茶農家になった和菓子職人が作る“絶品和菓子” 自ら育てたお茶で作った「抹茶スイーツ」が人気を博すまで

2023.1.25 | Author: 池田アユリ
茶農家になった和菓子職人が作る“絶品和菓子” 自ら育てたお茶で作った「抹茶スイーツ」が人気を博すまで

お茶の品評会で何度も受賞するなど、お茶の名産地として知られる京都府綾部市で、茶農家を営みながら自らの手で絶品の和菓子を作る人がいる。「Goodies(グディーズ)」代表の橋本登美雄さんだ。

 

「自分で育てた材料で作るお菓子の可能性を模索したい」と語る橋本さん。いったい、どんな思いを胸に茶畑とお菓子に向き合っているのだろうか?

京都駅から電車に揺られて1時間半。トンネルを抜けると、空を隠してしまうほどの緑が目の前に現れた。「森の京都」と呼ばれる京都府綾部市。ここは、山から湧き出す水と豊かな自然のなかで発展してきたお茶の産地である。

「どうも遠いところまでありがとうございます」

JR綾部駅まで車で迎えに来てくれたのは、橋本登美雄さん。今年50歳になる橋本さんは、穏やかな話し方をする人だった。

車に乗せてもらい、山道を10分ほど進む。すると、1本のもみじの木の下にある小屋に辿り着いた。菓子工房「Goodies」だ。ここでは、橋本さんが営む茶農園「わぎファーム」で収穫した一番茶を使ったスイーツが作られている。

自宅の隣の倉庫を改装して作った、菓子工房「Goodies」。

工房で、橋本さんが栽培するお茶を出してくれた。湯呑みに注がれたお茶が金色に輝いている。飲んでみると、緑茶の絶妙な渋みがじんわりと口の中に広がった。

13年前、和菓子職人だった橋本さんは、農業を始めるために綾部市和木町に移住してきた。詳しくは後述するが、そこで茶の栽培に目覚め、現在は綾部市豊里町と福知山市大江町に広がる計2ヘクタールの茶畑で、最高品質の両丹茶を手掛けている。

茶農家の橋本さんには、もう一つの顔がある。和菓子職人だったころの知識と技術を活かし、地域の復興のためにお菓子作りをしているのだ。

なかでも、2017年に考案した抹茶スイーツ「茶和らび(さわらび)」はお土産として人気が高い。考案して初めて販売したイベントでは、準備していた100個が1日であっという間に完売してしまったほど。翌年には京都府が主催する「京の食6次産業化コンテスト」で準グランプリを受賞した。

「中に入ってる生クリームとの相性が絶妙!」

「香りや食感が格別……」

など、SNSで橋本さんのスイーツの虜になるコメントが寄せられる。

一つずつ個包装された茶和らび。(提供元:Goodies)

1キロ20,000円で販売される高級茶を手掛け、お菓子も評価されている橋本さんだが、「たいしたことはなにもないですよ」と謙虚な姿勢を見せた。

「縁があってここに来てお茶と出会い、人に恵まれてきたので、僕なりの産地への恩返しかなって思いでやってますよ」

いったいなぜ和菓子職人から茶農家へ転身したのか。なぜ今もスイーツを追求し続けるのか。橋本さんの人生を振り返ろう。

「Goodies(グディーズ)」代表の橋本登美雄さん。

 

一人旅をする少年時代

1971年、橋本さんは、京都市内で120年つづく老舗和菓子店「先斗町駿河屋(ぽんとちょうするがや)」の四男坊として生まれた。

先斗町とは、鴨川沿いを南北に走る500メートルほどの小路で、地元の人々が通うような昔ながらの店が連なる場所だ。「小さな店ですけど、水ようかんやわらび餅がおいしいです」と橋本さんは言う。

cap>実家は120年続く和菓子店。(提供元:Goodies)

風情ある京都のまちで幼少期を過ごした橋本さんだが、心は外に向いていた。

「電車が好きだったので、小5の頃からひとり旅をしてました。ちょうど東北新幹線が開通したときで、まずはそれに乗りに行きました。その他にも在来線を乗り継いでよく遠くまで行きましたね。とにかく遠くに行きたいって気持ちが強かったんです」

中学2年生の時、初めて北海道を訪ねた。行きは京都からフェリーで北海道小樽市へ向かい、帰りは自転車を使って京都まで戻るという冒険心あふれるプランを立てる。北海道に到着すると、広大な景色が見て心が躍った。帰ったあともその思いは冷めやらず、思い切って北海道の高等学校に進学することに。選んだのは、酪農科だった。

