2005年11月②/第23回 「待ち男」シャイー

 リッカルド・シャイー、52歳。

 ムーティがミラノ・スカラ座の音楽監督を辞任したとき、いよいよシャイーが迎えられるのではないかという推測がされたが、当面スカラ座は音楽監督、つまり主導的な指揮者をおかない体制でやっていくことになったらしい。 スカラ座にムーティが君臨していた今世紀の初め、シャイーの姿勢には、何か半世紀前のカラヤンを想わせるものがあった。つまり、1950年代のカラヤンがその「最終目標」であるウィーン国立歌劇場に到達する直前、ミラノ・スカラ座でドイツ・オペラを指揮して経験を重ねつつ、ウィーン交響楽団をウィーンにおける「橋頭堡」として、ウィーン国立歌劇場を牽制していたことがある。同じようにシャイーは、アムステルダムのコンセルトヘボウのシェフとしてオペラなどを指揮しつつ、やはりミラノにジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団という「橋頭堡」を持っていて、ミラノの聴衆にその存在を顕示していた。

 歌劇場にもう興味はない、とシャイーは何かのインタヴューで口にしていたが、スカラ座だけは特別なのではないか、スカラ座以外の歌劇場にもう興味はない、という意味なのではないか、とその真意を推測する向きがある。 とりあえず、今回シャイーがスカラ座に行くことはなかった。だが、未来はまだわからない。シャイーは心中秘かに、時節の到来を待っているのではないか。

 「待ちの男」シャイー。その姿勢は、1988年にアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者になったときから、すでに始まっていたように思える。もちろん、今いる場所でベストを尽くさなければ、輝かしい明日は来ない。シャイーのコンセルトヘボウ時代は、まさにそうした研鑽の日々だった。そのころの彼をふり返ってみよう。

 

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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