「土砂災害ゼロ」を目指す林業ベンチャー「ソマノベース」。27歳の起業家が取り組む「戻り苗」とは

2023.5.17 | Author: 池田アユリ
「土砂災害ゼロ」を目指す林業ベンチャー「ソマノベース」。27歳の起業家が取り組む「戻り苗」とは

2011年9月3日、有数の観光地である和歌山県紀伊半島域で、大規模な水害が起きた。

 

当時、高校生だった奥川季花さんは、慣れ親しんだ場所の変わり果てた姿を見て「価値観がガラリと変わった」という。いったい、何があったのか――? 27歳にして林業のベンチャー企業を立ち上げた奥川さんに話を聞いた。

和歌山県田辺市から熊野古道へ、車で山を登って50分。辿り着いたのは、三角形に伐り取られたはげ山の斜面だ。

チェーンソーによって伐採された丸太が点々と見える。実際に中に入ってみると、足元で「パキッ、パキッ」と枯れた草や枝を踏む音が響いた。

「自然に芽が生えたとしても、シカやイノシシに食べられてしまうんです。人の手で植えなければ、生えてこないんですよ」

案内しながらそう説明するのは、「株式会社 ソマノベース」代表の奥川季花さんだ。

現在奥川さんは、木を伐ったあとの森林に苗木を植える事業を行っている。この取り組みを通じて、土砂災害が起きにくい山づくりを進めようと考えているという。

一般の人や大学生らとともに植林事業を行っている

活動の原点は2011年、当時高校1年生だった奥川さんが経験した紀伊半島大豪雨だ。大規模な土砂災害で住み慣れた町が壊れ、仲のよかった後輩のひとりを失った。

「あの時は、なにもすることができない自分に無力さを感じました。時間が経って災害を受け止められるようになったんですけどね。当時の体験記や映像を見たりすると、やっぱり泣けてきちゃいます」

目に涙を溜めて語る奥川さん。いったいどんな思いをし、起業に踏み切ったのだろう。奥川さんの27年間を振り返った。

奥川季花さん

 

好奇心旺盛な幼少期

1995年、和歌山県那智勝浦町で、奥川さんは3人姉妹の長女として生まれた。幼少期の自身を「なんでもやってみようとする子」と振り返る。

「自動車整備士をしていた父親の真似をして、三輪車を解体したことがあったそうです。父がネットオークションで中古車を買っているのを見て、両親の不意を突いてパソコンを触って高級車を落札してしまったことも……。両親は『笑うしかなかった』って言ってました(笑)。自分でやってみないと気が済まない性格でしたね」

小学1年生のころ

好奇心旺盛な性格は、自然豊かな周りの環境も影響しているのかもしれない。那智勝浦町には「碧き島」と呼ばれる中ノ島があり、和歌山でも有数の観光名所として名高い。自宅が海の近くにあったこともあり、奥川さんは小・中のクラブ活動帰りに、体操着のまま海にダイブしていたそうだ。

中学を卒業後、地元には高校がなかったため、隣町の公立高に進学。高校野球を観るのにハマったことから野球部のマネージャーになり、充実した日々を過ごした。

 

水害の経験 後輩の死

2011年9月3日、紀伊台風の直撃によって県南部を中心に山崩れが起こり、深刻な土砂災害や川の氾濫が発生した。全壊の家屋は240棟、床上浸水は2,706棟。死者・行方不明者は合わせて88人。町は甚大な被害を受けた。

伊半島大豪雨により、なだれ落ちてきた木々。(提供元:ソマノベース)

当時高校1年生だった奥川さんが住んでいた勝浦町も、水害に見舞われた。

「前日から町内放送がずっと流れていたんですけど、なにを言ってるのか聞こえないくらい大雨が降っていました。 深夜0時ごろに父が『トイレの水が流れないから、下水を見てくる』と外に出たんです。すると、玄関前の一面が湖のようになっていました。『これは大変なことが起こっている』って思ったんですけど、停電で辺りも暗いし、テレビもつかず、外の状況がわからないまま朝を迎えたんです」

