介護用ケアシューズのシェア日本一、夫婦二人三脚で開発し、ゼロから市場を開拓

2022.7.1 | Author: 池田アユリ
介護用ケアシューズのシェア日本一、夫婦二人三脚で開発し、ゼロから市場を開拓

高齢者や障害を持つ人がはくケアシューズでシェアトップの靴メーカーが、香川県さぬき市にある。田んぼに囲まれたのどかなエリアに社屋を構える「徳武産業」だ。

 

ケアシューズの開発に取り組んだのは、十河(そごう)孝男さんと、妻のヒロ子さん。地道な開発と営業展開で売り上げを伸ばし、「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」、「グッドカンパニー賞」を受賞するなど、日本で高く評価されている。

 

ケアシューズの開発秘話はさまざまなメディアで取り上げられているが、ふたりのルーツについてはあまり触れられていない。孝男さんとヒロ子さんは、なぜ開発を思い立ち、その手を緩めなかったのか――。夫婦のストーリーを聞いた。

農家の親を持つ、それぞれの幼少期

徳武産業を取材したいと思ったのは、私の祖母が同社のシューズを愛用していたからだった。

晩年、祖母は両足がひどく腫れて歩くことができなくなり、車いすで過ごした。歩くことはできなかったが、お気に入りの紫色のシューズをいつも履いていた。祖母の死後、私はケアシューズ(介護の必要な人が履くことを想定して作られた靴)に興味を抱く。

「いったい、どんな人が祖母の靴をつくっているのだろう?」

徳武産業の始まりは、ヒロ子さんの父である徳武重利さんが始めた手袋工場である。

重利さん、静子さんが会社を興したとき、ヒロ子さんは8歳だった。1949年の3月末日生まれのためか、同級生よりも体が小さく、あまり小学校になじめなかったという。「一人で学校に行けず、自分の席の隣に母が座っていたことを覚えています」とヒロ子さん。

一方、後にヒロ子さんと結婚する孝男さんは1947年、香川県木田郡で4人兄弟の長男として生まれる。

両親は農業をしており、あまり裕福とは言えない家庭環境で、孝男さんは小学校高学年から仕事を手伝うようになった。

「当時は牛を使って田んぼを耕していて、その役を任されました。牛と小学5年生の体の大きさを比べたら、そりゃ桁違いです。牛は親父の言うことを聞くのに、私の言うことはぜんぜん聞いてくれなくて大変でした」

孝男さんは、朝から晩まで働く母に楽をさせてあげたいという気持ちが強く、率先して仕事を手伝った。ただ、母は「これだけ手伝ってくれるなら、私は別のことをするわ」と、休まず次の仕事を始めてしまう働き者で、孝男さんは子どもながらにやきもきした。

 

結婚を経て、韓国で手袋事業への挑戦

孝男さんは高校卒業後、香川相互銀行(現:香川銀行)に就職した。銀行員の生活は、孝男さんにとって夢のようだった。毎月お給料をもらい、きれいなオフィスで仕事をする。今まで経済的に恵まれていなかったこともあり、毎日が楽しくて仕方がなかった。

そんな孝男さんに、大きな悲しみが訪れる。銀行に就職して4年目の冬の朝、母が倒れ、その日のうちに亡くなったのだ。原因は脳卒中。まだ46歳だった。

「苦労ばかりかけて、親孝行もできなかった……」

孝男さんは後悔の念にさいなまれ、一晩中泣き明かした。

ある日、母を亡くしたばかりで悲しみが癒えないままの孝男さんのもとに、縁談の話がもち上がる。相手は徳武家の長女のヒロ子さん。孝男さんが外回りの営業をしていた担当先のひとつに徳武産業があり、社長である重利さんが孝男さんを気に入ったことがきっかけだった。

その頃のヒロ子さんは、大学進学を希望するも当時の徳武産業は経営不振が続いており、金銭的な事情から進学を諦め、県の臨時職員として働いていた。

初対面のふたりはお互いに好印象を持ち、出会って3か月後の1970年に結婚。孝男さんは22歳、ヒロ子さんが20歳の時だった。

ヒロ子さんと孝男さん。新婚旅行にて。(写真提供:徳武産業株式会社)

