世界のトップレストランが求める伊根町「向井酒造」の酒 生みの親は「常識外れ」の女性杜氏

2022.4.15 | Author: 川内イオ
世界のトップレストランが求める伊根町「向井酒造」の酒 生みの親は「常識外れ」の女性杜氏

世界のトップレストランに認められた味――

 

グルメ界のアカデミー賞とも称される「世界のベスト・レストラン50」で過去に4度、1位を獲得したデンマークの伝説的レストラン「noma(ノーマ)」。

 

オーストラリアで最も多くの受賞歴を持ち、国内外のセレブ御用達、シドニーで最も予約が難しいレストランと言われる「Quay(キー)」。

 

ノルウェーのオスロにある、スカンジナビア半島で初めてミシュラン3つ星を獲得したレストラン「MAAEMO(マエモ)」。

 

美食家なら誰もが名を知るようなこのレストランに、共通していることがある。丹後半島の北端に位置する海辺の小さな町、伊根町にある向井酒造の日本酒「伊根満開」を出していることだ。

 

日本酒と言えば透明というイメージがあるが、伊根満開は鮮やかな朱色。フルーティーで品のいい甘酸っぱさを感じさせるこの日本酒は、古代米の一種「紫黒米(しこくまい)」で醸されている。その評価は高く、2019年に開催されたG20大阪サミットでも提供されている。

 

文字通り異色の酒を開発し、宝暦4年(1754年)創業の老舗、向井酒造の名前を世界に知らしめたのは、ひとりの女性だ。

漁師の町で「お嬢さん」と呼ばれて

京都の福知山駅から車で北上し、およそ1時間半。丹後半島の海沿いの入り組んだ道を進んでいくと、伊根町に入る。伊根湾に面し、古くから漁業が盛んだった伊根町には、1階が船のガレージ、2階が居室になっている「舟屋」が約230軒立ち並ぶ。漁業と生活が一体となって営まれてきた独特の景観は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

向井酒造が酒蔵を構えるのも、その保存地区の一角。酒蔵と海までの距離は1メートルほどしかなく、「日本で一番、海に近い酒蔵」と呼ばれている。海を眺められるように置かれたベンチの脇には、釣竿が置かれていた。「ここで釣りをするんですか?」と尋ねると、向井久仁子さんはニコリとほほ笑んだ。

「うちのスタッフが、昼休みとか仕事が終わった後に、釣ってますね」

23歳の時から酒造りの責任者である杜氏を務めている彼女こそ、伊根満開の生みの親だ。

向井さんは1975年、先代の長女として生まれた。伊根町は当時、今と比べものにならないほど漁業が盛んで、小学校の時23人いた向井さんのクラスメイトのうち、親が漁師という子どもが20人はいたという。

漁師の町で、向井さんはいつも「向井さんのところのお嬢さん」という意味で、「じょこちゃん」と呼ばれていた。それが特別扱いされているように感じて、「すごくイヤだった」と振り返る。

疎外感を感じていた向井さんは漁師に強い憧れを抱いた。同時に、「なんでうちの親は漁師じゃないんだ」というやり場のない不満を抱くようになった。そのうえ、小学生の時から「お前は後継ぎ」と言われて育ち、自分の将来を自分で決められないことへの反感もあったこと、昔気質の父親から厳しく躾けられたこともあり、思春期に入ると反抗的な態度をとるようになった。

 

進路を巡るバトル

小学校6年生の時に弟が生まれて、後継ぎのプレッシャーから解放された向井さんの夢は「漁師のお嫁さん」。漁師の仕事にも興味があったので、高校進学時は隣町の宮津にある海洋高校に進学しようと考えていた。両親は当初その意思を認めていたのだが、土壇場になって父親から普通科のある宮津高校に行くように言われた。

「宮津高校に行くならお金を出したるけど、ほかに行くなら出さん、家で働いて自分でお金を稼いで行けと言われて。それで渋々、宮津高校を受けました。ほんとつらかったですね。実際に通い始めたら、3年間、すごく楽しかったんですけど」

高校卒業後の進路についても、同じようなやり取りが繰り返された。向井さんの同級生は大阪の専門学校に進学する人が多く、向井さんも「料理が好き」という理由で、大阪にある辻調理専門学校に行こう考えていた。両親もその希望を受け入れてくれたので、早々に入学金を払った。ところが、父親の態度が急転する。

