人口400人の町で生まれた世界企業。義肢装具会社「中村ブレイス」の2代目が“支える”大切さに気づくまで

2022.5.11 | Author: 池田アユリ
人口400人の町で生まれた世界企業。義肢装具会社「中村ブレイス」の2代目が“支える”大切さに気づくまで

コンビニもない、人口400人の小さな町に世界企業がある。

 

島根県大田市大森町に社屋を構える、義肢装具会社の「中村ブレイス」だ。日本の装具のほとんどがオーダーメイドだった時代から、同社は地道にオリジナルの製品開発を続けてきた。創業者・中村俊郎さんは新聞やテレビでたびたび取り上げられ、2008年に渋沢栄一賞を受賞するなど注目を集めた。いまでは日本中から入社希望者が集まり、世界中から注文が入る。

 

そんな世界企業の2代目として会社を引き継いだのが、中村宣郎(のぶろう)さん。「人を支える。それが仕事です」と語る、その思いを聞いた。

2003年の春、中村宣郎さんは入社早々、アフガニスタンにいた。

アフガニスタンとアメリカとの戦争が勃発して3年が経ったこの年、一時紛争が落ち着いていたが油断を許さない状況だった。宣郎さんはそこでの出来事が忘れられない。

同年に撮影・公開された映画『アイ・ラヴ・ピース』。義肢装具士を目指すろう者の日本人女性と、地雷で片足を失ったアフガニスタンの少女との心の交流を描いた作品だ。映画の撮影は日本とアフガニスタンで行われた。撮影場所となったのが、義肢装具会社の中村ブレイスで、社内から撮影に同行する技術指導者を選ぶことになる。

そこで、社長の息子である宣郎さんの名が挙がった。映画の撮影とはいえ、紛争地域であったところに一般の社員を行かせるわけにはいかないだろうと思った宣郎さんは、アフガニスタンへの同行を引き受けた。

アフガニスタンの状況に、宣郎さんは想像以上にショックを受ける。地雷や銃で手足をなくした人たちが地べたに座り込み、義手や義足をつけられないまま生活を送っていた。撮影班を囲むのは、自動小銃を脇に抱えたボディーガードたち。厳戒態勢での撮影だった。

そんなとき、宣郎さんの耳元を何かがヒュッとかすめた。……トマトだった。

なぜ、トマトが投げられたのか。定かではないが、通訳の女性が肌を少し露出していたことから、宗教的な観点で現地の人たちの怒りをかったのでは、ということだった。もしこれが銃弾だったら、という思いがよぎって震えた。

撮影は、診療所のシーンに移った。撮影のため手足を失った現地の人たちを集めて、義肢の型取りを行った。けれどこれは映画である。本当に義肢を作るわけではない。

宣郎さんはもどかしい気持ちになった。映画の撮影だと説明はしていたけれど、ただ型を取られるだけの人たちはどう感じているのか、と。

「次につながるようなことができたらいいのに……」

宣郎さんはその光景を見ながら、強くそう思った。

 

「これが、義足……」父の仕事を知った少年時代

2007年に世界遺産に登録された石見銀山(いわみぎんさん)では、江戸時代前期まで大量の銀が採れ、山の麓にある島根県大田市大森町には仕事を求める20万の人々が住んでいたといわれている。しかし、銀は少しずつ取れなくなっていき、町は「ゴーストタウン化」していった。

1974年、宣郎さんの父である中村俊郎さんは、過疎が進む大森町で、かねてから技術を磨いてきた義肢装具を作るために中村ブレイスを創業した。なぜ、俊郎さんは最寄り駅から車で30分ほどかかる辺鄙な場所で創業したのか。それは、自身が育ってきた町が寂れていく姿をなんとか変えたいと願ったからだった。

ここで、義肢装具について説明しよう。この言葉には「義肢」と「装具」の2つの意味がある。義肢は、不慮の事故や病気で失った身体の一部の代わりとなる義手や義足のこと。装具は、体の機能の回復や症状を軽減するためのコルセットやサポーターのことを指す。そして、患者さんの型取りをし、一つ一つ手作業で製作、適合させるのが義肢装具士の仕事だ。