その1年後、ヒロ子さんの叔父(静子さんの弟)から、孝男さんにある依頼がきた。

「韓国で手袋工場を創業するんだ。技術者は確保したが、工場をマネジメントする管理者がいない。工場の責任者として韓国に行ってもらえないだろうか?」

これに対して、孝男さんは直感的に「おもしろそうだ」と感じたが、孝男さんの家族である十河家は猛反対。安定した職を手放し、当時、反日感情が強かった韓国で働くなんてあり得ない、というのが理由だった。

その時、妻のヒロ子さんだけは賛成した。

「私の父はよく格言を言う人で、讃岐弁で『若いときの苦労は、買うてでもせ』というのがありました。苦労は買ってでもしなさいという意味なんですけど、決め手はその言葉です。きっと将来、役に立つと思いました」

孝男さんも銀行という学歴社会の世界で生きることに限界を感じていた。

「しがらみのない世界で、新しいことに挑戦したい」

孝男さんは6年勤めた銀行を辞め、24歳で韓国の工場に赴任した。

 

韓国で起きた事件で家族が離れ離れに

「韓国での4年2ヶ月は、人生の中で最も濃かったです。仕事量で言えば、通常の3倍くらい(笑)」

孝男さんは、昔を懐かしむように目を細めた。

1971年の寒い冬、韓国にやって来た孝男さんの最初の仕事は、空っぽの工場にミシンを設置することだった。言葉が通じない場所で、未経験で工場のマネジメントをする……。孝男さんは緊張感と心細さを感じたという。

その半年後、ヒロ子さんは1歳の長女を連れて韓国にやって来た。

久しぶりに会った夫の姿を見て、ヒロ子さんは驚いた。孝男さんの顔が過労とストレスで黄疸(顔や体の色が黄色くなる症状)になっていたのだ。

当時、工場の幹部たちは孝男さんより年上で、何か発言しても軽くあしらわれてしまい、精神的なストレスを感じていた。それでも一緒になって夜遅くまで働くうちに、連帯感がうまれ、少しずつだが現地の人たちに受け入れられていく。

工場の運営が軌道に乗り始めたある日、国を揺るがす大事件が起きた。

1974年、韓国の大統領だった朴正煕(パクチョンヒ)大統領の夫人が暗殺されたのだ。「韓国の母」と言われるほど夫人は人望があり、国民は怒りと悲しみの声につつまれた。犯人は在日韓国人だったが、当初は日本人の犯行ではないかと言われていた。

そのため、韓国では反日運動がますます過熱し、各地で暴動が起きる。孝男さんたちが住む外国人アパートが機動隊に守られるほどだった。

孝男さんが働く工場地帯はそこまで危険な状況ではなかったが、日本にいる家族が心配して、「帰ってくるように」とたびたび連絡が入る。大使館からも「女性と子どもは日本に戻しなさい」という指示がでた。

ヒロ子さんは、強い眼差しで当時を振り返った。

「主人を残して帰りたくない。運命を共にしたいわけです。ただ、『帰りたくない』とだだをこねたところで迷惑をかけることになるので、しかたなく子どもと日本に帰りました」

その後、韓国の工場は落ち着き、孝男さんは叔父と職務を交代する形で日本に戻る。こうして4年2か月に及ぶ韓国での生活に終止符を打ち、孝男さんは妻子と日本で暮らし始めた。

 

徳武産業を任される

孝男さんが韓国から戻り、香川県大川郡長尾町(現在のさぬき市)で叔父の仕事を始めた頃、徳武産業は創業当時とは比べ物にならないほど変化していた。

創業当初の手袋縫製から旅行用スリッパに方向転換しており、OEM(他社メーカーの製品を製造すること)を請け負って会社の売り上げを伸ばしていた。さらに、靴メーカ―の「アキレス」から学童用シューズや、旅行会社の「JTB」から旅行用スリッパのOEMが入るようになり、忙しさに拍車がかかる。ヒロ子さんも子育てをしながら事務員として働いた。

