2005年02月①/第03回 “ジャズの本質"の楽しみ



やあ諸君、おめでとう。今年も面白くて為になる記事を大いに書いてゆくぞ。
なんたってこの世の中、見渡せば面白くなくてひたすら為になる文章ばかりだからな。


そういえば最近、講談社現代新書、清水義範の『大人のための文章教室』を読んだ。


文章というのは①言いたいことが曇りなく読み手に伝わるかどうか。②文章を書いている自分が利口そうにみえるかどうか。この二つのことを書き手というのは意識的無意識的に置いて書いているというのである。


ところが考えてみるとこの二つの要素は相反していて同時に成立させるのは無理な話なのだ。


言いたいことをストレートにやさしく書くとあんまり利口にはみえないのである。


例えば、私のいつもの文章である。


とてもお利口には見えないよなあ。


まあいい。バカはバカなりに書いてゆくしかない。それを悟っただけでもリッパなものだ。


さて、上のジャケットをとっくり眺めていただきたい。あなたはこのCDを知っているか。


知っていたら私に連絡しなさい。10万両差し上げよう。


知っているわけないんだ。ジャズ評論家多しと言えどもご存知なのは一人か二人だろう。もち、私だって知らなかった。


そんな、誰も知らないようなCDをなんでこのページで紹介するんだ、このやろう、なんてあなたはお思いだろう。


そこがつけめ、なのである。たまにこういうわけのわからないディスクを俎上にあげないとジャズの楽しみの本質が見えてこない、ということだ。


ジャズの楽しみの本質とはなにか。


さあ、言うぞ。こういう誰も知らないディスクを夜中の2時頃、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」と笑いながら一人静かにライブラリーから取り出しトレイに収め、この盤の聴きどころは5曲目の「ノー・ベース」にあるのだぞよ、知らないだろう、知っているのは全世界でオレを含めて三人ぐらいだろうなあ、とホクソ笑んで一人悦に入る。


それがジャズの楽しみの極限的本質というものなのだ。


ジャズというのはそういう音楽なのである。そういうインビな性質を持って生まれついているということだ。いや、いや、皆さんはいいんだ。心配しなくてもいい。ビギナーのあなた。ビル・エバンスやキース・ジャレット、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーン。そういう有名人を聴いていてけっこう。


でも、そのうち、なにかの拍子になにか変わったものを聴いてみたいなあ、と思った時、その時がジャズの楽しみの本質の門の前に立った時なのだ。100人のうち99人までが門の中に入れずジャズから去ってゆく。


最後の一人にあなたはなりたいとは思わないか。いや、なって欲しい。そしてジャズの極限的楽しみを心ゆくまで味わって欲しいのだ。


今回のピアノ・トリオ盤、極限などと言うからさぞ、難しい一枚だと思われたろう。


なんの、なんの。ミュージシャンの言いたいこと、伝えたいことが曇りなくリスナーに伝わり、なおかつお利口に見せようなどということは何一つ演っていないというまさに名演の名に恥じないもの、と言っておく。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

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