2010年09月/第80回 新ジャズ誌への期待

 新しいジャズ雑誌が創刊されるという。

 『ジャズ・ジャパン』。

 案内状によると「ジャズ・ドキュメント」誌をコンセプトに、ジャズ・ファンありき、音楽ファンありきの初心に立ち戻って出発するとのこと。

 いい話である。つい先日「スィング・ジャーナル」誌が休刊となり、くさっていたところへのビッグニュース、新雑誌のスタートを歓迎したい。

 この際、ジャズの雑誌とは何かについて考えてみようじゃないか。ちょっと突飛な発想かもしれないがジャズの雑誌は「雑誌のためのジャズ」を作っているのである。私は嫌味な人間だが、嫌味で言ってるんじゃない。要するに雑誌が存続してゆくためには買ってもらうことが前提になる。買ってもらうためにはどうしたらいいか。教科書化することである。読者は生徒なのだ。ジャズの聴き方の法則を作って生徒に教え込む。

 法則といえば、むかし私は『ジャズの聴き方に法則はない』という文庫本を出した。ぜんぜん売れず、すぐに絶版になった。聴き方に法則あり、としなければいけなかったのだ。

 特に新しいジャズ・ファンは法則を求めて雑誌を買う。ビ・バップ、ハード・バップ、新主流派などという演奏スタイルの呼称があるが、この呼称に添って雑誌のCD評は成立してきた。「スィング・ジャーナル」のレコード・レビューアーはこの法則にのっとり、そこから一歩も抜け出せなかった。

 ところがである、初めのうちこそ読者は法則に従って聞いているが、当然そういう聴き方をしていてジャズが面白いわけが無い。もっと根本的に聞くべき要素があるだろう、と。スイングであり、メロディーであり、からみ合い、睦み合い、そして楽器のサウンドである。大体5年くらいといわれているが、読者が「雑誌の聴かせ方」と「自分の聴き方」のへだたりに気付いた時、別れが待っているといえるのだ。

 かと言ってである。「法則」を無視して雑誌は成立しない。雑誌も大変である。

 『ジャズ・ジャパン』の社長兼編集長はスィング・ジャーナル誌の編集長を務めた三森隆文氏。どのような辣腕をふるうのか。これ、ワクワクせずにおられるか、といったところだ。

 そんな風雲急を告げるジャズ・シーンに、これはまたのんびりとお出ましなのがバリー・ハリス。スィング・ジャーナル流に言えば「ビ・バップ流派の引き継ぎピアニスト」ということになるが、そんな法則は頭の片隅に追いやってひたすら1曲目の「She」を聴いて欲しい。ジョージ・シアリングの作曲で、さてどんな『She』がきみの頭に浮かぶのか。

 私の場合はジーナ・ロロブリジーダだった。

 きみ知るか、この往年の豊満イタリア女優。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2010年08月/第79回 順子 対 順子

前号で寺島靖国氏もふれていたが、64年の歴史を持ったジャズ専門誌「スィング・ジャーナル」が6月発売号で休刊してしまった。ジャズ界の大きな柱がなくなって、とまどい困っている。ジャズ界の話題を提供してくれる点でも便利だったのだが・・・。

しかたなく自分で話題を探すことにした。

いま注目しているプレイヤーの一人にアルトサックス奏者の寺久保エレナがいる。ミュージックバードのぼくたちの番組でも先日紹介して好評だった。口の悪い寺島氏もほめていたが、彼女はまだ現役の高校三年生で、いまも札幌の高校に通っている。6月に「NORTH BIRD」(キング)でデビューしたばかりだが、たぶん“北国のチャーリー・パーカー”という意味で「NORTH BIRD」のタイトルをつけたのだろう。別にパーカー・スタイル一辺倒というわけではなく、今日の新しい奏法も取り入れている。渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正らも絶賛しており、早い曲もバラードもうまいし、高校生としては出来過ぎと言いたいほどしっかりとした演奏で、なにもかもが整っている。早くも9月上旬の「東京JAZZ 2010」への出演も決まり、これからの活動にも注目したい。

