さて諸君。元気かな。
今日は一つ、アルト・サックスの話をしよう。
アルト・サックスほど高い人気の楽器はない。ブラス・バンドの新入生は最初にアルトに群がるという。
この間、社会人ジャズ・バンドの発表会を観に行った。アルト・サックスの出演者がいちばん多かった。
ジャズ楽器の華がアルト・サックスなのだ。
ああ、それなのに、それなのに、だ。
ジャズ界では、現在アルト・サックスのスターがいない。
昔はいた。山ほどいた。石を投げればアルト奏者に当たった。
1950~60年代はアルト・サックスの時代と言ってもいいと思う。
チャーリー・パーカーがジャズ・アルトを立ち上げ、ジャッキー・マクリーン、キャノンボール・アダレイ、ルー・ドナルドソン、アート・ペッパー、ソニー・クリス、ソニー・スティット、並べてゆけば切りがない。
なぜアルト時代が築かれたのか。
目標がいたからである。その目標がチャーリー・パーカーだった。チャーリー・パーカーのように吹きたい。チャーリー・パーカーのように吹けたら死んでもいい。
上に挙げたアルト・サックス奏者たちはそのように願い、憧れ、サックスの練習に熱中した。
ジャズというのはそういう音楽なのだ。
ジャズ・ミュージシャンは「ああいう風に吹きたい」という単純、そして切実な願望から出発するのである。
一山当てよう、金持ちになってやろう。そんな志望者は一人もいない。
だから、ジャズは純粋な音楽なのである。
それはいいが、現在アルト奏者がいないという話。
目標がいないからである。
チャーリー・パーカーがいるではないか、と言うかもしれない。
しかし、今の若いアルト奏者にとってパーカーは余りに遠い。
夏目漱石のように書きたいと願う作家がいないのと同じである。若い作家なら村上春樹あたりを目指すだろう。
近くに神様的アルト奏者がいないのである。
それで現在のアルトひでりの現象が生まれたのだ。
アルトひでりに恵みの雨、それが本日のヒーロー青年、フランチェスコ・カフィーソである。16歳であるから少年と呼ぶべきか。ジャケットでみるとイタリアの修道院映画に出てきそうな穢れを知らぬ少年だ。
穢れを知らぬ人間に、穢れの音楽・ジャズが出来るか。
そんな風に反論してくる読者もいるだろう。今はそういう話ではないのだ。放っておいてくれ。
「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーン・ビームス」を聴いてたまげてしまった。本当かなと我が耳を疑った。
アルトという楽器の本質を心得ていることにである。
アルトをどのように吹けばいちばん効果的にアルトの本質を引き出せるのか。
その最も大事なことを考えずに楽器を演ずる人たちの多い中で少年は傑出しているのである。
アルトは、ねっとりと吹けばいいのである。粘着性。これがアルト・サックスの最も美味しい特質である。
このせっかくの特性を嫌って冷やかに吹く人もいる。それは本道から外れた吹き方だ。
ねっとりと情熱的に吹けばアルトは99%の人を納得させられるのである。
少年の出自を考えてみた。
現代のミュージシャンらしくいろいろな人たちの影響が聴こえてくる。
フィル・ウッズが少年の大きなアイドルになっている。早い曲ではそこにソニー・クリス的色彩が加わる。
フィル・ウッズもソニー・クリスもねっとり情熱型で名を成した人たちだ。
驚いたのが「マイ・オールド・フレーム」だった。
アルト・サックスの「サブ・トーン」というのをあまり聴いたことがない。「サブ・トーン」はテナー・サックスの専売品である。
ところがこの曲でアルトのサブ・トーンをギンギンに出現させているのだ。
サブ・トーンというのは「スススス・・・・」または「ズズズズ・・・・」と聴こえるサックスの独特の奏法である。いや、この「スススス・・・・」の気持ちいいのなんの。病みつきになる。
楽器は、うまければスターになれるというものではない。うまい他に何かを持っていなければならない。
少年は持っている。それはスター性である。華である。念力である。
さらに音楽的に言うと、粘着性サウンドと同時に曲を歌わせる旋律力を持っている。
曲がこの少年の手にかかって他愛もなく服従しているのだ。
聴いてくれ。そして驚いてくれ。
寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