近鉄奈良駅前の東向商店街に、ユニークな店がある。店頭には野菜がずらりと並んでいるが、壁にはビンテージの古着が掛けられ、BGMは洋楽ロック……。はたしてここは、八百屋なのか、服屋なのか――?
「HEX HIVE(ヘックス ハイブ)」の店主である片石健司さんは、2000年代にメンズ中心の古着屋として多くのファンを獲得した。だが、リサイクルショップやインターネットオークションの普及により売り上げが半減。ある時、地元の宇陀市にある大和高原でとれた野菜を販売するようになると、観光客や地元の人から「スーパーでは見かけない珍しいものが揃う」「ここの野菜を食べたら他のは食べられない」と口コミが広がり、奈良の人気店になった。
「農家の担い手が減っているからこそ、小売店の僕らが盛り上げたいんです」と語る、片石健司さんの道のりを聞いた。
奈良市の旧市街を代表する東向商店街。近鉄奈良駅前に位置することから、土産処や老舗和菓子屋、カフェや雑貨店が隣接し、多くの観光客や地元の人で賑わう場所だ。
商店街にある「HEX HIVE」を訪れたのは平日の18時ごろ。外観はほぼ八百屋だが、店の看板にはTシャツなどが掛けられ、値札が添えてあった。
人の出切りが途切れない店に入って陳列された商品を見渡すと、目につくのは鮮やかでつやつやとした野菜たち。「辛くない大和伝統野菜 紫とうがらし」「とがったきゅうり」など、大きなスーパーでは見かけない形状のものが並ぶ。店の中には「はったい粉」や「青豆きなこ」、吉野のはちみつ、奈良県で造られたお酒、三輪そうめん……。あらゆる加工品が売られている。なかでも目立つのは「宇陀産」の文字だ。
宇陀市とは奈良県北東部に位置するエリア。「宇陀の野菜は、標高400メートルの大和高原で育ちます。寒暖差のある地域なので、寒い夜に栄養をギュッと蓄えるから格別においしいんです」と店主の片石健司さんは言う。
利用客からは、
「もう他の店で野菜を買えない!」
「奈良観光の帰りに必ず寄ります」
「奈良県産の食品を買うなら、この店と決めている」
などと声が上がるそう。
1991年にこの商店街で古着屋を開店した片石さんは、照れ笑いを浮かべながらこう語る。
「20年前は、古着と野菜の割合は95対5くらいでした。10年前は半分ずつくらい、今は5対95で逆になってます(笑)」
紆余曲折を経て服屋とお八百屋を切り盛りすることになった、片石さんの歩みを辿ってみよう。
1961年、奈良県宇陀市で、片石さんは3人兄妹の長男として生まれた。江戸時代の町並みが残る自然豊かなこの地域で、川で魚釣りや草野球など、外で遊びまわる子ども時代を過ごす。「宇陀の夏は涼しくて、冬はまぁまぁ雪が降ります。奈良県の中でも寒さの厳しい地域のひとつです」と片石さん。
市内の中学校を卒業し、隣町にある県立桜井高等学校に進学。10代後半の頃は少しだけ「やんちゃ」だったそうだ。バイク通学は禁止されていたものの、気にも留めず免許を取得。車体の大きな「カワサキ Z400」に乗って学校に通った。余った体力を発散しようとサッカー部にも所属。ボールを追いかけながら、愛車をブンブンと乗り回すような学生生活を送っていた。
高2の冬のある日、ショッキングな出来事に見舞われる。
「バイクで学校に向かう途中、カーブを曲がれなくてガードレールに突っ込んじゃって。右足の太ももが派手に折れたんですよ。結構ショックやったんですけど。当然、サッカーはできなくなりました」
部活を辞め、1年ほど松葉杖をついて過ごすことになる。時間がぽっかり空き、「なにもしないのはどうかな」と思ったことから、ブラスバンド部へ転部。なぜ、ブラスバンドだったのか?