そもそもなぜ酪農だったのかと尋ねると、「北海道に住めるなら、なんでもよかったんです」と橋本さんは笑う。

授業では牛や羊などの飼育や、畑を耕す実習があった。そこで、橋本さんは「農業」という分野に興味を抱くようになる。

 

アメリカで芝生を学ぶ

高3になると、橋本さんは「北海道より広いところに行きたいなぁ」と思うようになり、「それならば……」とアメリカの大学へ進学することにした。

まずは1年間、コロラド州立大学付属の英語学校に通った。その後、アイオワ州立大学の農学部に入学。そこで、芝生の研究に目覚めた。

「どの授業を取ろうかと悩んでた時、たまたまタイミングが合ったのが芝生の講義でした。受けたらなかなか面白くてね。スポーツが好きだから、サッカー場や野球場の芝生について知りたくなったんです」

芝生を成長させるには、虫や雑草、病気を防ぐ必要がある。そのため必然的に農薬や有機化学についても勉強した。

1994年12月にアイオワ州立大学を卒業し、帰国。「もっと芝生を学んでみたい」と思った橋本さんは、京都大学に雑草学を研究する教授がいることを知り、直接話す機会を得た。自分の想いを伝えると、その教授から「ぜひ大学院の試験を受けてください」と言われ、橋本さんは準備を進めた。

大学院受験前に、教授の実験場である京都のゴルフ場に同行することになった。青々と茂った芝生を見て「ここで働いてみたいなぁ」と思い、ゴルフ場の管理会社でアルバイトを始めた。

そこで、芝の管理を任されている一人の研究者と出会う。その研究者は、雑草や虫、病気などの発生を予測して、効率的に芝生を成長させるシステムを作っていた。その人から「大学院に行くより、給料もらいながら一緒に研究やらへん?」と誘われ、橋本さんは「じゃあ、そうします」と即答。そのままゴルフ場の管理会社に就職した。


四男、和菓子屋の跡継ぎになる

その会社で働き始めて2年が経ったころ、26歳の橋本さんは大きな決断を迫られていた。それは、実家の和菓子店の跡継ぎ問題だ。

「当初は次男が実家の店を継ぐ予定だったんですけど、結婚相手が和菓子店で、そっちを継ぐことになってしまって。それで、両親に『じゃあ、俺やるよ』って言いました。押し付けられたわけじゃないんですけど、今までのターニングポイントって、自分の意思よりも自然な流れで決まったところが強くて、今回も流れに任せることにしたんです」

このときの橋本さんは和菓子に興味を持っていたわけではなく、店の存続のために力を尽くそうと考えていた。ともに働く和菓子職人に指南を受け、橋本さんは店の商品を作り続けた。

取材時に橋本さんが炊いていたあずき。

和菓子作りや店頭販売などで忙しく過ごし、11年の歳月が流れたある日、次男がやって来て「実は離婚するから、また和菓子屋に戻るよ」と言われた。

「相談の上、お店を兄に託すことにしました。家族経営ってなかなか大変ですからね。仕事のせいで仲が悪くなりたくなかったので、僕が店を離れることにしたんです」

実家の和菓子屋を辞めることにした橋本さん。次の仕事が見つかるまで店を手伝いつつ、今後について考え始める。

「さて、これからどうやって生きていこうか……」

真っ先に思い浮かんだのは、学生時代や就職先で学んだ「育てる仕事」だった。


即決で綾部市へ移住する

「どこかに移住して、農業しよう」と考えた橋本さん。ただ、元手もなければ、土地もない。まずは住む場所を見つけようと情報を集めていると、綾部市に定住サポートの窓口があることを知る。同じ京都府なら近いからいいだろうと考えた橋本さんは、綾部市の市役所に話を聞きに行った。

「定住促進課の担当者さんがすごく丁寧に対応してくれて。農業を始めようとする僕のためにいろいろ提案してくれたんですよ。『市の人って、こんな親身になってくれるもの?』って驚きました。それで、『もう、ここでいいや』って思って、次の週には妻と3人の子どもたちと一緒に綾部市で住む家を探してましたね」

庭先からは広大な山が見える。

数か月後、綾部市和木町の日本家屋を借りた。家族よりも一足先に引っ越して、今度は綾部市にある「農業改良普及センター」を訪れた。

農業改良普及センターとは、各地域の農業者への情報提供や、新規就農者のサポ―トを行う機関である。橋本さんは窓口で開口一番に「家は決めたんですけど、何の農業をしようかと思ってて……」と相談。