中村ブレイスが走り始めた1977年に、中村家の長男として宣郎さんは生まれた。

「私が子どもの時、会社は自宅の隣にありました。当時はプレハブの二階建ての社屋で、母や事務員のお姉さんが働いていたんです。小学校から帰るとよく遊びに行っていましたね。1階の製作所では父がカンカンッと鋲を打ったり、支柱を曲げたりしていたのですが、私は義足という言葉を知らず、『何か作っているなぁ』という感じでした」

宣郎さんが義足を初めて認識したのは、小学校低学年の頃だ。

「その頃に入社した大森浩己(ひろみ)が、義足ユーザーでした。大森は私たちの家の隣に住み、お風呂だけ借りにきていて。あるとき、脱衣所に彼の義足が置いてあったんです。それをまじまじと見つめたことを鮮明に覚えています。『あぁ、父たちはこれを作っているんだな』と思いました」

宣郎さんは義足の存在を認識することで、義肢装具が必要な人がいることを知った。

大森さん(右)は現在も義肢製作の部署で働いている。

 

甲子園の夢やぶれ、大学受験で迷走

創業時、親戚や知人にコルセットを作る程度しか仕事がなかった中村ブレイスだが、少しずつ病院からの依頼が増え、さまざまな義肢装具の注文が入るようになった。プレハブの社屋では手狭になり、「大森代官所跡」バス停前の川沿いに会社を移転。会社が自宅の隣ではなくなったことで、宣郎さんが会社に行く機会は減っていった。

それは、宣郎さんに熱中するものができたからでもある。小学校の高学年になってから、野球にハマった。中学校でも野球を続け、市内の高校に入学してからは、甲子園出場を目指して情熱を燃やした。高校2年の秋は県大会ベスト4に進出したが、甲子園の切符を手にすることはできなかった。

中村ブレイスの社屋。奥まで工房が続いている。

落胆する間もなく、進路を考える時期が迫っていた。

「親がやっているからこの仕事を継ぐとか、すぐに義肢装具士の資格を取りに行くっていうのは嫌だなと思っていました。いわゆる、レールに乗っかるということはやりたくないなと思ったんです」

そこで宣郎さんは、東京の大学を受験することにした。しかし、野球で燃え尽きてしまったのか、なかなか勉強に身が入らず、希望した大学に落ちてしまう。最終的に受かったのは、日本大学経済学部の夜間部だった。

入学するも、宣郎さんは「もう一度大学受験をやり直したい」と、休学して予備校に通い始める。けれど、翌年も行きたい大学に合格できず、結局同じ大学の夜間部を1年生からやり直すことになった。

こうなると、親の反応が気になるところだが、父は一切宣郎さんの進路に口を出さなかった。母も心配はするものの、あたたかく見守ってくれていた。2年続けて大学受験に失敗した宣郎さんは、挫折感を味わったまま東京で過ごした。

 

「中村ブレイス」の長男が、義肢装具の学校でまさかの留年

一方、父・俊郎さんの存在はメディアで大きく取り上げられるようになっていた。

本物と見分けが付かないほどリアルに作られた義手や人工乳房が義肢装具業界に革命を起こし、メディアはその精巧な技術に注目。中村ブレイスは海外にも意欲的に販路を広げ、ドイツ、フランスなど各国から注文が入るまでになった。ゴーストタウンの町で会社を立ち上げ、世界企業にした俊郎さんの人生にスポットライトが当たる。

シリコーンゴム製の義肢や人工乳房。

1997年、20歳になった宣郎さんは父が登場するテレビ番組や記事を一つ一つ読んだ。知ることのなかった父の人生や仕事への想い。本人から話を聞くよりもメディアを通した方がそれをダイレクトに実感することができ、「義肢装具士は人を幸せにする仕事なんだな」と思うようになる。

その頃、中村ブレイスでモンゴル人の少年の義足を無償で製作するプロジェクトが立ち上がった。

遊牧民であるその少年は、羊の世話をしているときに火災に巻き込まれ、両足に大やけどを負ってしまった。病院に運ばれ一命はとりとめたものの、少年は両足を付け根あたりから切断するほかなかった。体調が回復した後、少年はこう言った。「もう一度自分の足で、草原に立ちたい」と。

