2007年10月/第45回 好き嫌い

世の中には好き嫌いでしか判断できない作品というのがある。

この「日野=菊地クィンテット」などはまさにその典型であり、私は大嫌いである。

しかしなんですな、嫌いと言い放ったあとの爽快感。言ってやったぜ、という達成感。なんともたまらないものがある。バカな私にしか出来ないことである。

このクィンテット、まず第一になにが言いたいのか、そこらあたりがまったくわからない。

どんな作品にも言いたいことがある。そんな高尚なことでなくてもいい。

しばらく前に向井滋春が4トロンボーンのCDを出したが、その時向井さんは、楽しければそれでいいと言った。「楽しさ」が言いたいことなのである。日野、菊地に楽しさがあろうはずがない。

我田引水で申し訳ないが松尾明トリオの近作で言いたかったことは、シンプルな分かり易さを聴いてくれ、であろう。では日野、菊地は、複雑な分かり難さを聴いてくれ、か。

べらぼうめ。いまどき、そんな酔狂な人などいるものか。

まあいい。今日はそのことを言いたいのではない。

好き嫌いで物を言っていい、ということを申し述べたいのである。

大体、「日野=菊地クィンテット」の演奏は一般大衆には判断できないように作られているのであり、そうであるならば、好き嫌いでもって判断するしかすべがないのである。

先日亡くなった富樫雅彦。彼の往年の名作に「スピリチュアル・ネイチャー」がある。あれが出た時、世の中は大変に混乱した。

誰が聴いても分からない。

好き嫌いで言うしかないのによしあしで判断しようとしたから、さあ大変。あんなにも評論家を苦しめた作品はこれまでなかった。

評論家と言えば、私は評論家ではなく好事家だからひとごとのように言えるのであるが、「日野=菊地クィンテット」をどのように評論するのであろうか。

それを思うと気の毒で自分のことでもないのに胃が痛くなってくる。

やっぱり「宇宙」とか「壮大」とか「パノラマ」とかそんな言葉を散りばめるのだろうか。

皆さんに言っておくが、ジャズ評論で宇宙が出てきたら完璧にまゆつばであるから笑ったほうがいい。

どうということはないのである。好き嫌いで評すればいいだけの話である。それでは沽券にかかわると思うから肩に力が入ってどんどん迷走してゆくのである。

好き嫌いで書くメリットは読者が大変に安心できることである。

「よしあし論」でほめちぎられれば、特にビギナーは、聴いておかなければならないのではないか。おいてきぼりをくうのではないか。

そういう不安にかられるのである。

その点、「好き嫌い論」は大いに安心。

ちょっと暴走して評論家の皆さんに一言。

もうそろそろ好き嫌いを表に出してもいい時期にきているのではありませんか。

ほんとうは各人それぞれ当然好き嫌いを胸の内に持っているのである。

それを隠して書いている。私は彼らの胸の内を知りたいのである。

胸の内が面白いのであり、それが本音の文章になって現れて私はそういう記事をこそ読みたい。

今のままでは、ちょっと。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

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