音楽コラム「Jazzのススメ」


2011年6月/第89回 目の上のタンコブ

 

 このところ本欄にミュージックバードのディレクター、太田氏の登場が多くなった。

 別に私と親密感が最近いよいよ高まったとかそういうことではなく、彼、62才にして諸楽器の中でも最難関といわれるトロンボーンを始めたからである。

 少し前のこのページでもそのことはお伝えしたが、大抵の楽器志望者は、最初の勢いはどこへやら、途中で、いやほとんどの人が始めるやいなや、すぐに挫折して果てる。

 これは決定的な事実で99%の人が楽器とバイバイしてしまう。100人に一人、いや1000人に一人というがんばり屋が実に太田さんなのである。これが書かずにいられるか、てなものである。

 太田さんはなぜがんばるのか。大概の男性楽器志望者は、よこしまな、いや本能に従った立派な理由、つまり女にもてたいという切なる希望で血を吐くような練習にはげむが、太田さんはこれとは少し違う。

 彼にはライバルがいるのである。そのライバルとは、この人も以前このコラムに登場し、「PCMジャズ喫茶」にも度々ゲスト出演している『ジャズ・キャブ』の藤田さんである。

 ことのついでに藤田さんを紹介しておこう。東京には聞くところによるとジャズを流すタクシー、要するに移動ジャズ喫茶みたいなタクシーが3台ほど走っているらしい。四六時中ジャズを流して、時にはお客のリクエストにも応じるというが、当然ひまな時間もあるわけで、その時間を有効に使って藤田さんは車中でトロンボーンの練習に熱中する。ぴったり窓を閉めれば、これほど音が外に漏れない格好のサイレント・ルームはなく、かんじんの走行業務より楽しいものだからついつい練習に身が入り、結果、上達の塩梅も著しいというわけだ。

 一方の太田さんは自宅で練習する。こちらも防音には気を使う。なにしろトロンボーンは音が大きい。昼間から雨戸を閉め立てるが、どうがんばってもタクシーのように完全密閉というわけにはゆかず音の漏れが気になってしまう。楽器の上達は練習あるのみなのに、思いどおりに事は運ばず切歯扼腕の態なのだ。

 二人は美人トロンボーン奏者、志賀聡美の門下生である。前にもお伝えした通り月一回開かれるメグの『トロンボーンを楽しむ初心者の会』で顔を合わせる。席は決まって向かい合わせに座る。トロンボーンという楽器は、トランペットと同様にベルが前方を向いていて、吹いている本人の音よりも目の前の人の音の方がよくわかる。

 目の前にいる“目の上のタンコブ”が吹き出す美麗な音に、毎回太田さんは悔し涙にくれていた。

 そんな悲しみの日々が半年も続いたろうか。とある日の『トロンボーンを楽しむ会』。私は久しぶりに太田さんのソロを聞いた。始めて半年だから曲といえば「カエルの唄」がせいぜいだろうとふんだが、彼はなんとチャップリンの「スマイル」を吹き出したのである。さすがにまだ流暢というわけにはゆかないが堂々たる吹きっぷりで、わずか半年でこれだけ腕前を上げるとはどれだけ艱難辛苦の日々が続いたのだろう。

 歓声を上げつつ打ち鳴らす藤田さんの拍手が優しかった。

 さらなる進歩を願って、私から曲のプレゼントをしよう。J.J.ジョンソンを“目の上のタンコブ”として励み、スウェーデン、いや北欧、いや世界のトロンボーン名人の一人になったオキ・ペルソンの「ベサメ・ムーチョ」だ。

(ディレクター記)また自分がネタにされてしまいました。ほとんど“ほめ殺し”状態ですね。でも寺島さん、私にも“よこしまな”気持ちも充分ありますよ、隠してるだけで。それから、お願いですからソロをリクエストするときは私が“しらふ”の時にして下さい。

 

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