1984年の正月、重利さんが孝男さんを呼び出した。

「お前さんに、徳武産業を継いでもらうことはできないだろうか?」

十河家の長男で、実家の田んぼを継ぐべきだと考えていた孝男さんは悩んだが、重利さんは何度も頼み込んだ。

「徳武のお義父さんが喜ぶなら……」と思った孝男さんは、叔父の仕事を後任に引き継ぐ期間として2年ほど待ってもらうことを条件に、徳武産業の2代目として会社に入社することを承諾した。

その半年後、重利さんが心筋梗塞で倒れ、緊急入院となる。一度は回復したが、5日後にふたたび心臓発作を起こし、59歳で亡くなった。

あまりに急なことで、孝男さんとヒロ子さんは悲しむ暇もないまま葬儀の準備に追われた。そこで、生前、重利さんと親しかった人たちから「重利さんは『帰ってきてくれた。後継者ができた』ってすごく喜んでいたんだよ」と聞く。

ヒロ子さんはその話を聞いて、「もしかすると、自分の最期を悟っていたのかもしれないな」と思った。

 

時代の流れにより方向転換

37歳で徳武産業を継いだ孝男さんは、大きなプレッシャーを感じていた。「義父から受け継いだ会社をつぶしてはならない」という思いと、重利さんから仕事の引継ぎがされていないまま社長になったからだ。

就任したある日、会社の中身を知ろうと調べていると、懸念すべき点を見つけた。それは、会社の売り上げの9割がアキレスへの縫製の下請けだったこと。

「私は労働集約的な産業がどういう定めを負っていくのかということを、韓国で理解していたんです。徳武産業のアキレスの仕事も、やがては工賃が安い中国や、その他のアジアの国々に流れていくのは間違いないと思いました」

このままの状態を続ければ、いずれ徳武産業で働く社員やパートスタッフを路頭に迷わすことになってしまう……。そうなる前に、手掛けている他の事業を伸ばしつつ、新しい事業に取り組むべきだと考えた。

しかし、当時会長だった静子さんと既存の社員たちは孝男さんの考えを理解できず、新しい事業に取り組むことに反対する。社員たちの同意が得られないなか、孝男さんは行動を起こすことを決めた。

まず、当時手がけていた旅行用スリッパの販路拡大を試みる。また、徳武産業の手袋縫製で培った技術を生かし、ルームシューズを製作。その後、ルームシューズを売るべく香川県の大手通信販売会社へ積極的に営業をかけた。

ヒロ子さんも開発担当として手腕をふるう。当時、海外旅行に行く日本人が増え始めた頃で、旅行用スリッパの注文は増加していた。

そこでヒロ子さんは旅行用品を入れる各種ポーチを開発。このポーチが当たり、香川県に「セシール」などの大手通信販売会社が多数存在していたこともあり、次々に依頼が舞い込むようになった。

このように方向転換を進めていた矢先、孝男さんの危惧が現実のものとなる。

アキレスの担当者が提携する工場の代表者を集め、「中国とインドネシアに工場をつくることになったので、現在の発注は4年以内にはゼロになります」と告げたのだ。

ただ、この時には旅行用スリッパと、新商品のルームシューズ、ポーチのOEMが進んでおり、徳武産業はアキレスの仕事がなくなる後に備えることができた。

 

ケアシューズの開発でOEMからの脱却を目指す

ルームシューズ、旅行用スリッパ、ポーチ3部門の事業は軌道に乗り始めた。けれど、孝男さんはOEMという下請け事業の限界を感じるようになる。

「ある時、通信会社の担当者が変わったことでガクンと売り上げが下がったんです。担当者とそりが合うかどうかで売り上げが左右されてしまうことに、不安定さを感じました。そこで、自分たちの考えたものを自ら作って売るしかないと思い、自社販売に切り替えようと思ったんです」

本社の隣にあるショールーム。

OEMから脱却する糸口を見つけようと模索していたとき、孝男さんと親交があった特別養護老人施設「香東園」の石川園長が会社にやってきて、このように提案した。

「徳武産業ではルームシューズをつくってますよね。うちの施設で入居者の転倒が相次いで、困っているんです。お年寄りが転ばない靴をつくってもらえないでしょうか?」

孝男さんはこの話を独自販売のチャンスととらえ、「運命かもしれない」と思った。

さっそくヒロ子さんと一緒に、石川園長が経営する老人ホームを訪ねた。

観察していると、お年寄りたちはみなスリッパやサンダルなどを履いていた。パカパカと音を立てておぼつかない足取りで、今にも転びそうである。

お年寄りは転ぶと骨折して寝たきりになりがちで、そのまま頭や体の機能が衰えて、亡くなってしまう方が多いことを知った。

ヒロ子さんは、「お年寄りは脚の力が足りず、スリッパをすくい上げる力がないのでは」と考察。さっそく会社に戻って、かかとを密着させるゴムベルトをつけたスリッパをつくり、老人ホームにいるお年寄りに履いてもらった。しかし、転倒予防の改善にはつながらない。