頭角を現すジャズ・ミュージシャンの年齢はどんどん下がってきている。なんでも小学生のブラスバンドがチック・コリアの「スペイン」を演奏する時代なのだから。

もっとも、話題にしたいのは新人だけではない。中堅やベテランにも見逃せない人がいる。それは二人の『順子』だ。ピアノの大西順子と歌の秋元順子だ。

大西順子は昨年EMIミュージックから久々にトリオのアルバムを出して、あざやかに復活を果たし、ベスト・セラーを記録した。その大西順子が早くもユニバーサル・ミュージックに移籍し新作「バロック」(ヴァーヴ)をニューヨークで録音した。やはり注目しないわけにはいかない。ニコラス・ペイトン(Tp)、ジェームス・カーター(Ts, Bcl, Fl)、ワイクリフ・ゴードン(Tb)、レジナルド・ヴィール、ロドニー・ウィテカー(B)、ハーリン・ライリー(Ds)らN.Y.の精鋭たちと共演している。

大西順子は日本でも6重奏などで演奏しているのを聴いたことがあるので、彼女が試みたかった編成なのだろう。この6重奏で自作3曲と、ミンガス、パーカー、モンクのナンバー、それにスタンダードの「フラミンゴ」、ほかにもピアノソロで「スターダスト」「メモリーズ・オブ・ユー」を演奏している。ピアノ・ソロはアート・テイタムを思わせるオーソドックスなプレイで、彼女の成長と円熟を感じさせ、共感を覚えた。6重奏団のものは、ワイルドで奔放で、ガッツを前面に押し出している。現代的集合即興演奏で、チャーリー・ミンガスの精神を感じた。

番組では寺島氏のリクエストで「フラミンゴ」をかけたが、これがまずかった。バラードで、幻想的なアンサンブルとエリントン的なミュートを用いたりしているのだが、聴き方によっては欲求不満になる演奏である。ハードな演奏の連続の後でこの演奏を聴くとホットするのだが、この曲を最初に聴くと「なんだ!これは?」といいたくなるだろう。案の定、この日の出演者みんなから悪評ふんぷんだった。寺島氏の誘導にのってこの曲をかけたのが間違いだった。

家に帰って一連の流れの中で聞き返すと、大西順子のピアノ・ソロの部分などは美しかったし、全体の演奏も悪くなかった。ただ演奏すべてに全面的に共感というわけではないが。

大西順子の後に、もう一人の順子こと、秋元順子の「テネシー・ワルツ」を口直しにといってかけた。寺島氏は下手だといったが、素直でハートを感じる歌手だ。新作「スィンギン/原信夫とシャープス&フラッツ・ウィズ秋元順子」(キング)の中で4曲歌っている中の一曲である。彼女は歌謡界でも人気者だが、もともとジャズも歌っていた人で、ぼくは感じのいい歌と聴いた。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2010年07月/第78回 脱"定番”の時代

 「スイング・ジャーナル」が休刊になった。

 私のような老ジャズ・ファンにとっては大変な衝撃である。高校生の頃ジャズが好きになり「スイング・ジャーナル」に育てられ、 まさに我が青春のスイング・ジャーナルだったのだ。編集部員が神々しく見え、まして編集長ともなれば雲の上の人で口などきけたものではなかった。

 そういえば岩浪洋三さんが編集長の頃のことだった。この話はどこかに書いたが、えーい、かまうものか。どうせ原稿料は安いのだ。二重書きくらいしないと元のとれるものではない。ホレス・シルバーのブルーノート盤「ザ・スタイリングス・オブ・シルバー」のオリジナル盤を買ったがいまいち面白くない。それで売ることに決めてSJ誌の「売りたし欄」に応募したら、岩浪さん本人が買いたいと言ってきた。

 さあ大変だ。会わなければいけない。渋谷の「デュエット」でお目にかかったが、まともに顔も見られない。うつむいてモジモジしていた。

 なのに今はどうだ。「PCMジャズ喫茶」でいくら私が店主とはいえ、「岩浪さん、そんなのも知らないの?」などと言いたい放題。どうもすみません。

 というのはどうでもいい話で、SJ誌がなぜ休刊という事態に落ち入ったのか。

 レコード会社その他の広告が激減した。それもあるだろう。しかしもっと大きな原因は「大物ミュージシャン至上主義」を40年も50年もくり返してきたことにありそうだ。マイルス、コルトレーン、エバンス、キース、などなど、毎号同じような記事扱いで、さすがに読者はあきた。60代、70代の読者が多い。よくぞ、何十年も読み続けてきたものである。大物ミュージシャンを論じておけば間違いない。そう、安易にSJ誌はふんでいた形跡があった。