「父は東京農業大学の出身なんですけど、大学の同窓会に行った時、同級生がみんな自分の子どもを農大に入れると言っていたみたいなんです。それで、帰ってきた途端に『農大に行け!』と言い出して、大ゲンカになりました」

そこから強権的な父親と自由を求める娘の激しいバトルが繰り広げられたのだが、「辻のお金は払ったる。でも、落ちてもいいから、力試しで農大を受験しろ」という父親に押し切られ、嫌々ながらも受験することになった。

ちなみに、向井さんは勉強が得意ではなく、高校では補修授業の常連。担任は「もし、久仁子さんが合格したら、逆立ちして宮津を一周しますよ」と大笑いしたそうだ。向井さんも「万が一にも受かるわけない」と思っていたという。

しかし、父親だけは本気だった。入試前の2、3カ月前、向井さんを東京の親戚の家に送り込み、勉強がよくできた従妹を家庭教師につけてもらった。そこで、朝8時から22時まで、食事の時間とわずかな休憩時間を除いて勉強漬けの毎日が始まる。

 

母親の正夢

それでもやはり付け焼き刃には限界があり、結果は不合格。実家に戻った向井さんは悔しさもなく、むしろ「辻に行ける!」と内心喜んでいた。その時、父親から非情な一言を告げられる。

「お前は浪人するか、ここで働くか、選べ。お前が東京に受験勉強に行くと決まった日に、辻に電話して入学を取り消しておいた」

それを聞いた向井さんは怒り狂い、号泣しながらの大ゲンカになった。それでも、一度取り消してしまったものはどうにもならない。農大に行くつもりは「1ミリ」もなかったそうだが、「もう耐えられない。こんな家にいたくない」という一心で、東京で浪人することを決心した。

迎えた3月のある日。朝、起きてきた母親が「久仁子が農大に受かる夢を見た」と言い出した。辻の一件で怒りが収まっていなかった向井さんは、「その話するのやめて」と冷たく遮った。

間もなくして、向井家に郵便配達員が訪ねてきた。向井さんが受け取った手紙の差出人は、東京農業大学。なんだ? と思って封を切り、中身を確認した瞬間、言葉を失った。

「補欠合格のお知らせ」

呆然としながら両親に知らせると、狂喜乱舞せんばかりに涙を流して喜んだ。その様子を見た向井さんは、別の意味でまた泣いた。

「農大には100%行くつもりがなかったから、『これで絶対に行かされる』と思ったら怖くなって涙が出てきたんです(笑)」

1994年4月、向井さんは恐怖に打ち震えながら東京農業大学醸造学科に入学した。

 

人生を変えた恩師との出会い

怯えながらの新生活は、すぐに楽しい毎日に変わった。もともと明るく朗らかでよく笑う向井さんは子どもの頃から友だちが多く、大学でもあっという間に友だちの輪を広げたのだ。

入学から間もなくして、運命の出会いが訪れる。富士山の麓にある農大の施設で、泊りがけのオリエンテーリングが行われた日のこと。

最初の挨拶に立ったのが、当時、学科長を務めていた竹田正久教授だった。小柄ながらがっちりした体格で、白髪をオールバックにして厳めしい顔つきをしていた竹田教授は、ニコリともせずに出身地の熊本弁で話し始めた。

「怖そうなルックスと熊本弁のギャップに萌えてしまって! 大好きになりました」。

大学3年生になった向井さんは、人気があり倍率が高かった竹田教授の研究室に運よく入ることができた。研究室で実習が始まるのは4年生になってからだったが、それまでまじめに勉強をしていなかった向井さんは「今からやっとかんと、マジでヤバい」と危機感を抱き、半年前から研究室に通い始めた。竹田教授はその前向きな姿勢を認め、目にかけてくれたそうだ。

とはいっても、ニコニコしてかわいがってくれるようなキャラではない。4年になり、研究が始まると、向井さんが間の抜けた質問をしようものなら「お前はなにをやっとったんだ!」と怒られ、「これができるまで帰るな!」と課題を出された。向井さんはなにを言われても必死に食らいつき、遅い時間まで課題に取り組んだ。

すると竹田教授が戻ってきて、ほかに残っている学生と一緒に、いつも寿司屋に連れて行ってくれた。その時ばかりは竹田教授も酒を飲んでリラックスし、ワイワイと語り合った。