次に改善したサンプル品をお年寄りに試着してもらうも、反応はイマイチ。「これは思ったより難しいぞ」と思った夫婦は、本格的に開発に取り組むようになる。

まず、介護施設や高齢者施設をめぐり、介護が必要な人やお年寄りたちにどんな履き物がほしいのかを直接聞いた。そこで、高齢者の方たちがもつ深刻な足の悩みを知る。

たとえば、むくみやリウマチ、外反母趾などにより、左右の足の大きさや形が異なっている人がいた。また、脳卒中などの病気で体が不自由になった人は、着脱が簡単で転びにくい靴が必要だった。

当時、日本には体の状態に合わせた高齢者用のケアシューズがなく、どうやってつくればいいのかわからなかった。そこで夫婦は海外に出向き、似たものはないかと探したが、そもそも海外では家の中でも土足なので、室内シューズという概念そのものがなかった。

試行錯誤してわかったのは、介護用のシューズをつくるには、ルームシューズという枠組みではなく、靴として開発しなければならないこと。

しかし、当時の徳武産業には靴をつくる技術はなかった。ルームシューズならミシン一つで縫えるが、靴となると複雑な工程が必要だ。そこで、神戸の靴作りの指導者を顧問に招き、月に何度か指導をあおぐ。開発には2年の月日がかかったーー。

 

ケアシューズ「あゆみ」が完成。けれどその年は大赤字

 

1995年、孝男さんとヒロ子さんが徹夜続きで開発したケアシューズ「あゆみ」が誕生した。

「あゆみ」にはさまざまな趣向が凝らされている。

つま先は適度に反り返り、転倒を防ぐようになっている。かかとは着脱しやすさもありながら、足をしっかり支える素材を使用。また、足の状態に合わせて調整できるベルトが付いており、普段擦るように足を動かすお年寄りでも、自然な足取りで歩けるような工夫がこらされていた。

その後、徳武産業では左右サイズ違いや片方だけでも購入できる仕組みを構築。また、脚の長さが異なる人のために靴底の高さを調整するといった「パーツオーダーシステム」を考案した。

靴作りの指導者から「こんなことをしている靴メーカーはひとつもない!」と言われたというから、この取り組みが規格外だったことがわかる。

これらは、すべてシューズを履いてくれる高齢者や介護が必要な人たちの声がきっかけで生まれた。要望は全体の1割にも満たなかったのだが、介護施設で直接お年寄りの話を聞いてきたふたりは、一人一人の顧客のことを考えることが大切だと考えたのだ。

本社の工房にはあらゆるサイズに対応するためのパーツがストックされている。

実は、介護用のシューズが誕生した年は、徳武産業にとって最も苦難の日々だった。

孝男さんは、開発に集中するために会社の3本柱である旅行用スリッパ、ルームシューズ、ポーチの事業を、若くて優秀な社員3名に任せていた。

いざ決算日、ふたを開けてみると、3つの事業の売り上げは大幅に減少し、約2,000万円の赤字になっていた。

赤字の背景にはバブル崩壊の波が中小企業である徳武産業にも押し寄せていたこともある。ただ、「自分の代で赤字を計上してしまった」と、孝男さんは怒りとあせりを隠すことができず、社員たちを厳しく叱責。

その結果、責任者だった3名の社員たちは相次いで辞めてしまった。

孝男さんは、当時をこう振り返った。

「新しい商品を命懸けでやるにはいいけれど、売れるかどうかはわからないですし、すぐに数字は作れません。だからこそ今まで会社を支えてくれた商品や社員を大切にし、管理すべきだったのですが、それができなかったことを本当に反省しました」

