2005年06月①/第11回 “ラテンジャズ"の醍醐味

さて、諸君。
いきなり何だが、今、ジャズの世界に供給過剰の現象っていうのがあるんだがご存知だろうか。

ヨーロッパ風味なのよ。ヨーロピアン・フレイバー。ヨーロピアン・ジャズ・トリオなんていうグループの名前を聞いたことがあるだろう。いつもコンサートは満杯。

これ一種の流行現象なのだ。

えっ、ジャズって個性の音楽だから、ミュージシャン一人一人が独立していて皆一緒になって同じような音楽をやる流行なんてないんだろう?

こういぶかしむあなたの気持ちはよくわかる。

しかし、ジャズといえども大昔から流行り廃りがあったんだな。

何故かというとレコード会社が市場を操作するからだ。

つまり、その時々で売れるものを重点的に各社出して行く。60年代は各社こぞってボサノバ物を発売した。70年代のフリー・ジャズ全盛時代はつらかったぜ。

さて、そこで今はヨーロッパのピアノ・トリオ物。

これ、悪くはないんだが少し知的に過ぎる。フリー・ジャズもそうだけど、ジャズが知性に傾いたらろくなことがない。

何しろヨーロッパは、日本が明治大正時代の頃、盛んに知識情報を輸入した国々だ。頭のいい人間の住まう国だが、ジャズやるくらいの人間は少々バカのほうがもっけの幸いなのだ。

つまり、ジャズは痴性の音楽。

痴性とくればラテンである。欧州ではなく、南米、トロピカルである。

これを日本で流行らせなくてはいけない。知性と痴性のバランスをとらなくてはいけない。

さて、どうしたものか。 憂いていても始まらない。行動を起こすのみ。

私はウィリー・ナガサキさんを訪問した。ラテンのパーカッション奏者の方である。ミュージック・バードでディスクジョッキーをやっておられる方である。

おお、この方こそまさに痴性の方であった。見るからに全身に痴性が横溢している。

男世帯にうじが湧く、ではないが、台所には3日前の皿が散乱している。床には雑誌や単行本が乱雑に積まれている。よく見ると「右翼の歴史」「流れ者の果て」「九州大陸郷土史」といった一筋縄ではゆかない書物が顔をのぞかせた。

今時珍しい人相の方である。九州男子の顔である。セピア色の写真で見る明治時代の志士はすべてこのような凛々しい顔をしている。

平成の志士の話はとどまるところを知らない。とめどなく流れてゆく。

時々話がわからなくなる。そこがいい。

ウィリー・ナガサキさんはしばらく前にCDを吹き込んだ。

私はいまウィリーさんを思い出しながらCDを聴いている。

本日はそのCDをご紹介しよう。

このCDの一番いいところ。それはどれを聴いてもああこの曲はこういう曲なんだと瞬時にわかるところである。

そんな当たり前のことが特にヨーロピアン・ジャズには少ない。

ついでに言うと、ジャズという音楽は本来メロディーにケチンボ。半開きにしかしない。

対してラテンは満開、全開。さあ思いきって聴いてくれ、と。

ウィリーさんはもっと開く。痴性を丸出しにする。そのメロディーが実に麗しい。美味しい。噛んで行くとさらに美味しさが膨らんでゆく、そんな旋律。パーカッションの人なのに旋律美をとても大事にする人。

美旋律。そして、それと対照的な大胆不敵なパーカッションが聴く人の胸を大きく揺さぶる。

うーん、これなんだよなぁ。いま最もジャズに欠けている要素は。

私は歯噛みしながら何度もウィリーさんのCDに耳を傾ける。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

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