そう言えば最近「ホクホク盤」がなくなった。
いきなりで何のことやら、お解りにならないだろう。
ジャズ喫茶の話である。これさえかけていればお客が来る。そういう盤のことを言っているのだ。
1950~70年頃のジャズ喫茶には「ホクホク盤」がごろごろしていた。
ソニー・クラークのブルーノート盤『クール・ストラッティン』。これなんかはその筆頭代表選手だった。但し、A面のみ。たまにヘソ曲がりの客がいて、
B面をリクエストしようものなら他のお客から総すかんを食ったものだ。
あと、60年代の代表で言うと、同じくブルーノートのハンク・モブレー『ディッピン』。
A面2曲目に入っている『リカード・ボサノバ』を聴きたくてジャズ喫茶に通ったのだ。
早く終われよな。面白くない1曲目を目の敵にして待っていた。
70年代に入ると、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエバー』が毎日5~6回は必ずかかった。リクエストが殺到して断るのに苦労した。
5~6回といっても当時のジャズ喫茶では一日LP片面約36枚かかるから大変に頻度が高い。
そんなの何もジャズ喫茶へ行かなくたって家で聴けばいいじゃないか、とお思いだろう。
それが素人の浅読みというのだ。
1970年代はともかく、50~60年代の日本の学生やサラリーマンは、みんなして貧乏そのもの。
私なんかも1958年頃は学生だったが、大学生協でタバコを5本下さいとか言って買っていたものだ。バラ売りしていたのである。
とにかくジャズ・ファンはジャズ喫茶へ行くしかない。
先の『クール・ストラッティン』でいうと1958年頃は日本盤が出ていなくて輸入盤しか入手できなかった。
しかしこれが3000円。ラーメン150円の時代にである。初任給だってどこも1万円かそこいらだった。
そういうわけでジャズ喫茶の「ホクホク盤」が大活躍した。そうした時代だったのだ。
そうそう、もう一枚、異色の「ホクホク盤」があった。
それを紹介しよう。
異色つまりヨーロッパの盤ということで珍しかった。
当時のジャズはほとんどがアメリカ産。ジャズはブルーノート、プレステージ、リバーサイドに決まっているだろう。バカヤローってなものである。
そういうアメリカ国枠主義真唯中のジャズ界に入ってきたのがフランスのFuturaというレーベルだった。
生ちょろいフランス白人プロデューサーにジャズが作れるのかよ。まあ全体そんな雰囲気だった。
ところが『Under Paris Skies』にはフレディ・レッドが入っていた。
ブルーノートでどす黒い盤を出しているピアニストだ。どす黒いジャッキー・マクリーンにどす黒いアルトを吹かせ、
麻薬をメインテーマにした『ザ・コネクション』がそれだ。
しかしどうだ。この『パリの空の下』。フレディ・レッドをくるりとひっくり返して白ペンキでも塗ったように、真っ白でさわやか。
半信半疑だったが聴き込むうちにこれは大変な傑作だということがわかったジャズ喫茶族。
リクエストが続出したのは言うまでもない。
あっちのジャズ喫茶もホクホク顔、こっちの店主もエビス顔。
『パリの空の下』に足を向けて寝られない。
ジャズ喫茶店主たちを喜ばせたもう一つの理由。
それは音、である。
目覚ましく優れて音質が良かった。
「おたく、なにか装置変えました?」
お客によく訊かれたものである。
それほどシンバルがツキーンと延び、ベースがドーンと下に下がった。ピアノなんかもう、クリスタルそのもの。
田中康夫の「なんとなくクリスタル」はフレディ・レッドのピアノから来たと言うのは真っ赤な嘘、ではなくてリトル・ホワイト・ライズだが。
このリトル・ホワイト・ライズ。そういう曲があって、他愛のないウソという意味らしい。
寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