その話を知人から聞いた俊郎さんは航空チケットを用意し、少年をモンゴルから呼び寄せ、義足製作に着手。義足が完成するまでつきっきりで対応した。

義足は、想像以上にデリケートなものである。本人の型を取ったとしても、足の切断面と義足がぴったり合うとは限らない。たとえフィットしたとしても、義足を使いこなすためには、装着から歩行をするところまで厳しい訓練をする必要がある。ひと通りの訓練を終えても、成長期の少年なので義足が成長とともに合わなくなる。そこで俊郎さんはモンゴルに帰った少年のもとをたびたび訪れ、少年の身体の成長に合わせて義足を調整し行った。

このモンゴル遠征に、大学3年生の宣郎さんもついていったことがある。リハビリでの少年の涙ぐましい努力、それを支える父や義肢装具士たちの献身……。その姿を目の当たりにして、宣郎さんは静かに感動していた。

「こういうことができる仕事ってほかにはないな。面白そうだな」

この遠征で、宣郎さんは父の会社で働こうと考え始める。

モンゴルにて(中村ブレイスより提供)

大学4年生になると、義肢装具士の資格を取得するために早稲田医療専門学校に入学した。いわゆるダブルスクールで、1年間は大学と並行して通う算段だった。けれど、宣郎さんは義肢装具士の勉強を少し甘く見ていた。

「ちょっと頑張ればいけるだろうと安易な気持ち過ごしたら、大学は卒業できたんですが、専門学校の方は留年してしまったんです……」

宣郎さんは、留年を言い渡された日をはっきり覚えている。

担当教師から教室に呼びだされ、出席日数が書かれたプリント用紙をずいっと突きつけられた。宣郎さんは大学の授業と同じ感覚だったが、医療分野の資格取得はそれほど甘くなかった。

「出席日数が足りないからね」と言われ、宣郎さんは心の中で「もうちょっと早く言ってくれれば」とも思ったが、留年を受け入れるしかなかった。

「学校では『中村ブレイスの長男が入った』と思われていたようなんですが、この体たらくだったので、先生も『それ見たことか!』みたいな感じだったのかもしれません。先生たちは甘やかすことなく厳しく指導してくれました」

その後、宣郎さんは3年制の専門学校を4年かけて卒業し、義肢装具士の免許を取得した。

 

中村ブレイスに入社、初仕事はアフガニスタン遠征

2003年、26歳になった宣郎さんは、義肢装具士として中村ブレイスに入社。すぐに仕事に取り掛かると思いきや、特殊な仕事が舞い込んだ。

そう、冒頭に記した映画『アイ・ラブ・ピース』の撮影である。義肢装具士として、撮影に同行することになったのだ。そこで宣郎さんはアフガニスタンの少女と出会う。

オーディションにより出演が決まったアフィファ・アミリさんは、地雷により右足を失くしていた。宣郎さんは、映画の中で重要な役を演じるアフィファさんをサポートすることになった。そこで、日本での撮影時に中村ブレイスから彼女に義足をプレゼントすることになる。

義足の付け根部分。一人一人に合うよう手作業で調整が行われる。

モンゴルの少年同様、少女にも義足の訓練が必要だった。物静かな少女は、痛みに耐えながら義足の訓練を行った。宣郎さんは彼女の表情や動きを見ながら、義足の調整を施していく。

異国の少女をサポートすることで、宣郎さんは「自分でも、誰かの役に立てるのだな」と感じた。

応接室には、モンゴルの少年とアフィファさんの写真が飾られている。

帰国後、宣郎さんは義肢部門に配属され、本格的にキャリアをスタート。午前中に病院へ向かい、医師と連携を取りながら患者の話を聞く。そして体に触れ、型を取る。会社に戻って製作に取り掛かるというサイクルだ。目まぐるしい毎日だったが、宣郎さんは「それが当たり前だ」と思った。それは、父の通ってきた道だったからだ。