「高校からイギリスのロックバンドにハマってね。バッドカンパニーとかナザレスとか。一時期、中学時代の同級生とアマチュアバンドを組んでいて、僕はドラムを担当していたんですよ。最初は簡単にコピーできるやつを覚えて、地元のロックイベントにちょっとだけ出たことがありました。『スポーツしいへんのやったら、もうちょっと打楽器を極めるか』って思って転部したんです」
ケガの状態が良くなり始めた高3の冬、片石さんは受験勉強の末、大阪芸術大学の芸術計画学科に合格する。アートやスポーツ、音楽、映像などを学ぶ科で、もともと興味のある分野だったものの「大学4年間は脚も完治して、遊びまくってましたね」と片石さん。
「一番はサーフィンです。地元の先輩に誘われるうちに楽しくなって。サーフィンって平面じゃなくて沈むので、上下左右すべてが動くじゃないですか。その難しさが面白かったんです。大学時代は週3くらい、伊勢湾や白浜の海に行ってましたね」
大学卒業後は親戚が経営する県内の靴下工場に就職し、趣味としてサーフィンを続けた。25歳で、当時付き合っていた女性と結婚。両親の持ち家を新居とした。穏やかな生活を過ごす中で、片石さんはあることに悩むようになる。
「30歳になった時、『自分の人生って、これでいいのかな?』って思いました。今思ったらかなり生意気な考えですけど、僕の両親はふたりとも学校の先生だったので『同じように人に雇われる道はいやだな』って。自分で何か商売をしてみたくなったんです」
その焦燥感が募ったある日、サーフィン仲間のひとりに相談する機会があった。すると、「うちの名前を使っていいから、 お店でも始めたら?」と提案される。その友人は、大阪でアメリカンカジュアルを専門としたセレクトショップを何店舗も経営していて、古着やオリジナル商品も販売しており、若者から絶大な人気があった。
「これはチャンスかも!」
そう思った片石さんは、さっそく空き物件を探し始める。1991年、現在の店舗と目と鼻の先にある場所に、友人のお店の奈良支店として開業した。
「8割がメンズ服です。その頃はMA-1(ビンテージのフライトジャケット)、ナイキのエアマックスやマイケル・ジョーダンの服が流行り始めた時期でね。一点モノでプレミアがついたものが、本当に飛ぶように売れましたね」
アメリカンカジュアルブームの影響で、片石さんは毎日大忙しだった。だが、10年も過ぎるとファッションの流行は変化する。ヒップホップ系や細身のスーツなどが人気を博すようになると、お店の売り上げがどんどん下がっていった。
「これはヤバいぞ。なんとかしなくては……」
そこで、思い切った行動に出る。渡米して自ら洋服の買い付けに行くことにしたのだ。
「ひとりでアメリカに行ったんです。到着した夜のうちに、電話帳を見ながら古着屋やスリフトショップ(リサイクルショップ)を探して、地図にチェックを入れて。次の朝から車でお店を回りました。アメリカのそういうお店は規模がでかいんですよ。掘り出し物や『これだ』と思うものがあれば、そこで大量に買いました」
「直接仕入れることができればコストも抑えられるし、本場でトレンドの商品を集めればもっと売れるはず!」と考え、その後はたびたび海外へ買い付けに行くようになった。自分で仕入れるようになると、友人の店名で経営することに違和感を抱き、片石さんは独立を決意。店の名前を「HEX HIVE」に変更した。由来は、片石さんが「日本のどこにもない名前を付けよう」と思って考えたスラングだという。
「HEXは『魅了する』『魔女』。HIVEは『蜂の巣』『群がる』という意味です。人が集まる活発な場所っていうイメージになったらいいなと思って決めました。アメリカだと『クールな名前やな』って言うてくれるけど、日本やったら覚えられないみたいですね(笑)」
独立のタイミングで、現在店を構えている場所に移転した。
しかし、2000年代に買取業者やリサイクルショップが続々と登場し、さらに経営難に陥っていく。
「たとえば、リーバイスのジーンズを5ドルで買うとするじゃないですか。でも大手の古着屋は、日本のお客さんから同じものを100円以下で買い取るわけです。僕は仕入れ値以外にも飛行機代、輸送費、関税もかかる。もうぜんぜん太刀打ちできなくなりました」