 しかし再刊の話もある。ぜひもう一度立ち上がって欲しいものである。 やっぱりスイング・ジャーナル誌がなくしては困るのだ。

 さて、長いマクラだったが今回は日本人歌手をご紹介しよう。先日さるジャズ・クラブで「クライ・ミー・ア・リバー」の聴き比べをやった。ジャズのビギナーが望むのは聴き比べである。まず曲を憶えられるというメリットがある。ついでにミュージシャンの個性を知ることが出来る。

 「クライ・ミー・ア・リバー」といえばジュリー・ロンドン。このトップの位置はゆるがない。彼女の同曲を聴いたらあとは誰を聴いてもくい足りないという人もいる。

比較の相手に先頃発売されたシャンティをえらんだ。2曲終わったあと、どちらが好きかを訊いてみた。ビギナーとはいえ、さすがにジュリーの名前を大部分の人が知っている。ジュリーに軍配が上がると思ったら五分と五分のいい勝負となった。驚いた。

 シャンティ派の人に理由を尋ねると、ジュリーはうま過ぎていやだ。色気が遠い。体が大理石で出来ているんじゃないか。それに比べシャンティはうまいとは言い難い。しかし人肌を感じる。色気が近い。そばに寄っていって肩を抱きたくなる。

 ノリのいい会場であった。しかしそれにしてもジュリー・ロンドンかたなしである。

いつまでも大物に頼ってはいられない。新しい歌手を次々と発掘、光を当てていかなくては女性ボーカル界、先がないと感じた。

寺島靖国(てらしまやすくに)
938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2010年06月/第77回 ミュージカルとジャズ

 ニューヨークに行くと、いつもブロードウェイ・ミュージカルを3、4本は観たものだ。ジャズも好きだが、ミュージカルも好きだからだ。近年のブロードウェイにはロンドン製が多く進出してきたが、どちらかと問われれば、僕はアメリカ製のミュージカルが好みである。大ざっぱにいうと、アメリカのミュージカルの方がジャズの要素が多く、ロンドン製はジャズ・サウンドがやや希薄である。

このアメリカ製ミュージカルで近年観たものの中で、ジャズ色にあふれていて楽しかったのが、初演の「スィング!」だった。スィング・ナンバーが次々に歌われ、演奏され、ラストは「シング・シング・シング」で大いに盛り上がるのである。音楽も聞き慣れたスイング曲が多くて満足したが、なによりも主演して歌いまくったアン・ハンプトン・キャラウェイの歌がすばらしかった。ミュージカル・スターであると同時に優れたジャズ・シンガーぶりを発揮していた。あまりに感動したので、帰りにレコード店によって彼女のCDを買ってしまった。

 このミュージカル「スィング!」は2度ほどアメリカのキャストで日本でも上演されたが、主役がアン・ハンプトン・キャラウェイではなかったのには失望した。このミュージカルは主役の歌唱力に成否がかかっているわけで、ちょっとアン・ハンプトン・キャラウェイを超えるスターは現れそうにない。

 彼女はこのミュージカルをきっかけに、人気ジャズ・シンガーになり、TELARCから次々にアルバムが発売されており、僕も出る度に買っているが、一度も失望したことがない。彼女は白人で、美人で、しかもジャズ歌手として、いまや最高の一人だと思う。近頃のダイアナ・クラールやジェーン・モーンハイトよりも、僕はアン・ハンプトン・キャラウェイの方を高く評価する。

最新作「At Last」が発売されたので早速買って、「PCMジャズ喫茶」のスタジオに持ち込み、寺島氏の好きな曲「Comes Love」をかけた。寺島氏は、セリフをしゃべっているような、ドラマティックな歌い方が嫌いだという。その気持ちもわからないではないが、ぼくはミュージカル好きだからドラマティックな歌い方も嫌いじゃない。

 僕はこのアルバムの中の歌、「アット・ラスト」「スペイン」「レイジー・アフタヌーン」「オーバー・ザ・レインボウ」などみんな好きだ。もっとも、ぼくの場合、ブロードウェイで観た「スィング!」の印象があまりに強烈だったので彼女の歌への思い入れが人一倍強いのかもしれない....。