すると、「順番が逆ですよ!」とたしなめられた。どんな農業をするか決めたあとに適した土地を見つけ、その近くで住むところを探すのが一般的だった。

「和木町は、山ばかりで田んぼや広い畑もありません。家の近くで農業するには適した場所ではなかったんです。でもね、軒先のもみじが真っ赤に紅葉してるのを見て、一目ぼれしてしまったからしょうがないですね(笑)」

見切り発車の移住だったが、妻は反対するどころか一緒に手伝うと言ってくれた。小学生の子どもたちもすんなりと受け入れ、2009年の春、5人家族は綾部市に引っ越した。

橋本さんが一目ぼれした、軒下のもみじ。

 

中田さんとの出会い

綾部市は、有名なお茶の産地である。ここで採れたお茶は両丹茶と呼ばれ、朝霧が立ち込める自然環境で玉露やてん茶(抹茶の原料)が育つのだ。

ただ、移住したばかりの橋本さんは、お茶の産地であることを知らず、茶畑をするつもりもなかった。「あずきを作って、実家へ卸そうかなと漠然と考えてました」と橋本さんは言う。

再度、農業改良普及センターに足を運んだある日、担当者から「アルバイトを探している茶農家の方がいるんですが、会ってみませんか?」と声がかかる。「お茶の生産者の元で学べるのはチャンスかも」と思った橋本さんは、その足で茶農家の自宅へ向かった。

その人こそ、橋本さんの師匠となる中田義孝さんだった。

中田さんは、全国の生産者がお茶の出来栄えを競う「全国茶品評会」でたびたび受賞しており、2021年の農林水産大臣賞も受賞しているお茶のスペシャリストである。

中田さんの第一印象を、橋本さんはこう振り返る。

「当時は60代くらいだったかな。めちゃめちゃ怖い人って聞いてたけど、ぜんぜんそんなことなくて。僕は今まで怒られたことがないです。会うなり、『うちは茶農家だから直接関係ないかもしれないけど、あずきや米も作ってるから勉強になることもあるやろ』と言われて、それもそうだと思ったので、その場で『雇ってください』とお願いしました」

さっそく中田さんのもとで働き始めた橋本さん。茶栽培は春先が最も忙しく、仕事を覚えながら怒涛の日々を過ごす。いつしか、橋本さんは「茶をやるのもおもしろそうやな」と思うようになる。

「茶農家の仕事って、栽培と収穫で終わりじゃないんです。摘んだ葉を機械で乾燥させ、荒茶(あらちゃ)にします。酸化を止めるために、自分の茶工場でなるべく早く加工する必要があるからです。それを知って、産地でそこまですることがおもしろいなと。そこに魅力を感じました」

橋本さんはお茶で就農することを決め、本格的に学ぶために「実践農場(新規就農希望者を技術習得から就農までを地域でサポートする取り組み)」に登録。研修生としてさらに2年間、中田さんから知識と技術を吸収した。

橋本さんが手掛けるお茶。

 

地域の高齢化問題

2011年の冬、綾部市で50アールの畑を借り、「わぎファーム」を屋号に自身の茶農園を始めた。ただ、茶の栽培のみをしていたわけでなく、和菓子職人をしていたことを知る地域の人々からお祭りやイベントで「屋台を出すから餡を炊いて」とよく駆り出された。「その度に自宅のキッチンでせっせとあずきを炊いてましたよ」と話す橋本さんは、どこか嬉しそうだ。

地域の人と交流を深めるうちに、まちの高齢化が進んでいることに気が付く。町内会の清掃活動で仲良くなったおじいさんが「身体が痛いから」といつしか顔を出さなくなり、橋本さんは寂しさを覚えた。

周りの茶農園でも、跡継ぎがおらず畑を手放す人が後を絶たなかった。

師匠の中田さんは、そういった人から畑を預かる活動をしていた。橋本さんも同じように茶農家から土地を引き継ぐようになる。すると、橋本さんの茶畑は、綾部市や福知山市の至るところに点在することになった。

「本当は小さい畑がいくつもあるより、大きいのが1個あった方が作業効率は上がるんですけどね。でも、本当に笑っちゃうくらい高齢化が進んでいるので、しょうがないというか、当然やと思ってやってます」

