2010年04月/第75回 和ジャズのススメ

 最近、日本人による「50~60年代」のジャズがたくさんCDで復刻発売されている。そのきっかけを作ったのは先日この「PCMジャズ喫茶」にゲスト出演したディスク・ユニオンの塙耕記氏の企画で、日本のジャズの再発は『和ジャズ』と呼ばれてきた。この番組の相棒・寺島靖国氏は、『和ジャズ』という呼び方に抵抗を感じるらしい。

僕自身もこの呼び方は好きではないが、『日本のジャズ』『日本人のジャズ』『和製ジャズ』といろいろ呼び名を変えてみてもしっくりこない。コロンビア・ミュージックは「昭和アーカイブス」とよんで再発売している。原盤を持っていないディスク・ユニオンの場合は、キング、ビクター、コロンビアあたりから原盤を借りてきて発表してきたわけだが、売れ行きがなかなかいいので、こんどは貸す側が、他社に儲けさせるのはもったいないとばかり、貸し渋りをはじめたという。それもあってコロンビアも古い日本のジャズを初CD化し始めたのだ。

その1枚に「モダン・ジャズ・スクリーン・ムード/モダン・ジャズ・プレイボーイズ」というのがあり、この中のなつかしい映画のテーマ「褐色のブルース」をかけた。1960年の録音で、ピアノとアレンジが三保敬太郎で、林鉄雄(Tp)・渡辺貞夫(As Fl)・宮沢昭(Ts)・金井英人(B)・猪俣猛(Ds)というオールスターなのだ。いま振り返って思うのだが、1950年代の後半から60年代の中頃にかけては、日本のジャズが大変なブームで、コンサートも盛んに開かれ、人気プレイヤーが続出した。また、フランスのヌーベルバーグ・シネマにモダンジャズが多用された影響もあって「死刑台のエレベーター」「大運河」「危険な関係」などのジャズ・テーマが日本でも大ヒット。おかげでジャズの需要が飛躍的に高まり、日本のレコード会社は、日本のジャズメンを起用して、先を争ってジャズ・アルバムを制作した。それが今掘り起こされているのだが、1950年代の中期以降の日本のジャズメンはレベルもアップしているし、個性豊かだし、いま聴いても充分に楽しめる。もっとも60年代の後期以降は外タレの来日ブームがきて、日本のジャズメンは逆に70年代にかけてはアメリカへの留学(流出)の時代と変化していくのは皮肉である。

別に日本のジャズ史を書くつもりはなかったのだが、番組で「褐色のブルース」をかけたところ、なんとこの曲をテーマにした映画「墓に唾をかけろ」の原作を書いたボリス・ヴィアンの『ジャズ入門』(シンコーミュージック)という本が最近翻訳されて出ていたのだ。

 ボリス・ヴィアンは1959年に39歳で亡くなっているが、フランスの大変な才人で、トランペッター、小説家、音楽評論家、歌手、俳優、詩人として活躍し、サンジェルマン・デュプレに入り浸っていた芸術家の一人だった。この本は「入門書」などとは書いてあるが内容はきわめてハイブローで、初心者の手に負えるものではない。古いジャズ、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンに関する評論や、シャルル・アズナブール、ジジ・ジャンメールなどに関するエッセイや翻訳などがおさめられていて、ヴィアンの多才を知ることの出来る一冊だ。彼のジャズ本が日本で出るのは、多分今年がヴィアンの生誕90年にあたるからだろう。

ともあれ、和ジャズの再発で「褐色のブルース」が聴けたのがうれしいのだが、最近のCDで多いのがコンピレーションだ。その中に『居酒屋ジャズ』というのがあって驚いたが、これはかなり売れたらしい。そういえば僕が住んでいる大泉学園の居酒屋チェーンも呼び込み用にジャズを使っている。この頃はラーメン店でもジャズが流れている。

最近ついにユニバーサルから「泣きJAZZ /V.A.」と題するコンピレーションCDが出た。不景気で泣いてくれというのか、それともレコード会社の社員の心情を表現したのだろうか。「クライ・ミー・ア・リバー」「煙が目にしみる」なんてのが入っていたな。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

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