幸い、奥川さんの自宅は、家を建てた時に災害に備えてコンクリートで土台を上げていたおかげで浸水することはなかった。電気が復旧し、家族全員でテレビニュースを見ると、映っていたのは自分の住んでいる町。奥川さんは目を見開いた。

「那智川がなくなってる!」

子どものころに遊んでいた川は氾濫し、茶色い水が溢れていた。いつも高校に行くために使っていた橋は、まるでおもちゃのように折れていた。

(提供元:ソマノベース)

土砂災害がもっともひどいエリアには、たくさんの友人が住んでいる――。安否が気になり、できる限り電話をかけたが、連絡が取れない子もいた。

翌日、幼なじみから連絡を受け、小学校の後輩が行方不明だと知る。つい先日、「高校に入ったら、うちの野球部においでね!」と誘った男の子だった。

いても経ってもいられず、家を飛び出して後輩を探すも、「ショベルカーが運転できるわけじゃない私ができることなんて、たかが知れている」と思い、うなだれた。

充満する泥の匂い、霧がかった空。水浸しの家屋、木々に埋もれた運動場……。見慣れた町は、彼女が知る風景ではなかった。しばらくして、後輩は亡くなったと知らされた。

 

「なんで気づかんかったんかな」

川の氾濫の影響を受けて、高校はしばらく休校を余儀なくされた。奥川さんは同級生たちと地域の復興ボランティアとして活動し、学校が再開した後も部活帰りに泥かきやゴミ拾いを行った。

そういった生活を続けるなかで、奥川さんは「なんで気づかんかったんかな」と思ったという。自分の町がここまで水害の影響を受ける場所だったということ。そして、自分にとって地元はかけがえのない場所だということを。

「町の風景がガラっと変わった様子を見て、『私は自然に恵まれた環境にいたんだ』と気がついたんです。実のところ、被災するまではすごく都会に憧れていて。『こんな田舎じゃなにもできない!』って思っていました。美しい地元を守りたい。私と同じように悲しい思いをする人をもう増やしたくない。そう考えるようになりました」

自身が作ったスライドで災害の状況を説明する奥川さん

この日を境に、奥川さんは「やりたいと思ったことをすぐに行動する」と決めた。最初に取り組んだのは、高校生の海外渡航を支援するプロジェクト「熊野川翔学米」への応募だった。これは熊野川流域で獲れたお米の売り上げを、数名の高校生の支援に充てるというもの(現在募集は終了)。

そのコンテストで奥川さんは「海外で活躍する日本人に会いに行く」というプランを立て、見事権利を獲得。高3年の夏、一人でシンガポールへ向かい、企業コンサルタントの話を聞きに行き、海外で働く人の生き方を肌で感じた。

その後、地域で地方創生の活動をする人に「この町のためにできることをしたい」と話すと、親身になって聞いてくれ、その後は奥川さんのアドバイザーのような存在になった。「彼は移住者や経営者の方の集まりに参加させてくれて、いつも背中を押してくれました。今も応援してくれています」と奥川さん。


大学のAO入試で、フリップを使って熱弁

高3の秋、奥川さんは「卒業したらすぐに地元で働こう」と思っていた。ある日、前述の活動家の紹介で知り合った人に、「地元で会える人は限られるし、自分の幅を広げるためにも県外の大学に行ったらどう?」とアドバイスを受ける。

「大学って、自分の幅を広げられるところなのか!」と思った奥川さんは、ぐるっと方向転換して進学することに。

今から受けられる大学はないかと探して見つけたのが、同志社大学のAO入試だった。試験は小論文と30分間のプレゼンテーションのみ。「これだ!」と思い、すぐに願書を提出した。

「プレゼンは『何を使ってもOK』ということでした。私はパワポも使えなかったので、画用紙と折り紙でフリップを作って、4名の面接官の前で一生懸命話した記憶があります。一校しか受けていなかったので、もし落ちていたらどうしたんやろっていう感じですね(笑)」

2014年、無事合格し、同大学の商学部へ。9年後にそこで語ったことを実現させるのだが、まだまだ修行の日々が待っていた。

大学入試で使ったフリップ

 