 僕がはじめてニューヨークを訪れたのが1972年、その後30数年間毎年訪れているが、年々ニューヨークの芸能やエンターテインメントのレベルが下がっていくのを肌で感じている。それは一時ニューヨークが破産しかけて、「アイ・ラブ・ニューヨーク・キャンペーン」を打ち出し、観光客を大量に呼び寄せた結果だと思う。観光客好みのものが多くなりニューヨーカーの街だったのが普通の観光都市に変貌していったからであろう。

 秋吉敏子にいわせると、70年代どころか、50年代がジャズ・シーンのベストで、56年に渡米した彼女は「私はジャズの黄金時代のしっぽをかろうじて摑むことができた」と言ったことがある。

 50年代の中頃までは、ジャズ・クラブも午前2時半から3時頃まではライヴをやっていたという。秋吉敏子はクリフォード・ブラウン・マックス・ローチ・クィンテットに飛び入りしてピアノを弾くという幸運に恵まれ、午前2時に出演が終わった後、午前3時までやっているデューク・エリントン楽団の演奏を聴くこともできたという。

 僕も70年代にはブロードウェイ近辺で、シャーリー・マクレーン、ハロルド・ニコラス、アーニー・ロス、マーガレット・ホワイティング、ヘレン・フォレスト、リナ・ホーンらのトップ・エンターテイナーのショウをいくらでも観ることができた。70年代に一時期流行った黒人ジャズ・ミュージカル「バスリン・ブラウン・シュガー」「ユービー」「ソフィスティケイテッド・レディーズ」「タップ・ダンス・キッド」「ブラック&ブルー」などは本当に楽しかった。

 そう言った意味で、数年前の作品ではあるが「スィング!」は久しぶりにニューヨーク・ブロードウェイらしいミュージカルだった。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2010年05月/第76回 ネイロで聴くジャズ

 「人間50歳を過ぎたら、ちったあジャズの聴き方変えてみないか」というのが今日のテーマだ。

 これまでのジャズの聴き方というとハンで押したように、まずジャズ・ジャイアント主義。

 マイルスがいて、コルトレーンがいて、ビル・エバンスがどうたらこうたら。

あんたら歴史学者か。

 そう言う聴き方、まあ、初心者はよしとしよう。右も左もわからないビギナーがとりあえずスタンダードで教科書的な聴き方を求める。これはこれで理にかなったジャズの攻略法というものだ。

 だけどねえ、20年も30年もジャズと過ごして相変わらずマイルスやコルトレーンの演奏スタイルや、変化がどうしたこうしたじゃ情けない。

 実は私の店『メグ』で少し前からトロンボーン教室というのを始めた。毎月第一日曜日の午后、メグの周辺はトロンボーンのケースをかついだ老若男女で溢れるというのは嘘だが、大体10人から15人の主として中高年男性が集まってくる。先生は若い女性だ。当たり前だろう。オッサンがオッサンに習ってなにになる。

 遠方からはるばるやってくるこの番組のヘビー・リスナー、児玉さんもその一人。茨城だか群馬だか、そういう遠隔地だ。月一回上京し、美しい先生に習い、あまつさえレッスンが終わった後の反省会という名の宴会に参加、これが楽しくてたまらないと。

 それはともかく、児玉さんのジャズの聴き方は変わった。以前はおきまりの名盤主義、ジャズ・ジャイアント主義。トロンボーンを始めて、J.J.ジョンソンとカーティス・フラーしか知らなかった児玉さんは次々いろいろなトロンボーン奏者のCDに手を出し、この頃行き当たったのがアービー・グリーンだ。

 児玉さんはたまげたのである。なんという微妙に美しい音色なのだろう。いやこれは『オンショク』ではない。あくまで敢然と『ネイロ』と言うべきである、と。

 トロンボーンを自分でくわえて初めて『ネイロ』という問題につき当ったのである。それまではJ.J.ジョンソンのモダン・トロンボーンにおける革命的奏法なんていうことしか考えなかったのが、“音で聴くジャズ”の聴き方という考えてみればいちばん根元的、かつまっとうなリスニング法に目覚めたのだ。

 なんとかしてアービー・グリーンみたいな絹ずれ音色を出したい。そういう欲求を抱いてアンブシャーに精を出す児玉さんだが、いろいろ漁ってみると、いるわいるわ、アービー・グリーン的スィート・サウンドのトロンボーン奏者が。