「父が現役の義肢装具士だった頃は会社の創業期でしたから、病院から仕事をもらうのは地域性やほかの会社とのとしがらみもあって、なかなか難しかったようです。また、今は車道も整備されて病院に通いやすくなりましたが、当時は大きな病院に行くのに片道3時間もかかり、毎朝日が昇る前に大森町を出発したそうです。それも社員を育てながらだったので、私の何百倍も大変だったということは想像がつきます」

 

両親への懺悔…義肢装具士として成長するために大学院へ

2007年、30歳になった宣郎さんは義肢装具士として歩みながら、ある悩みを抱えていた。

「大学や専門学校で勉強したようには見えますけど、中身でいうと一生懸命やったとは言えないと、ずっと思っていました。『中途半端だったな』という気持ちを何年も引きずっていたんです」

負い目を感じながら働いていたある日、社員から「島根大学の大学院に医学系の研究科があり、そこで義肢装具の研究ができるらしい」と話を聞きつける。宣郎さんはこれが最後のチャンスかもしれない、と思った。

宣郎さんは俊郎さんのもとに向かい、「大学院で、義肢装具を学びたい」と頼んだ。すると、俊郎さんは「卒業まで何年かかっても構わないから、納得できるまで勉強しておいで」と、快く送り出してくれた。宣郎さんは平日の午前中から昼まで会社で働き、夕方から大学院に通うことになった。

当時のことを、宣郎さんはこう振り返る。

「両親への懺悔というか、中村ブレイスの社員として息子として、しっかり勉強したことを見せたかったという気持ちがありました。それまでの過程は褒めるようなものじゃなかったですから。もう一度勉強できるチャンスがあれば挑戦したい。自分自身がどこまでできるかっていうのもチャレンジしたかったし、それを両親に見てもらえれば親孝行になると思いました」

大学院では、義肢装具を万人に使いやすいものにするための研究を行った。同じ症状を持つ人でも、同じ装具で満足してもらえるとは限らない。宣郎さんは多くの人にとって使いやすいものを作りたいと考えて研究を進めた。幸い、院内には義肢装具に精通する教授や助教授がいて、宣郎さんはいつでも相談できた。「この経験が、製品の改善や開発の糸口になっています」と宣郎さんは言う。

 

私財を投入した古民家再生プロジェクト

あまり知られていないことだが、中村ブレイスは義肢装具のほかにも事業を行っている。

大森町の古民家の再生事業だ。それも、数軒の話ではない。このプロジェクトは1974年の中村ブレイス創業時から始まっており、1年に1軒以上のペースで再生。現在は64軒が完成している。

昔ながらの外観を残しながら、人が住めるように修繕していった。

大森町一帯は1987年に伝統的建造物群保存地区に認定され、2007年には石見銀山が世界遺産に登録された。それらの認定に尽力したのが、俊郎さんだ。

なぜ俊郎さんはこれほどの古民家を再生し続け、街並みの保全にこだわるのか。それは、「世界に誇った石見銀山の町を蘇らせたい」という強い思いにほかならない。

再生した古民家はオペラハウスや宿泊施設、パン屋などに蘇り、新たに移住してきた人たちの住処として活用されている。中村ブレイスの社員も同様で、社員81人のうち26人が社宅として古民家に住んでいる。

オペラハウスの内観。

伝統的建築物として外観を保ったまま修繕を行うため、一軒の家を建てるより数倍費用がかかる。それらの費用はすべて会社が負担しているのだ。それをコストと考えると赤字になりはしないかと心配になるが、実は中村ブレイスにとっては投資でもある。

中村ブレイスの主力製品は、シリコーンゴム製のインソールや、コルセットなどの装具だ。既製品なのでオーダーメイドよりも短期間で製作が可能で、全国の病院やほかの義肢装具会社から大量注文が入っても対応できる。

安定した売り上げと流通網があることで中村ブレイスを知り、「この会社で働きたい」と入社を希望する学生も増える。その結果、入社した社員が社宅として古民家を利用するようになる。このように中村ブレイスの門を叩いた社員たちが、会社の屋台骨である製品を作り、町を活性化させているのだ。