時には、すっかり酔っ払った竹田教授が、最寄り駅の改札で「農大、バンザーイ!」と叫び、その場にいた学生たちも胸が熱くなって「せんせーい!」と大きく手を振るという青春映画のワンシーンのような瞬間もあったという。

卒業論文のテーマを決める時、竹田教授から「お前は目を離すとなにをしでかすかわからないから、一緒にやるぞ」と言われて、ふたりで新酒の開発を始めた。その時に目指したのが、「話題性のある酒造り」だ。

「先生は、私が研究室に入った時から『今は酒造りの技術が発展して、まずい酒がない。それに、日本酒以外にも、いろいろな酒が入ってきている。これからは、物語や話題性のある酒造りをしないと大変になるぞ』と言っていたんです。先生はアイデアマンなので、超淡麗のお酒とか、お米を蒸すんじゃなくて炒って仕込むお酒とか、いろいろ面白いお酒を造りました」

卒業が近づいてきたある日、竹田教授がまた閃いた。

「おい、赤い酒を造るぞ」

新潟には、赤い色を出す「赤色酵母」を使ったお酒がある。それをヒントに、酵母ではなく古代米を使って赤い酒にしようという話だった。

この赤い酒を完成させるには時間が足りなかったのだが、向井さんがとりわけ仲良くしていた後輩がこの研究を引き継ぐことになった。

 

父親からの電話

向井さんは大学卒業後、以前から父親が親しくしていた埼玉の神亀酒造で修行することが決まっていた。これは「親孝行」しようという想いから決めたことだった。

「あれだけ農大に行きたくないと騒いだ割に、大学生活があまりにも楽しかったので、親孝行せんとバチが当たるなと思ったんです。無理やり行かせてくれてほんまよかったなと思って。だけど、どこにも就職せんと帰るのはバカにされそうだなと思ったので、2、3年、どこかで修行してから帰ろうと決めたんです」

あとは卒業を待つばかりという1998年3月、父娘の3度目の大バトルが始まった。神亀酒造で働くことを認めていた父親から突然、「帰ってこい!」と電話があったのだ。なにを言っても「とにかく帰ってこい!」の一点張りで埒が明かない。

それでも神亀酒造で働くつもりだった向井さんは、埼玉でアパートを借りるための資金を貸してほしいと母親に頼んだが、「お父さんがダメだと言ってるから、あかん。一回、帰って来なさい」と言われてしまい、泣く泣く帰郷した。それにしても、なぜいきなり帰れと言ったのか? 問いただした向井さんに明かされたのは、仰天の理由だった。

「それまで杜氏をしていた父が町長選に出馬すると。それで、お酒を造る人がいなくなるから、連れ戻されたんです。結局、私の人生はすべて親が敷いたレールの上かと悔しかったですね」

その時も、ゴジラ対キングギドラの闘いばりの大ゲンカになったものの、ほとぼりが冷めた頃には「後継ぎには弟がいる。いつか結婚して、家を出ていくんだ」と気持ちを切り替えた。

 

24歳で杜氏に就任

1年目は、父親が書き記したレシピをもとに、ベテランの蔵人たちが酒を仕込んだ。向井さんは、子どもの頃から馴染みの蔵人のもとで実家での初めての酒造りに携わり、「むちゃくちゃ楽しかった」と振り返る。

2年目、町長に当選した父親に「お前が杜氏をしろ」と言われ、若干、23歳で杜氏に就いた。就任当時は京都府内初の女性杜氏で、年齢や経験も考えれば異例の大抜擢だった。この時、「軽い気持ちでわかったと言っちゃった」ことを後々、後悔するようになる。

いつもなら酒造りが始まる11月半ば。待てど暮らせど、酒の原料となる米がこない。準備を整えつつ、「いつ来るんだろう?」と首をひねっていたら京都酒造組合から電話が来た。

「向井さんは今年、お酒を造らないんですか?」

はあ!? と戸惑いながら話を聞いて、致命的なミスに気づいた。事前に米を注文するということを、知らされていなかったのだ。すぐに父親に「なんで教えてくれなかったの?」と電話をしたら「注文せな、なにも来ないことなんて、考えたわかるだろ!」と怒鳴り返された。

幸い、向井酒造の年間の生産量は500石(一升瓶なら5万本)と小規模だったので、酒造組合が米を用意してくれて、事なきをえた。

しかし、トラブルはこれで終わらなかった。杜氏は、酒造りの責任者である。1年目に蔵人たちの仕事を見ながら、「もっとこうしたらいいんじゃないかな?」と思っていたことを取り入れたところ、それが昔ながらのやり方に慣れた4人の蔵人たちの逆鱗に触れた。