まちの人を大切に思う橋本さんは、「もっと自分にできることはないだろうか」と考え始める。

茶農園「わぎファーム」。(提供元:Goodies)

2017年のある日、農業改良普及センターの担当者から「産地のお茶を活性化させるプロジェクトを立ち上げるので手伝ってほしい」と相談を受ける。考えた末、自らの手で育てた茶葉でお菓子を作ろうと思い立った。

そこで考案したのが、前述の「茶和らび」だ。橋本さんは味や素材にとことんこだわった。実家で作っている餡を詰めたわらび餅から着想を得て、餡の代わりに生クリームを入れた。わらび餅にまぶす抹茶は、一定期間光を遮って育てる被覆栽培を施した抹茶を使った。「量を気にせずたっぷり使えるのが、自社栽培の良さですね」と橋本さん。

抹茶の茶和らび。(提供元:Goodies)

初のお披露目は、観光施設「舞鶴赤レンガパーク」でのイベント。その場で客に味わってもらい、アンケートに答えてもらった。すると、高評価の言葉が並び、初日に用意した100個があっという間に完売。これには橋本さんも「こんなに反応をもらえるなんて……」と驚いた。

市の担当者から「引き続き作ってほしい」と要望があったことから、自宅の横にあった小さな倉庫を改装し、お菓子工房「グディーズ」を開業。その後、市内の道の駅「綾部特産館」に卸すようになり、自社ホームページを作成。オンラインで注文できるようにした。

 

京都のコンテストで受賞

2018年のある日、行政の担当者から「今年の『京の食6次産業化コンテスト』に茶和らびを出品しませんか?」と誘いを受けた。京の食6次産業化コンテストとは、京都府の農林水産物を加工して6次産業で開発した商品を競うイベントだった。

橋本さんは、華々しい場所や人と優劣をつけて競い合うことがあまり好きではなかった。だが、「まぁ、行政の人にはお世話になってるから」と思い、詳細を把握せずに応募用紙に名前を書いた。

コンテストの存在を忘れていたころ、担当者より「京都市の『みやこメッセ』で審査会をするので試食用のものを持ってきてください」と連絡が入った。

「ええ、ちょっとめんどくさいなぁ」と心の中で思いつつ、試食用に小さめに作った数十個の茶和らびを指定の場所に持参した。すると、そこは大規模なイベント会場となっており、場違いな雰囲気を感じて橋本さんは戸惑ってしまう。

周りを見ると、応募者はお皿をきれいにデコレーションしていた。かたや、橋本さんの茶和らびは紙皿に爪楊枝を置いただけである。「もうなにをしてるんやろって、場の雰囲気についていけてなかったですよ(笑)」と橋本さんは振り返った。

けれど結果は、約40人の応募者のなかから準グランプリに選ばれた。

 

自分なりの恩返しの方法

現在、橋本さんは茶の栽培とお菓子作りのほかに、中田さんの茶畑も継続して手伝っているという。忙しい日が続いているが、橋本さんは活き活きしていた。

「茶の栽培は自分の体力や金銭的な面でも大変なことも多いですけど、辞めたいと思ったことはないですね。それは自分が納得できるものが、まだできてないと思うから。一生のうちで間に合いそうにないから、どうしようって思うくらいです。すんなりといいお茶といいお菓子ができたらいいですけどね(笑)」

橋本さんの作るお菓子はどれも人気がある。オンラインでも販売している3種類のようかんは、道の駅や地元の人から電話で注文が入ることもあり、年間2000本以上売り上げるそう。つまり、1日6本ほど売れる計算だ。

「実家の店でもそんなに売れたことはないですね。ようかんは日持ちもするし、腹持ちがいいので自転車を趣味にされてる方が買ってくれるみたいです。意外とこういう昔ながらのお菓子のなかに、自分のゴールが見えるんちゃうかなって思ってます」

橋本さんが手掛けるようかんと和菓子(提供元:Goodies)

今は知り合いからあずきを仕入れているが、近いうちに自分で育てたあずきを使って、とびきりおいしいお菓子を作りたいという。

「自分で育てた素材を使って、自分でお菓子を作るのはかなり珍しいと思います。僕のあとに続く人がいるかどうかはわからないけど、残り続ける可能性はあるんちゃうかな。僕が産地に恩返しできるとしたら、 ここで茶を育てて、お菓子を作ることかなって思います」

 

取材・文・撮影 = 池田アユリ
編集 = 川内イオ

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