 古くはトミー・ドーシーから始まり、ジャック・ティーガーデン、ルー・マクガリティにマレー・マッカカーン。こういうひとつの勢力がトロンボーン界にあったのか。知らなんだあ、と。

 先日お会いしたらこういうことを言っておられた。「トロンボーンだけでなく、いろんな楽器を音で聴くようになりました。一つまた聴き方の世界が開けたんです。いや実に嬉しいことです。」

 考えてみれば、あらゆる楽器奏者、まずいかに最初にいい音を出すか。そのことに腐心するというではないか。楽器は音色だ、と言ってはばからないミュージシャンもいる。おお、そうかい。それならおまえさんの音を心ゆくまで聴いてやろうじゃないか。

そう考えるジャズ・ファンがいたって絶対におかしくない。いや、本来的にそうあるべきなのだ。

(P.S.) 「PCMジャズ喫茶」のディレクター、太田俊さんが来月からメグのトロンボーン教室に参加することになった。いいジャズ人生が広がりそう。あなたもトロンボーンをお買いになったら?

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2010年04月/第75回 和ジャズのススメ

 最近、日本人による「50~60年代」のジャズがたくさんCDで復刻発売されている。そのきっかけを作ったのは先日この「PCMジャズ喫茶」にゲスト出演したディスク・ユニオンの塙耕記氏の企画で、日本のジャズの再発は『和ジャズ』と呼ばれてきた。この番組の相棒・寺島靖国氏は、『和ジャズ』という呼び方に抵抗を感じるらしい。

僕自身もこの呼び方は好きではないが、『日本のジャズ』『日本人のジャズ』『和製ジャズ』といろいろ呼び名を変えてみてもしっくりこない。コロンビア・ミュージックは「昭和アーカイブス」とよんで再発売している。原盤を持っていないディスク・ユニオンの場合は、キング、ビクター、コロンビアあたりから原盤を借りてきて発表してきたわけだが、売れ行きがなかなかいいので、こんどは貸す側が、他社に儲けさせるのはもったいないとばかり、貸し渋りをはじめたという。それもあってコロンビアも古い日本のジャズを初CD化し始めたのだ。

その1枚に「モダン・ジャズ・スクリーン・ムード/モダン・ジャズ・プレイボーイズ」というのがあり、この中のなつかしい映画のテーマ「褐色のブルース」をかけた。1960年の録音で、ピアノとアレンジが三保敬太郎で、林鉄雄(Tp)・渡辺貞夫(As Fl)・宮沢昭(Ts)・金井英人(B)・猪俣猛(Ds)というオールスターなのだ。いま振り返って思うのだが、1950年代の後半から60年代の中頃にかけては、日本のジャズが大変なブームで、コンサートも盛んに開かれ、人気プレイヤーが続出した。また、フランスのヌーベルバーグ・シネマにモダンジャズが多用された影響もあって「死刑台のエレベーター」「大運河」「危険な関係」などのジャズ・テーマが日本でも大ヒット。おかげでジャズの需要が飛躍的に高まり、日本のレコード会社は、日本のジャズメンを起用して、先を争ってジャズ・アルバムを制作した。それが今掘り起こされているのだが、1950年代の中期以降の日本のジャズメンはレベルもアップしているし、個性豊かだし、いま聴いても充分に楽しめる。もっとも60年代の後期以降は外タレの来日ブームがきて、日本のジャズメンは逆に70年代にかけてはアメリカへの留学(流出)の時代と変化していくのは皮肉である。

別に日本のジャズ史を書くつもりはなかったのだが、番組で「褐色のブルース」をかけたところ、なんとこの曲をテーマにした映画「墓に唾をかけろ」の原作を書いたボリス・ヴィアンの『ジャズ入門』(シンコーミュージック)という本が最近翻訳されて出ていたのだ。

 ボリス・ヴィアンは1959年に39歳で亡くなっているが、フランスの大変な才人で、トランペッター、小説家、音楽評論家、歌手、俳優、詩人として活躍し、サンジェルマン・デュプレに入り浸っていた芸術家の一人だった。この本は「入門書」などとは書いてあるが内容はきわめてハイブローで、初心者の手に負えるものではない。古いジャズ、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンに関する評論や、シャルル・アズナブール、ジジ・ジャンメールなどに関するエッセイや翻訳などがおさめられていて、ヴィアンの多才を知ることの出来る一冊だ。彼のジャズ本が日本で出るのは、多分今年がヴィアンの生誕90年にあたるからだろう。

