2011年4月/第91回  ピアノによるバッハ

 2月に、東京の紀尾井ホールで、シフがモダン・ピアノで弾く、バッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻の全曲を聴いた。
 一度の休憩をはさんで24曲を続けて弾くという長大な演奏会で、いつはてるとも知れない、前奏曲とフーガの大迷宮の中にいるような不思議な感覚は、しかしとても心地よい時間だった。それは、シフのつくりだす音楽が味わい深く、遊戯性と真摯な祈りとが共存したものだったからである。ペダルを用いず、タッチの変化だけで生み出される豊かな響きは、ピアノによるバッハ演奏の、一つの頂点と思えるものだった。
 いま、バロック、古典派のジャンルでの、モダン楽器(20世紀楽器)による演奏の「揺り戻し」が始まっているようである。といってもそれは硬直化した、保守反動の動きではない。ピリオド楽器の響き、奏法の美点を理解した上で、それをとりいれ、安定性と豊かさに優れた、モダン楽器独自の可能性を示そうという動きだ。
 アメリカのピアニスト、ディナースタインによるバッハも、その一つといえる。「いちばん大切なのは音楽に語らせること」という彼女は、ピアノでバッハの音楽の息吹を、豊かな表情をよみがえらせる。自主制作したゴルトベルク変奏曲のCD(発売はテラーク)の大ヒットでその名を知られた彼女は、ソニーと契約して録音を開始した。「奇妙な美」という原題のバッハ・アルバムは、その第一弾である。
 教条主義的な演奏は意味がない。どのような方法論であれ、新鮮な音楽を聴かせてくれる演奏家こそが、私たちを感動させてくれる。

 

山崎浩太郎(やまざきこうたろう)
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。演奏家たちの活動とその録音を、その生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書に『クラシック・ヒストリカル108』『名指揮者列伝』(以上アルファベータ)、『クライバーが讃え、ショルティが恐れた男』(キングインターナショナル)、訳書にジョン・カルショー著『ニーベルングの指環』『レコードはまっすぐに』(以上学習研究社)などがある。
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