私のような根っからジャズオーディオ人間は飽きもせずジャズの音源捜しに熱中しています。
今はデジタルオーデイオ時代ですが、ひと昔まえはアナログオーデイオ全盛でした。当時のオーデイオ・ファンにとって是非聴きたい音源のひとつはレコード会社に保管されているマスターテープであったでしょう。アナログレコードは勿論ですが現在復刻されている数々の名アルバムのCDもマスターテープから編集加工されているのです。
マスターテープを聴くことは録音時のナマ音を聴くことに近いわけで、酒なら原酒を味わうのと同じスリルが体験できるのです。あるメジャーのレコード会社に友人が在籍している時、秘かにジャズのマスターテープを数本コピーしてもらったことがありました。アルバム名を明かせば誰でも知っている名盤中の名盤です。それを自宅で聴くのは禁断の果物の汁を吸う興奮に似ていました。
アナログ・マスターテープは10インチのリールに巻かれており2トラック、速度38cm/sec、録音時間は30分です。テープは巻き取られたまま保管され、これはマスター巻きと呼ばれます。このマスターテープのジャズ音源を10インチリールにコピーして販売を決意した人がある時現れました。ヴィーナスレコードの原さんです。テープ1本に4曲が入って2本セット価格は25,000円でした。私が直ぐ注文したのは言うまでもありません。
リチャード・ワィアンズ・ピアノトリオ「ラヴェンダー・ミストの女」とアーチー・シェップ・カルテット「トゥルー・バラード」でした。アナログ・マスターテープの音はナマの楽器のカタチを彷彿とさせるだけでなく、楽器本来のエネルギーが部屋の空気を圧縮するほどの凄さです。それに比べればCDの音など私にとってはミニチュアみたいなものでした。
ヴィーナスのジャズサウンドの真髄をマスターテープから聴いてから、以来すっかりヴィーナスレコードの虜になったのです。門外不出と言われるレコード会社のマスターテープを例えコピーといえども惜しげなく販売を始めた原さんに興味を惹かれて広尾の事務所までインタヴューに行ったこともありました。
そんなわけでマスターテープのコレクションも秘かに始まりました。アン・バートンが日本公演を行った時、日程の合間ある夜、レストランでプライヴェートのコンサートが企画されました。彼女の希望もありマスターテープに録音して、そのコピーを帰国のさいに持って帰ったのです。それを頼まれた私がもう1本自分用にコピーしたことを白状してもよいくらい時は過ぎ去りました。
ジャズオーデイオに不可欠な音力が溢れていることでヴィーナス・サウンドを有名にしたCDアルバムはビル・チャーラップ・トリオの「ス・ワンダフル」とデニー・ザィトリン・トリオの「音楽がある限り」でした。アナログレコードも同時発売となり30cmサイズジャケットの存在感同様に音のスケールもマスターテープをイメージさせる出来栄えです。
ヴィーナスレコードの看板男はエディ・ヒギンズですがビル・チャーラップもそれに負けない看板男と言ってよいでしょう。クリスクロス、EMIや東芝からも彼のアルバムはリリースされていますが、ジェイ・レオンハート(b)ビル・スチュアート(drs)と組んだ彼のニューヨーク・トリオのアルバムはヴィーナスからすでに5タイトルがリリースされました。今度のニューアルバム「オールウェイズ」はアービング・バーリンの名曲を集めたものです。どの演奏も実にいい雰囲気で彼の個性が良く出ているのです。私が好きなピアニストでもあるディヴィッド・ヘィゼルタィンを剛とすればビル・チャーラップは柔と言えるかもしれません。
タイトル曲「オールウェイズ」のトップから最後まで音よし、演奏よしで久しぶりに全曲を通して聴いたアルバムでした。
長澤 祥(ながさわ しょう)
1936年生まれ。オーディオメーカー数社在籍。日本オーディオ協会前事務局長。