理由を説明しても「そんなの知らん!」と聞いてもらえず、口をきいてもらえない、頼んだ仕事もやってくれないという日が続いた。向井さんも腹を立て、意地になっていたから、ひとりで作業を進めるも、全員でやれば10分で終わる仕事が1時間かかる。

 

お金を出してでもせなあかん経験

しかも、当時は日本酒の売り上げが焼酎に追い越されて、2年間に全国でおよそ200の蔵が閉鎖した時期と重なる。向井酒造の売り上げも急激に下がり、経営が厳しくなっていた。

仕込みの期間は泊りがけで酒の状態を確認しなくてはならないのだが、蔵人にその給料を払うことも難しくなり、向井さんひとりで担う仕事が多くなった。当然、負担が増えた分、仕事がずれ込み、蔵人たちが仕事を終える時間も遅くなって、さらに険悪に。

この冷戦状態が終わるきっかけになったのは、親身になって相談に乗ってくれた岡山の杜氏のアドバイス。「蔵人たちが出勤してくる8時までに彼らの仕事の準備を整えておけば、すぐに動き始められる」と聞き、朝4時に起きて蔵人が出勤するまでに段取りを整えるようにしたところ、スムーズに仕事が進むようになった。それだけでなく、向井さんが蔵人を気遣っていることが伝わり、最終的には全員が朝6時に出勤して、協力し合いながら作業をするようになった。

初めて杜氏を務めた年のお酒の味はいかがでしたか? と尋ねると、向井さんは苦笑した。

「今だから言えるけど、まずくてビックリ!(笑) もちろん、普通に飲める味ではありましたけど、後々になって、いろんな人から『あの時の酒はひどかった』って言われました」

この1年目以降、今に至るまで、「お酒造りをする上で大切なことは?」と質問されるたびに、向井さんは「信頼関係を作ること」と答えている。

「技術的なことを言いだしたらキリがないですけど、お酒は人の協力があってできるものだから、なんぼ技術があってもひとりよがりでやるのは絶対ダメですね」

杜氏になってしばらく後、地域の杜氏の集まりがあり、70代、80代のベテランたちに1年目の出来事を話したら、こう言われた。

「お金を出してでもせなあかん経験をできて、くにちゃんよかったな」

蔵人が、雇用主である蔵元の娘につらく当たることなどめったにない。言われたことを黙ってやるほうが、リスクが少ないからだ。向井さんは蔵人と真正面からぶつかり、そのうえで信頼関係の大切さに気付いた。それはまさに、「お金を出してでもせなあかん経験」だったのだろう。

 

先輩杜氏から言われた言葉

実は、向井さんは実家に戻ってすぐの1998年から、伊根満開を造り始めていた。大学を卒業した年の春、竹田教授から九州の古代米を分けてもらい、伊根町の米農家に栽培を頼んだ。

そして研究を引き継いだ後輩のノウハウをもとに、その秋にできた古代米で最初の伊根満開を造ったのだ。当時、古代米で造った酒はほかになく、鮮やかな朱色という見た目もあって大きな話題を呼び、全国から見学者が訪れた。1500キロの古代米で造った伊根満開は、通常なら1年かけて売るところ、3カ月で完売した。

実はこの時に出会ったのが、向井さんに助言をくれた岡山の杜氏。見方を変えれば、伊根満開が向井さんを救ってくれたともいえる。

「伊根満開」と原料となる古代米

杜氏になって1年目に仕込んだ酒をなんとか仕上げた後も、向井さんはろくに修業もしていない自分が杜氏と呼ばれることに疑問を感じ、しばらくは「製造責任者」と名乗っていた。

どうにかして酒造りの腕を磨かなければと考えた向井さんは2年目以降、毎年お歳暮の準備で仕込みが止まる12月半ば、ツテをたどってあちこちの酒蔵を訪ね、現場を手伝わせてもらった。そうして必死に酒造りを学んでいたある時、先輩杜氏から言われた言葉が胸に沁みた。

「伊根満開は、常識が叩き込まれた俺たちには造れない。お前だからこそできた酒だ」

この言葉を聞いて、初めて「修行しなかったからこそ、自由な発想ができた」と自分を認めることができ、「杜氏」と名乗るようになったのだ。

 