地域の人から批判を受けた過去

大学に入った奥川さんは、地元のためになにをすべきか定まっていなかったこともあり、「まずはさまざまな社会人の話を聞こう」と1年生の夏休みに100人ほどと会いに行った。地方創生に取り組む徳島県の会社の代表のかばん持ちをしたこともあった。

「新しいビジネスに挑戦する人がたくさんいて『こんなにいろんなことできるんや!』って驚きました。まだほんまになにがしたいのかわからなかった時期だっただからかもしれないけど、話を聞きながら自分の至らなさが身に染みて泣けてきたこともありました」

大学1年の夏、自らも行動を起こそうと、地元で学生団体を立ち上げた。自身が被災した経験から「もっと世代を超えた交流が必要だ」と思い、地域の課題について高校生と大人たちがディスカッションをする場を設けた。

だが、ここで奥川さんはポキッと音がするほど心が折れてしまう。

「運営の仕方もわからない状態で始めてしまったせいか、ぜんぜんうまくいきませんでした。地域の人たちからは『宗教団体なんじゃないの?』って言われてしまって……。たぶん、学生運動家みたいなイメージを持たれてしまったんです」

奥川さんにとって、地域の人たちから批判を受けるのは堪えがたいことだった。1年後、その学生団体は閉じることになる。

「悔しかったですけど、逆に『今自分がしていることって意味あるんかな?』って考えるようになりましたね。どうせやるなら地元の人が本当に困っていることを解決しなくちゃって考えにシフトしました」


水害と林業は密接に繋がっている!

2017年7月、規模は小さかったものの、またもや紀伊半島で土砂災害が起きた。その日は参議院選の開票日だったため、ニュースではほとんど報道されず、大学4年で京都に住んでいた奥川さんは家族の安否が気になって仕方なかった。幸い全員無事だったが、両親から「6年前に被災した近所の人たちもすごく不安がっている」と聞いた。そこで奥川さんはパッと思いついた。

「地域の災害自体をなくすことができたら、地元の人が喜ぶはず!」

そこで、土砂災害を減らすにはどうしたらいいのかを探るべく、図書館で本を探したり、ネットで検索したりするようになる。

調べていくうちに、木が伐採されたまま放置されると、山の保水力が低下し、土砂災害が発生する可能性が高まることを知った。2012年から全国で約1,450件の土砂災害が起こっており、発生率は右肩上がりだった。

「森林の多い日本は、全国の市町村の92%が土砂災害危険区域を保有しています。それらの場所には、木を伐った後に植えていなかったり、逆に木が密集しすぎていたりするんです。森の管理が行き届いていないことが大きな原因になっていました」

適切に管理されていない森林(提供元:ソマノベース)

 

林業ベンチャー「ソマノベース」の挑戦

解決策を求めるべく、専門家の文献を探した。しかし、高齢化が進む林業の業界だからか、公開されている情報は極端に少なかった。

「これはもう、現地に行くしかない!」

そう思った奥川さんはいくつかの林業会社に連絡。「仕事している山を見せていただけませんか?」とお願いした。何社か回ると、会社の人達は林業の現状や、楽しさ、過酷さなど、さまざまな林業の課題について率直に話してくれた。視察を重ねるうちに、「林業を変えることが防災に繋がる。そういうことに取り組む会社をつくろう」と思うようになる。

大学を卒業した2018年、起業するための知識を得ようと思ったことから、「株式会社ボーダレス・ジャパン」に入社。会社に所属しながら起業することができる同社で、「林業の課題に取り組んで、土砂災害を減らす会社をつくりたい」と売り込んだことがきっかけで採用が決まった。

同社がM&Aしたアパレル事業で経験を積みながら、奥川さんは休日には山の現場視察を続けた。1年後に退社し、個人事業主として「ソマノベース」を立ち上げる。アルバイトとして働き始めた林業会社「中川」の現場を手伝ったり、防災教育に取り組むNPO団体に参加したりするなど駆け回った。