時を同じくしてインターネットオークションも登場。店に来る客は試着だけして帰っていく。
「きっと家に帰ってから、ヤフオクで安くなっている同じ商品を買うんだろうな……」
気が付くと、売り上げは全盛期に比べて半分になっていた。妻と小さな子どもがおり、家計は大ピンチだったそうだ。もともとアナログなタイプの片石さんだったが、店のホームページをつくったり、ブログで商品を紹介したりなど、できることを続けた。
その間も、買い付けはやめなかった。「いい商品があれば必ず売れるはずだ」と信じていたからだ。だが、その思い込みは悪循環を生み、在庫が増える一方だった。
次第にお店の家賃も期日通りに払えなくなり、「もう畳みます」と伝えるために大家のもとを訪れた。だが、当時の大家は「遅れてもいいよ! いくらまで家賃下げたらおってくれるんだ」と、片石さんを引き留めた。
「東向商店街のエリアはすごく人気で、すぐ借り手が見つかるくらいの場所です。それなのに家賃を下げてまで貸そうとしてくださって。普通に考えたらあり得ないですよ。それでも僕、その後も3回くらい辞めるって話したんですけど、その度に相談に乗ってくれました……。もうお亡くなりになったんですけど、自分の父親と同じくらいの年齢の人でね。なぜか僕を気に入ってくれていて、本当にお世話になりました」
大家の言葉に励まされ、片石さんは店を継続させる手段を探った。ある日、ふと思いついたのが「親の野菜や果物を売ってみよう」だった。片石さんの両親は、教員をしながら兼業農家をしていた。
「冬の時期だったので、その時に採れたユズを試しにかごに入れて店頭に置いたんです。そしたらバカ売れしたんですよ。旬のものだったし、安く出しよったのもあるかもしれないけど、『あれ、こんなに売れるのか』ってびっくりしました。今度は実家で作っているシイタケを並べたら、また売れて。『ほんなら、宇陀で採れた野菜を売ってみようか』ってなったんです」
大家にそのことを話すと、「商店街の通り沿いには八百屋もないし、バッティングしないからいいんじゃない」と言ってくれた。
翌日、片石さんは朝一番に車で地元の農家を周って「うちの店で仕入れさせてくれませんか」とお願いした。近所の農家の人たちは子どもの頃から顔なじみの人たちばかりだったことから、「いいよ、持って行き」と快く応じ、翌日から朝採りした野菜を片石さん用に1ケースほど用意しくれるようになった。
こうして農家を巡っているうちに、あることに気が付く。
「宇陀の野菜って、めちゃめちゃうまいやん!」
宇陀市で育つ作物は、隣接する大和高原の影響で一日の寒暖差が激しいことから、おいしく育つそうだ。朝から昼過ぎまで太陽の光を受けた作物は、たくさんの栄養を取り込む。気温の低い夜になると、葉からの呼吸が抑えられ、栄養が蓄積される。そのため甘味を残したまま、みずみずしい野菜や果実になるのだ。
けれど宇陀産の食べ物はあまり人に知られておらず、「この場所で育ってきたのだから、恩返しのつもりで宇陀産のものを売ろう」と片石さんは心に決めた。
調達した野菜や果物を店先に並べるようになると、商店街を行き交う人から「あれ、服屋なのに野菜を売ってるの?」と興味を持たれるようになり、どんどん売れていった。「こりゃ足りないわ……」と思った片石さんは、さらに仕入れ先を増やした。
ある日、常連のおばあさんから「兄ちゃん、宇陀から来とんねんな。ほんなら、あそこで作ってる醤油買ってきてよ」と頼まれた。片石さんはそのおつかいを二つ返事で引き受けた。宇陀市にある醤油製造工場で醤油を買い、お店に戻り、おばあさんに商品と立て替えたレシートを手渡すと、とても喜ばれた。それ以来、他の客からも「宇陀産の味噌を買ってきて」「吉野葛、買うて」とお願いされるようになる。
「最初は『朝ちょっと回ったらいいし、ついでやからええか』と思ってたんですけど、あんまり多いんで、『お使いばっかり、しんどいわ!』って(笑)。それで、宇陀の特産物や加工品もメーカーから仕入れることにしたんです」
いくら今まで服や野菜を仕入れてきた片石さんでも、工場や加工品会社から商品を仕入れたことはなかった。なかには老舗のメーカーもあったという。交渉に苦労しなかったのか?