需要の多いコルセットの製作。

古民家再生に力を入れる父を、宣郎さんは当初、疑問視していた。

「最初は、父の古民家再生の活動を理解できなかったんです。目的もなく人が住めるように家を直しても、結局何の変化もないんじゃないかと。けれど、今になって再生した古民家でお店を構えたり、新しい家族が移住してくれたりする。いつか役に立つときが来るんだなと思いました」

町に飾られていた、大森町民の写真。

古民家再生事業によって、大森町にも著しい変化が起きた。子どもの数が増えたのだ。

大森町には保育園が一つある。一時期は園児1人だったが、現在は27人に増えた。宣郎さんは3児の父であるが、「上の2人が待機児童になるほど急速に増えたんです」と話す。これは過疎が進む大森町にとって大きな変化だ。

「今年、長男が小学校に入学するのですが、同級生が5人います。今年は複式学級(2つ以上の学年をひとつにした学級)ではなく、学年別でいけるんじゃないかと。これから毎年5人以上が小学校に入学します。今後は全学年で40人ぐらいまでは増える見込みがあるんです」

大森町の中心に位置する、大田市立大森小学校。

現在、65軒目の古民家の修繕が進んでおり、そこは「大森町の図書館」になる。島根県立大学が運営予定の図書館を、中村ブレイスが出資して修繕しているそうだ。研究をしたり本を借りられる場所としてだけなく、読み聞かせやイベントなどを開催しできる、子どもたちが楽しめるスペースを設ける予定だという。

 

2代目が受け継いだ「人を支える」という思い

2018年、42歳になった宣郎さんは、中村ブレイスの2代目として社長に就任した。父である俊郎さんが70歳を迎えるタイミングでの継承だった。現在、俊郎さんは会長となり、宣郎さんの弟・哲郎さんが専務を務めている。

義肢装具士の仕事は根気がいるし、必ずしも作ったものがユーザーに喜んでもらえるとは限らない。けれど、宣郎さんは辞めようと思ったことは一度もなかったという。

「恵まれた環境にいますから、文句言ったり、辞めたいと思ったりしたら罰が当たると思ってやっています。一番は、この仕事が面白い。喜ばれる仕事だという場面に何度も直面しますので、これほどやりがいを感じられる職業はないだろうと思います」

オーダーメイドの装具を手掛ける義肢装具士。

中村ブレイスの社名にある「ブレイス」は、「支える」という意味だ。

創業者である俊郎さんがこの社名をつけた理由は、モンゴルの少年やアフガニスタンの少女に対する無償のサポートや、古民家再生の取り組みからも読み取れるだろう。その想いは、宣郎さんが受け継いでいる。

「助ける、と思ったらダメなんです。そうではなく、支える。サポートしているのです。ヘルプって考えると上から目線になってしまう。その気持ちがあると、うまくいくものもいかなくなると思っています。社員には『ブレイスの気持ちを持ち続けて』と伝えています」

そして、宣郎さんはこう続けた。

「振り返ると、私はいつの間にかレールに乗っていました。けれど今は、頭のなかと現実、気持ちと仕事が同じレールに乗っかっているという感覚があります。それは、父が大切にしてきた『支える』という思いに間違いがないと思ったから。人を支えること、それが仕事です」

取材後、義肢装具の工房を見学させてもらった。社員ひとりひとりが目を合わせ、「こんにちは」と挨拶してくれた。入社したばかりの若者から、ベテランの職人も働いている。この人たちが日本中、世界中の誰かを支えているのだ。いつか私が不自由な身体になったとしても、彼らが不安を拭い去ってくれるのではないかと感じた。

工房の見学の最中、ふと駐車場に目をやると、ステッキをもった男性がゆっくりと歩いていた。会長の俊郎さんだった。駆け寄って挨拶し、会えて光栄ですと伝えると、「こんな遠くまで来てくれてありがとうございます」と笑いかけてくれた。

その笑顔が宣郎さんと重なる。それは、「支える」人の顔だった。

取材・文・撮影 = 池田アユリ
編集 = 川内イオ

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