音楽コラム「Jazzのススメ」


2010年02月/第73回 カウント・ベイシーのこと

 2月にカウント・ベイシー・オーケストラが来日する。昨年はデューク・エリントン・オーケストラが来日しているし、この黒人2大ビッグ・バンドはリーダーが変わっても健在だ。しかしカウント・ベイシーとデューク・エリントンがあまりにも大きな存在だったので、二人に勝るリーダーが現れることはまずないであろう。

 ところで、カウント・ベイシーには、以前来日したときに会って話をしたことがあるが、ユーモアのセンスに富んだ、とぼけて面白い男だった。ベイシーは一度ビッグ・バンドを解散してコンボで演奏していたことがあるが、すぐまたビッグ・バンドにもどした。その理由を聞くと、

「きみ、コンボだとずっとピアノを弾いていなくてはならないんで、忙しくて大変なんでやめたんだよ。ビッグ・バンドだと、ちょっとだけ弾けばいいからね。」

さぼるのが好きだといわんばかりなのだ。

「ところで、あなたのバンドで、いちばん凄いと思った時期はいつですか?」

と聞くと、

「50年代のはじめから中頃かな。サド・ジョーンズ、ジョー・ニューマン、ベニー・パウエル、マーシャル・ロイヤル、フランク・フォスター、フランク・ウェスら、スターぞろいでね。自分のバンドなのに、あまりにリッチなサウンドで鳥肌が立ったよ。」

 その頃録音した曲には「トゥ・フォー・ザ・ブルース」「トゥ・フランシス」「シャイニー・ストッキングス」などがあった。

 カウント・ベイシーといえばカンザス・シティ・ジャズの中心人物のようにいう人もいるが、彼は例外的に東部から来た男であり、人気が出ると、カンザス・シティから離れてしまった。彼の演奏に「マン・フロム・レッド・バンク」という曲があるが、彼はニュージャージー州レッド・バンクの出身である。ぼくは一度この街に立ち寄ったことがあるが、バスを降りると、そばにスーパーがあるくらいの小さな町だった。

 なぜ立ち寄ったかといえば、このすぐそばに日野皓正が住んでいて、彼に会うためだった。日野皓正に「ここはカウント・ベイシーが生まれた町だよ」というと、「え!知らなかった」と驚いていた。

 ベイシーは若い頃、かなり変な男で、親しい友人が映画館で働いていたので、毎日昼間この映画館に行って映画を見つづけ、夜も家に帰らずに、映画館のソファで寝ていた。あまり毎日ベイシーが同じ映画を観ているので、館主が、「きみ、ピアノが弾けるんだろ?じゃ映画の伴奏をやってくれよ」 といい、ベイシーは無声映画の伴奏をはじめたのだった。

 その後、ヴォードビルの一座に加わり、巡業の途中、カンザス・シティに寄ったら、あまりにジャズが盛んなので、この街でジャズ・ピアノの仕事をはじめたのだった。そしてベニー・モーテン楽団のピアニストになったのだが、リーダーのベニー・モーテンが手術の失敗で急死し、メンバーの推薦でベイシーがリーダーになったのだった。

 ニューヨークの”ローズランド・ボウル・ルーム”に37年頃に出演したところ、ラジオの電波にも乗り、人気は急上昇、デッカにも録音し、全米的人気バンドになった。ベイシーは実力も勿論あったのだが、幸運にも恵まれていた。

 70年代の終わり頃だったか、この”ローズランド・ボウル・ルーム”でベイシー楽団を聴いたことがある。評論家の野口久光氏と一緒だったが、氏は宝塚の女優を同伴してきていた。氏に、彼女と一緒に踊れといわれ、ベイシー楽団の伴奏で踊ったが、こんなに踊りやすいバンドははじめてだった。

 この時、ベイシー楽団の秘密に気がついた。ベイシー楽団はいつも強力なリズム・セクションがフォー・ビートを打ち出しているので、その上にどんなホットなソロを乗せてもちゃんと踊れるのである。ベイシー楽団の長寿の秘密のひとつは、この踊りやすさにあったのかもしれない。

 ベイシーは編曲が得意ではなかったので、いつもニール・ヘフティ、チコ・オファリルなどの優秀なアレンジャーを起用したが、ぼくはクィンシー・ジョーンズの軽やかでファンキーで、ユーモアたっぷりの編曲が好きだ。「ジス・タイム・バイ・ベイシー」 (リプリーズ)は最高傑作だと思う。

 この中のモー・コフマン作曲の「スウィンギン・シェパード・ブルース」はフランク・ウェス、エリック・ディクソンのフルートをフューチャーした大好きな演奏なので番組でかけた。幸い好評で安心した。僕はこの曲を若いフルート奏者の西仲美咲に紹介したら、気に入り、今では彼女の主要レパートリーのひとつとなっている。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。