「いや、それはぜんぜん。会社の代表さんがうちの両親の教え子だったり、知り合いだったりしたので、『あ、片石先生の息子さん!』って(笑)。ありがたい話ですね。あとは僕、高校時代の同級生にそうめん工場の跡取りが10人くらいいるんですよ。今もいろいろと協力してくれています」
商品の仕入れに際し、片石さんは生産者に寄り添うことを優先している。道の駅や直売所で野菜や果物を売る際、通常は生産者自身が値段を決めて商品を持ち込み、店の手数料を引かれた金額が売り上げになる。ただ、このシステムだと売れ残った野菜は農家自身が持ち帰って処分しなければならない。
知り合いの生産者は、宇陀市から往復2時間かけて県内の中心街を行き来していた。「野菜を育てるのにも時間がかかるのに、大変すぎるやろ」と、片石さんは胸を痛めていた。
「たとえば、ほうれん草を7個預かって、3個売れ残るとします。うちは冷蔵庫を置いてないので、次の日には残りのものはシュンってなっているわけです。農家さんにそれを『売れませんでした』って返すなんて、僕にはできないなと思いました。返品数を数えて伝票を書くのも手間やし、始めから全部買い取ることにしたんです。それなら店で値引きしようが誰の相談もいらんし、自由やからね。時には仕入れ値を割ることもありますよ。パートさんに手伝ってもらって、仕入れすぎた野菜は天ぷらにして販売することもあります」
この仕入れ方法は農家の人たちから好評だという。農家の高齢化が進む昨今、自ら流通市場を出向くことなく、信頼する人に野菜を託せるのはありがたいことだろう。
「HEX HIVE」で野菜を売るようになると、店の売り上げは3倍に回復。毎朝地元の農家を20軒ほど周り、「朝採り野菜」を産地直送で仕入れているという。片石さんは、やや遠くを見つめながらこう言った。
「農家の担い手が減っているのをすごく感じるから寂しいよ。小売店の僕らが盛り上げなきゃね」
古着屋で、八百屋でもある「HEX HIVE」には、常連客から観光客までさまざまな人たちが出入りしている。まさしく「人が集まる場所」になった。
「今はほぼ八百屋ですやん。年配の常連さんからは『銀行前の八百屋』って呼ばれてます(笑)」
「店の人気の秘訣は?」と聞いてみると、「値段も手頃だけど、やっぱり(商品の)味ですよね」と片石さんは語る。
「大根なんて葉の先までピンピンやし、トウモロコシはめちゃめちゃ甘い。レジの前でお客さんが『これ、おいしかったわ』『ここのキュウリ食べたら、よそのは食べられへんわ』って言ってくれると、別の人が『それなら私も買おう』って。ありがたいですね」
取材したこの日、19歳の大学生がアルバイトで働いていた。話を聞いてみると、昨年から奈良市内の大学に通うために神奈川県からやって来て、ひとり暮らしをしているという。溌剌と働く学生を見て、片石さんは目を細めて笑った。
「彼は、もともとお店に通ってくださっていた人です。面接に来た時『ここの野菜で自炊したらおいしくて』って言うてくれて。すごくうれしかったですね。パートの方も常連さんが多いんですよ」
洋服は、店の1割しか置いていないものの、これからも販売を続けるそうだ。それは、うれしい再会があるからだという。
「30年前に服を買いに来ていた高校生が、今は50歳くらいになってはって、服を吊っとくと寄ってくれるんですよ。『おっちゃん、(古着屋を)まだやっとったん!』ってね。なんだか懐かしくて、それが面白いんです。もう今じゃ飾りみたいになってるけど、『そのうち売れるかなぁ』って思いながら、在庫もたくさんあるんでやっています」
ふと、お店の奥にいる、全身白色でコーディネートした年配の男性と目が合った。椅子に腰を下ろし、ビールを片手にくつろいでいた。「イートインスペースがあるのかな?」と思ったが、そうではなかった。店に頻繁に足を運んでくれる客なのだという。
「あのおっちゃんはもう80歳くらいかな。しょっちゅう来てくださいます。ここのキュウリや大根で漬物をつけはるんですよ。もう20年くらい通ってくださいますね。いつだったか『ビール1杯、頼むわ』って言われて、気が付くとおっちゃんの休憩場になってました(笑)」
その男性が、私に「この店、ほんま好きなんや。いろいろ聞いたって!」と言った。洋楽ロックが流れる店内には、なんとも心地よい空気が流れていた。
取材・文・撮影=池田アユリ
編集=川内イオ