ともあれ、和ジャズの再発で「褐色のブルース」が聴けたのがうれしいのだが、最近のCDで多いのがコンピレーションだ。その中に『居酒屋ジャズ』というのがあって驚いたが、これはかなり売れたらしい。そういえば僕が住んでいる大泉学園の居酒屋チェーンも呼び込み用にジャズを使っている。この頃はラーメン店でもジャズが流れている。

最近ついにユニバーサルから「泣きJAZZ /V.A.」と題するコンピレーションCDが出た。不景気で泣いてくれというのか、それともレコード会社の社員の心情を表現したのだろうか。「クライ・ミー・ア・リバー」「煙が目にしみる」なんてのが入っていたな。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2010年03月/第74回 パッチンスキーのシンバル

 やっぱり人間、ほめられれば嬉しく、けなされれば悲しい。70歳を過ぎたら恐いものなしなどといかにも大物そうに日頃ホザいているが、それはウソ。歳をとれば剛胆になり、キモっ玉がすわるというものではない。ますます周囲の目を気にするようになる。気にしなくなったらそれはボケた時。

 そういえばこの間ちょっとくやしい思いをした。ピアニストの山中千尋にホンワリ一発アッパーカットをくらったのだ。彼女、このところ「スイングジャーナル」誌上でエッセイの連載原稿を書きはじめた。これがひときわ異彩を放っている。

 本が来ると私は真っ先にそのエッセイを読み出すのだ。どこが面白いか。ケンカを売っているのである。文章が。文章っていうのはこうじゃなくっちゃいけねえよな、とひそかにエールを送っていたのだがついに先月号、私に矛先が向いてしまったのだ。

 他人のCDについてはいつも言いたい放題なのに、自分のかかわった「寺島レコード」について少しでも否定的なことを書かれると、烈火のごとく怒る。なんと心のせまい御仁なのか。とまあこんな趣旨のことが書かれていた。

 ギャフンときたねえ。クソっと思ったが考えてみるとその通りだ。返す言葉もないし文句のもってゆきどころもない。

 もうひとつ。医師であり、ジャズ・オーディオ・マニアであり、重度の当番組リスナーである横須賀の三上さんが自分のホームページで松尾明クィンテットの音がひどいと書いたらしい。本人が私を目の前にして言うんだから間違いない。

 グワッーときましたね。医者にもガンを告知する人と、しない人がいるらしいが、この人は勇躍敢然と告知する人だろうなと思った。

 「CDの音が悪いんじゃなくてお宅の装置がよくないんでしょう。 自分の装置の音の悪さに気付かずにCDのせいにする。よくあるケースですよ。オーディオ・マニア誰しも自分の装置が可愛い。最高優秀な音を出すと思い込んでいますからね。」

 こう言ってやろうと思ったが言えなかった。余計ウラミが残ったのである。

 さあ、ここでようやく本日の課題に入ることになる。CDというのはどこのお宅でも同じように鳴るわけではない。相性があり鳴り方はまちまちである。凶と出たり吉と出たりする。それが録音の面白さでありオーディオの楽しみなのだが、ここに一枚、どこへ行っても大体優秀な音で鳴るCDというのがあるのだ。本日ご紹介の『パッチンスキー盤』である。ドラマーのパッチンスキーはフランス人だが、昨年「ジャズ批評」誌で彼の前作「セネレイション」が最優秀録音賞を取った。その次作にあたるのがこの「プレザンス」。ライヴ盤なので若干前作に音的には劣るのは致しかたない。しかしリーダー、パッチンスキーのシンバルの切れ味のすさまじさ、これは恐ろしいくらいに継承されている。

 しかしこの世の中、シンバルの切れ味の鋭さを求めて音を聴く秘密結社的、歓楽的オーディオ・マニアが30人ほどいるらしい。私もその一人なのだがこのCDを聴きつつ、シンバルの切れ味に酔いつつ、酒をくみかわせたらどんなに幸せだろう。そうなったら人に何を言われようと平気の平左だろうと思った。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
ジャズ喫茶「MEG」ホームページ

