2009年07月/第66回 長澤祥という人

 220歳トリオの一角が崩れた。長澤祥さんが「PCMジャズ喫茶」をおやめになったのである。

 長澤さんは以前から隠遁生活に憧れていた。家に閉じこもり、気が向けば(ほとんど毎日気が向いていたのだが)昼間から酒を飲み、電気を暗くしてジャズを低く聴く長澤さんだからすでに充分隠遁生活者なのだが口を開けば「田舎に行きたい」を繰り返していた。しばらく前にも何ヶ月か奈良のほうの山奥に籠り、とても商品になりそうにない(失礼!)丸いエントツのような形をしたスピーカーを設計、製作に励んでいた。隠遁のきざしはすでにしてあったのである。

 しかし今回はどうも本物のようだ。決心は固い。74才。決断の歳かもしれない。

 実は私は長澤さんのジャズの聴き方に敬意を払っていた。ご自分の『聴き方』を持っている。そのことを大したものだと思っていた。しかもそれがいささかもぶれない。聴き方が大地に根を張って微動だにしないのだ。私など今だにふらっとくることがあり、いい歳をして不甲斐ないなと思ったりしているのにである。

 長澤さんのジャズの聴き方は徹底した自分主義である。この方くらい気分よく個人主義を楽しんでいる人はいない。人の言に左右されない。一部のジャズ・ファンのように観念的にジャズを聴くことをしない。頭の中でジャズを鳴らすのではなく、あたかも手を延ばして音楽に触れるような聴き方だ。触ってみてうまく自分に反応しなければ蹴っ飛ばす潔さを持つ。だから長澤さんは音楽に聴かされない。常に自分が上位にいる。ジャズ・ファンでこういう人は案外少ない。幾山も越えた人が出来ることである。

 長澤さんはまた、音でジャズを聴く人である。音楽と音を同時に両方楽しんでしまうのであるから得な人である。普通の人は片方しか聴かないから損をしているのである。ベースが特に好きで、ベースの音はとにかく弦の感じがはっきり出た「ブルン」という音が聴こえないと承知しない。そのことを放送で何百回繰り返したことだろう。耳にタコが出来て、今では私のまわりにベースはブルンでなければ駄目な人が何人もいる。

 こういう美しく格好よく偏った聴き方を麗々しく説く評論家はいない。バランスという言葉しか発しないのが本邦のオーディオ評論家である。音がどこかで一カ所突起して面白くなるのがジャズという音楽なのである。ベースとかシンバルとか。もっと長澤さんのような音楽と音の両方をよく分かった人を日本のオーディオ界は活用しなければ駄目だ。

 とまあ、ずいぶん長澤さんを持ち上げてしまったが、長澤さんが一風変わった人であるのは間違いなく皆さんご承知の通りである。約束しても来なかったり、約束してないのに来たり、今では我々はぜんぜん彼の奇行に驚かない。田舎に雲隠れしてもすぐに戻ってきてもまったく不思議はないのであり、その時は大歓迎である。

 一応、田舎でのんびりラテン・ピアノでも聴いてもらおうと思って写真のCDを捧げてみたが無駄になるのを祈っている。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

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