さて諸君、諸君は「敵性音楽」という言葉を聞いたことがあるか。
ジャズである。ジャズ。
もちろん今時、そんなことを言う人はいない。
第二次世界大戦の頃、である。
ジャズは日本ではそんなふうに呼ばれていたのである。
であるから、私の先輩にあたる当時のジャズ・ファンは人に聞かれないよう、押し入れの中で布団をかぶって聴いていた。
でもついつい音が漏れてしまって近所の人が憲兵隊に密告したというようなことがあったらしい。当時は隣組みという名の密告制度が発達していた。
ついついボリュームを上げてしまうのが面白い。ジャズ・ファンというのは昔も今もついついの性癖の人種なのである。災を呼ぶ人種。
さて、時と所が変わって今度はジャズ喫茶。
さすがに密告というような暗い話はない。
しかし、私が店に出ていた頃、よく他のジャズ喫茶の悪口話が漏れてきた。
あそこの店はペギー・リーやダイナ・ショアをかけていたよ。ジャズ喫茶の風上にも置けないな。軟弱ジャズ喫茶もこれに極まれリ、だな。
1950年代、ジャズ喫茶全盛時代、白人ボーカルはまさに敵性音楽そのものだったのである。
威勢のいい、ハード・バップと呼ばれる、二管編成のジャズが硬派ジャズ喫茶の旗印だった。
私も硬派ジャズに疲れ、白人美人ボーカルが聴きたくなると店のいい装置でではなく自宅の音のよくないスピーカーで我慢しいしい聴いたものだ。さすがに布団はかぶらなかったが。
さて、現在。いい時代になったものである。ジャズという音楽にも民主化の波が押し寄せたのだ。
私のジャズ喫茶で、現代のペギー・リー、そしてドリス・デイとの評判が高いジャネット・サイデルをかけて非難する人はいない。後ろ指をさされることはない。
たまに苦笑する人はいるが、そこに悪意はない。
さて、今回のジャネット・サイデル盤、「スパニッシュ・ハーレム」を第一推薦曲として強力に押すことにした。
いきなり何だが、ジャネット・サイデルはこの曲を自分のレパートリーに入れたことでペギー・リーやドリス・デイに勝利したのである。
何故ならペギー・リーやドリス・デイの時代にはこの曲は存在せず、彼女たちは歌いたくても歌えなかったからである。
徒らに昔のアーティストたちを神棚に上げて奉り、現代の歌い手を認めたがらない人がたまにいるが、よくない傾向だ。
曲という観点からボーカルを評価したいのである。
それほど「スパニッシュ・ハーレム」は一聴、「ああ、いいなあ!!!」と思わせる曲なのである。
すぐれたボーカル曲とはどういう曲か。
ただひたすら人心に訴える曲である。
即ち、「ああ、いいなあ!!」。 これである。
ジャネット・サイデル自身によって書かれたコメントによると、彼女はこの曲を主として仕事場にしている有名なウエントワース・ホテルで歌っているらしい。
うーむ、私はすぐさま、シドニーのウエントワース・ホテルに直行したくなってきたぞ。
【P.S.1】 ジャネット・サイデル情報。
この輸入盤CDが発売された後、「マナクーラの月」がオーストラリアのラ・ブラーバ盤を経由し、日本のミューザックから出版された。
これが「スパニッシュ・ハーレム」を数倍凌ぐとんでもない出来映えなのだ。
彼女の天性の資質である地熱のような温かさが「あなたなしでは」「トワイライト・タイム」「リンガー・アホワイル」「ディープ・パープル」といった佳曲を通してあなたの心にじんわり浸透する幸せをあなたは一体どう享受すればいいのだ。
【P.S.2】
かなわぬことながら、「スパニッシュ・ハーレム」をペギー・リーとドリス・デイの歌で聴いてみたかった。
寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