかった」
Sさんが一生を捧げた畑は、息子さんの手を経た後、小田さんが大切に引き継いでいる。ザワザワ村の周りと、その南東にある広大な畑だ。
その後も、2020年に5ha、2022年に13haの農地を加え、現在はザワザワ村の施設全体で、東京ドーム約10個分の規模になった。15年かかって、「美瑛の風景をつくる人」の仲間入りを果たしたのだ。
驚くことにザワザワ村は、コロナの影響をそれほど受けなかった。
日本政策金融公庫の2020年8月の調査では、ホテル・旅館業の半数以上が、コロナによって「売上80%以上減少」したと回答している。にもかかわらず、ザワザワ村の売上は、わずか8%しか減らなかった。
その理由は、小田さんがザワザワ村の構想を練る段階から決めていた、「日本ドメスティック」な経営方針にあった。
「うちはもともと、顧客単価を、1回お泊まりの単価ではなく、ひとりのお客様が一生のうちに何度来てくださるかの“生涯単価”で意識しているんです。何回も来ていただいてこそ、お互いに“理解と満足”の深い関係性が築ける。一度訪れてお腹いっぱいになる観光地ではなくて、人の記憶になる、心の置き場所になることができれば、再び『ただいま、お帰りなさい』の関係になれるんです。そうなると自然と、ターゲットは近場の、国内にお住まいの方になるんですよね」
「育ってきた環境も文化も共通する、日本の方にとって魅力的な空間をつくること。それに注力してきたので、やはり感動いただける度合いも大きい。外国のお客様の構成比は夏場で1〜2%、冬場で5%にとどまっています。もちろん外国の方を拒むことはありませんが、海外から予約希望メールをいただくときには、すでに日本の方の予約で埋まっている状態。結果的に、外国の方の比率が5%以下なんです」
夢にまで見た構想を実現するために、「環境に左右されない経営方法」を考え抜いていた小田さん。パンデミックで世の中が混乱に陥るなか、こう確信したという。
「このやり方は間違っていなかった」
小田さんはパンデミック前から、経済は基本「地域のなかで回すもの」だと考えていた。
「究極の国際化は、究極のローカリズム。外国には外国のよさ、京都には京都のよさ、そして美瑛には美瑛のよさがある。今の時代はみんなが平坦になりつつあるけれど、それらを守り、異なる日常や言葉・文化を認め合うことが、本当の意味でのおもしろい国際化だと、僕は考えています」
2021年には、ザワザワ村の敷地内にある「Café BIEI」を「きっちん・ひとさじ」に改名してリコンセプト。2022年の現在は、ホテル部門を新たに4棟増やすことが決まり、すでに建築に着手している。スタッフは小田さんを入れて11人。かつて住み込みスタッフを雇い入れて以降、ザワザワ村ファンの宿泊客が住み込みスタッフとして働き、そのまま美瑛に移住する流れが起きるようになったという。
「風景をつくるってことは、人の記憶になりたいということ。『小田栄治』という名前を覚えてほしいのではなく、1泊でも2泊でも、きっちん・ひとさじでのお食事だけでもいいから、ここへいらっしゃるお客さんの忘れられない記憶になりたい。だから農業もホテル業も飲食業もやる。僕のなかではどれも同じレベルで、想い出づくりという、ひとつのカテゴリーのなかでの出来事なんです」
小田さんは続けた。
「“頑張れば夢は10年以内に叶う”って、僕は信じて疑わないんです。子どもみたいでしょ? たとえば夢が3つあったとしたら、3つの夢を『ひとつ叶ってから次!』じゃなくて、時期がかぶっててもいいから同時に進めていくと、10年後には、毎年のように1個ずつ夢が叶うことになる。だから想いは多ければ多いほどいいし、いつ始めてもいいんですよ」
取材・文・撮影 = 原 由希奈
編集 = 川内イオ