ケアシューズ「あゆみ」は独自の機械と社員の手によってつくられる。

それでも、孝男さんはケアシューズの販路を広げる手を緩めなかった。

「このシューズを求めている人が世の中にたくさんいるはずだ。まずは履いてもらわなければ……」

そう思った孝男さんは、電話営業をテレマーケティングの会社に委託。電話でレスポンスがあった施設にシューズを5足送り、必要なければ着払いで送り返し、購入する場合はこの5足に限って5割引きで販売する、という仕組みで営業した。

この仕組みで、5足とも購入するといった施設が増えていく。「あゆみ」を履いた人たちから口コミが広がり、売り上げはぐんぐんと伸びていった。

その後、会社の売り上げは独自販売が占めるようになり、OEMから脱却。

夫婦がゼロからつくりあげたケアシューズ「あゆみ」は、新たな市場を生み出した。大手メーカーが介護靴・ケアシューズに次々と参入するようになり、全国で60億円を超える市場規模にまで広がったのだ。

私(筆者)の祖母が履いていたシューズと同じものを見つけた。名前を書かなくても、自分のものだとわかるように刺繍をあしらうことも可能だ。

 

70代を迎えた夫婦の新たな挑戦は、“里山づくり”

赤字になりながらも夫婦二人三脚で開発を続けてきた成果は2011年以降、脚光を浴びるようになる。

同年2月、テレビ東京のドキュメンタリー番組『ガイアの夜明け』に取り上げられる。4月に会社経営を通じて社会福祉などに貢献した人に送られる「藍色(らんじゅ)褒章」を孝男さんが受章。「夫婦で皇居に行き、天皇陛下からお言葉をいただけたのは嬉しかった」と孝男さんは笑顔を見せた。

翌年には、「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」で審査員特別賞、13年に「グッドカンパニー大賞」の特別賞を受賞した。

数々の表彰を受けた徳武産業だが、賞よりも大切で、宝物にしているものがある。ケアシューズ「あゆみ」を愛用する人たちからの手紙だ。

本社には「片方販売があってうれしい」「杖を使いながら歩けるようになった」などと感謝の手紙がたびたび届くという。「これらの手紙があったからこそ、社員も私たちもさまざまな逆境を乗り越えられた」とふたりは語る。

今まで靴を履くことができなかった青年から徳武産業に送られたイラスト。

現在、徳武産業は次女である聖子さんが会社を継いでいる。今年75歳を迎えた孝男さんは会長に、ヒロ子さんは副会長となっているが、「80歳になったら引退させてもらいたいと思っている」と孝男さんは言う。それは、仕事とは違う取り組みに力を入れているから。

「私も家内も趣味といったら仕事しかなかったんです。社長を交代した後、どの世界へ進めばいいんだろうと思ったとき、見つけた夫婦の趣味が里山づくりでした」

里山とは、農地やため池、草原などで構成される山のこと。さかのぼること15年前、俳優の柳生博さんが里山づくりに取り組んでいると知り、ふたりは感銘を受ける。その後、先代の重利さんが所有していた6000坪の山を使って里山づくりを始めた。

里山の名は、「あゆみの郷」。本社から車で10分ほど走ったところにある。湖を見下ろせる緩やかな山だ。

当初は竹が密生しており、整備は容易ではなかったという。孝男さんとヒロ子さんは休みのたびにこの山を訪れ、汗だくになりながら開墾したそうだ。山の斜面には4000本の山桜と、3000本のスギとヒノキの苗木を植えた。

取材の日、山を案内してくれたヒロ子さんが湖を見つめながら語った。

「木や植物に心を込めて栄養を与えると、次の日には著しい成長を見ることができて楽しいんです。ここに近所の子どもたちが集まり、お年寄り、社員や退職した人も含めてくつろげる場所にしたいなと思います。トンボや蝶、できたらホタルも飛ぶような里山にしたいですね」

夫婦が歩んだ道のりは、無駄なものなど何ひとつなかった。

「この苦しさは、きっと学びになる」。

そう信じてともに戦った夫婦は今、里山づくりという新たな挑戦に向かって歩み続けている。

取材・文・撮影 = 池田アユリ
編集 = 川内イオ

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