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音楽コラム「Classicのススメ」


2006年10月/第37回 アバドの集中

 オペラを、コンサートの場で演奏することは珍しくない。それも全曲ではなく、単独の幕を取り出すことも多い。


 ワーグナーの作品でよくそうしたことが行なわれるのは、彼の巨大な歌劇や楽劇を、十全な形で上演するのが困難なためである。コンサート形式での一幕だけの抜粋上演なら、視覚的要素を捨て、人数をしぼることで限られた資材を集中できる。聴覚的要素、つまり音楽面に限定すれば、指揮者のコントロールが行き届きやすくなるという利点もある。


 そうしたことから、《ワルキューレ》の第一幕や第三幕、《トリスタンとイゾルデ》の第二幕などは、よく取りあげられる。これらの幕は、ほとんどの音楽が長大なソロか二重唱だけでできているからだ。


 だが、《ローエングリン》第二幕はどうだろう。登場人物はオペラ全幕と同じで、大合唱団も必要という点では、けっして向いていない。だから、一九八三年のエジンバラ音楽祭でアバドがこの幕だけを取りあげて演奏したのは、とても珍しい、異例のことだった。


 その主目的は節約ではなく、集中にあったのだろう。幸福に満たされたはずの盃の中に、呪いの一滴が注がれる。そして猜疑心の波が生じ、やがて悲劇が渦まいていくさまを、ソロから大アンサンブルへの拡大の過程で、じっくりと描き出す。アバドは視覚的要素を聴衆の想像力にゆだねて、オラトリオのように音へ集中することで、そのドラマを築こうとしたのである。

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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