増え続ける海外からの注文

古くからの原料、製法を守り続ける杜氏も多いが、酒造りの常識に染まっていない向井さんは変化を恐れず、アイデアを大切にして、次々と新しい酒を造るようになった。

伊根満開も、最初に造ったものから少しずつ進化している。まず、九州の古代米はうまく根付かなかったため、2年目以降、伊根町の風土に合う古代米を一から探すことにした。

一年に2種類ずつ植えてもらい、3年で計6種類を試した結果、もち米の一種「あさむらさき」を採用することにした。さらにその後、タンパク質、ミネラル、ビタミンも多く含まれ、育てやすく色が濃い「紫小町」の存在を知り、今は伊根町の米農家に紫小町を作ってもらっている。

「よりおいしい酒」を求めて常にチャレンジしてきたからこそ、名だたるレストランが求めるような味を生み出すことができたのだろう。

今、伊根満開はアメリカ、フランス、ベルギー、オランダ、オーストラリア、ノルウェー、デンマークシンガポール、台湾などに輸出されており、向井酒造の売り上げの50%を占める。さらに、伊根満開の味を知ったことで、向井酒造のほかの酒にも興味が拡がっているのだろう。コロナ禍で日本での売り上げは落ちたが、海外からの注文は減らず、むしろ少し増えているという。

「ほんと助かってますね。数年前から濁り酒も輸出してるんですけど、アメリカから今まで造ったことがないぐらいの量の予約がありました」

 

自分の身体は自分で守る

ここ数年、向井さんが力を入れているのが、無農薬栽培の米を使った酒造りだ。きっかけは、ワインだった。

向井さんはもともとワイン好きだったが、日本酒が身近にある生活を送っているうちに、ワインが飲めない体質になっていた。しかし、「noma」でソムリエをしていた日本人が主催するワインイベントに参加した時、勧められてオーガニックワインを口に含んだら、野性味がある素朴な味で、身体にスッと沁み込むような感覚がして、おいしく飲めた。

「なんで?」と疑問に思っていたら、数年前に向井酒造で試験的に無農薬栽培米で仕込んだ酒と感触が似ていることに気が付いた。その共通点が「おもしろい!」と感じた向井さんは、改めて農薬や食品添加物について調べ始めた。農大出身で科学的な思考が身についていたから、「リスクがないとは言えない」という事実に気が付くのに時間はかからなかった。

もともと、身体に優しく、米の旨味が伝わる酒を造ろうと、醸造アルコールを使わず、米だけの酒造りをしてきた向井さんは、その取り組みをもう一歩進めて、無農薬栽培の米を使った酒造りを再開することにした。

そのタイミングで、同じ宮津市内で無農薬栽培のコシヒカリを作っている生産者から行き場のない米があると聞いた。それなら、と買い取って仕込んだのが、2020年3月に発売した「京の春 生酛仕込特別純米原酒 ひとやすみ」だ。

ちょうどこの頃から新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、「自分の体は自分で守らなきゃいけない、免疫力を上げるために安心なものを」と考えた向井さん。もっと無農薬栽培米を仕入れたいと思っていたところ、京都の綾部市、兵庫の但馬、そして地元の伊根町で無農薬栽培や減農薬有機栽培をしている米農家と立て続けに知り合った。その米を使った酒が2023年の春に発売される。

「今は自分が信頼できる生産者と組んでお酒を造るのがほんと楽しいですね。海外ではオーガニックワインの勢いがすごいし、これからは無農薬栽培、減農薬有機栽培の米を中心にやっていきたいです」

取材の日、以前に向井酒造でインターンをしたという農大の女子学生たちがアポなしで訪ねてきていた。向井さんは飛び切りの笑顔で、どこに泊まるの? うちに泊まっていきなさいと言った。その女子学生たちは嬉しそうに、近所の学童クラブに向井さんの息子を迎えに行った。

ひと通りの話を聞いた後、蔵を見せてほしいと頼むと、2014年に社長に就任した向井さんの弟が案内してくれた。「土壁の蔵は珍しいんですよ。100年以上経ってます」と教えてくれた。

向井さんが「いつか家を出ていく」と心に誓った22歳の春から、はや24年。いつの間にか酒造りに魅了され、その道を歩み続けてきた。恩師、竹田教授から言われた「物語や話題性のある酒造りをしなさい」という言葉を胸に、今日も蔵に通う。

 

文・取材 = 川内イオ
編集 = ロコラバ編集部

 

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