2021年、地元にほど近い和歌山県田辺市に移住。事務所を構えた勢いで起業した。今までに知り合った人たちに「一緒に働かない?」と声をかけ、「ぜひ!」と手が上がった5名とともに、土砂災害ゼロを目指す「林業ベンチャー」が誕生した。

学生時代からの仲間とともに

 

「WOOD CHANGE AWARD」でブロンズ賞

スタッフとともに今後のビジネスプランを練っていたある日、デザイナーのひとりが「こんな仕組みを作りたいんだよね」と提案した。この企画こそ、のちに主力製品・サービスとなる「MODRINAE(戻り苗)」だ。

MODRINAEの仕組みはシンプルだ。コンセプトに共感した客が観葉植物として木の苗のセットを買い、2年間育てる。その大きくなった苗をソマノベースが引き取り、植林する。

一鉢12,100円から販売している

この案を聞いた奥川さんは「これはすごくいいアイデアだ!」と思った。

「ちょうどそのタイミングで、林野庁の補助事業である『WOOD CHANGE AWARD』というコンテストがあって。締め切りがギリギリだったんですけど、急いで設計図や企画書を作って出したんです」

その結果、世界で活躍する建築家やアートディレクターが審査する同コンテストでブロンズ賞を獲得。

『WOOD CHANGE AWARD』ブロンズ賞の受賞プレート

「こんなに大きな賞をいただいたからには製品化するしかない!」

そう思ったことから、2022年5月、クラウドファンディングでMODRINAEを発売。すると、全国から「素敵なプロジェクト!」「森の木を育ててみたかった」などと応援の声が上がり、135本の苗木を支援者の元に届けることができた。

「とはいえ、1ヘクタールに数千本を植えるのが一般的なので、林業の業界でいうと、とても少ない本数です。ただ、その後、SDGsに取り組む企業から3社ほど依頼をいただきました。1社100本以上になるので一気に本数を増やせるのでありがたいですね。

企業の方々は『環境問題に関わりたいけど、なにをしていいかわからなかった』というお話をされることが多いんです。社内で育てている会社では、『直接育てることができることで、従業員同士のコミュニケーションになっている』と言っていただけてうれしかったです」

MODRINAEを育てる企業に訪問。(提供元:ソマノベース)

 

林業の課題をひとつひとつ……水害を防ぐ活路

取材も終わりに差し掛かったころ、「一人では抱えきれない課題を前にして、あきらめたくなることはありませんでしたか?」と聞いた。すると、奥川さんは首を横に振って、「自分の町の光景を見てしまったから、もう目を反らすことはできないですね」と言った。

「林業は30年前からずっと同じ課題を抱えていると言われています。それを打破しようと思ったら、自分たちで稼いで成り立つモデルにすることがすごく大事です。ただ商品を作って売るのではなく、いろんな人を巻き込みながらやっていこうと思っています。問題を解決しようとするプレイヤーが増えれば増えるほど利益が上がり、自立した業界になる。その先に、水害のない未来があると思っています」

奥川さんは主に他企業への森林プロジェクトのコンサルティングやプロダクトの売り上げなどで収益をあげながら、水害の被害を抑えるべく奮闘を続けている。

 

20年後もここで……

事務所で話を聞いた後、MODRINAEの種として使われるどんぐりの回収に同行した。熊野古道を進んだ山中の土産屋に「どんぐりボックス」と書かれた箱があった。

なかをのぞくと、ビニール袋に詰まったどんぐりが入っていた。そのひとつに小さな芽が出ていて、奥川さんは指さしながら「すぐに土に入れてあげなくちゃですね」と嬉しそうに笑った。

その後、林業会社「中川」が管理し、ソマノベースが苗木を植えているという植栽地へ。枯れ木の中から、かわいらしい苗木がひょっこり顔を出していた。

この苗木が大人の木になるには約20年かかるという。人間も同じく年を重ね、奥川さんは47歳になっている。「その時、奥川さんはここにいると思いますか?」と聞いてみた。すると、すぐにこう答えた。

「はい! ここにいる自分の姿が想像できます」

取材・文 = 池田アユリ
撮影 = 池田祐史
編集 = 川内イオ

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