2010年02月/第73回 カウント・ベイシーのこと

 2月にカウント・ベイシー・オーケストラが来日する。昨年はデューク・エリントン・オーケストラが来日しているし、この黒人2大ビッグ・バンドはリーダーが変わっても健在だ。しかしカウント・ベイシーとデューク・エリントンがあまりにも大きな存在だったので、二人に勝るリーダーが現れることはまずないであろう。

 ところで、カウント・ベイシーには、以前来日したときに会って話をしたことがあるが、ユーモアのセンスに富んだ、とぼけて面白い男だった。ベイシーは一度ビッグ・バンドを解散してコンボで演奏していたことがあるが、すぐまたビッグ・バンドにもどした。その理由を聞くと、

「きみ、コンボだとずっとピアノを弾いていなくてはならないんで、忙しくて大変なんでやめたんだよ。ビッグ・バンドだと、ちょっとだけ弾けばいいからね。」

さぼるのが好きだといわんばかりなのだ。

「ところで、あなたのバンドで、いちばん凄いと思った時期はいつですか?」

と聞くと、

「50年代のはじめから中頃かな。サド・ジョーンズ、ジョー・ニューマン、ベニー・パウエル、マーシャル・ロイヤル、フランク・フォスター、フランク・ウェスら、スターぞろいでね。自分のバンドなのに、あまりにリッチなサウンドで鳥肌が立ったよ。」

 その頃録音した曲には「トゥ・フォー・ザ・ブルース」「トゥ・フランシス」「シャイニー・ストッキングス」などがあった。

 カウント・ベイシーといえばカンザス・シティ・ジャズの中心人物のようにいう人もいるが、彼は例外的に東部から来た男であり、人気が出ると、カンザス・シティから離れてしまった。彼の演奏に「マン・フロム・レッド・バンク」という曲があるが、彼はニュージャージー州レッド・バンクの出身である。ぼくは一度この街に立ち寄ったことがあるが、バスを降りると、そばにスーパーがあるくらいの小さな町だった。

 なぜ立ち寄ったかといえば、このすぐそばに日野皓正が住んでいて、彼に会うためだった。日野皓正に「ここはカウント・ベイシーが生まれた町だよ」というと、「え!知らなかった」と驚いていた。

 ベイシーは若い頃、かなり変な男で、親しい友人が映画館で働いていたので、毎日昼間この映画館に行って映画を見つづけ、夜も家に帰らずに、映画館のソファで寝ていた。あまり毎日ベイシーが同じ映画を観ているので、館主が、「きみ、ピアノが弾けるんだろ?じゃ映画の伴奏をやってくれよ」 といい、ベイシーは無声映画の伴奏をはじめたのだった。

 その後、ヴォードビルの一座に加わり、巡業の途中、カンザス・シティに寄ったら、あまりにジャズが盛んなので、この街でジャズ・ピアノの仕事をはじめたのだった。そしてベニー・モーテン楽団のピアニストになったのだが、リーダーのベニー・モーテンが手術の失敗で急死し、メンバーの推薦でベイシーがリーダーになったのだった。

 ニューヨークの”ローズランド・ボウル・ルーム”に37年頃に出演したところ、ラジオの電波にも乗り、人気は急上昇、デッカにも録音し、全米的人気バンドになった。ベイシーは実力も勿論あったのだが、幸運にも恵まれていた。

 70年代の終わり頃だったか、この”ローズランド・ボウル・ルーム”でベイシー楽団を聴いたことがある。評論家の野口久光氏と一緒だったが、氏は宝塚の女優を同伴してきていた。氏に、彼女と一緒に踊れといわれ、ベイシー楽団の伴奏で踊ったが、こんなに踊りやすいバンドははじめてだった。

 この時、ベイシー楽団の秘密に気がついた。ベイシー楽団はいつも強力なリズム・セクションがフォー・ビートを打ち出しているので、その上にどんなホットなソロを乗せてもちゃんと踊れるのである。ベイシー楽団の長寿の秘密のひとつは、この踊りやすさにあったのかもしれない。

 ベイシーは編曲が得意ではなかったので、いつもニール・ヘフティ、チコ・オファリルなどの優秀なアレンジャーを起用したが、ぼくはクィンシー・ジョーンズの軽やかでファンキーで、ユーモアたっぷりの編曲が好きだ。「ジス・タイム・バイ・ベイシー」 (リプリーズ)は最高傑作だと思う。

 この中のモー・コフマン作曲の「スウィンギン・シェパード・ブルース」はフランク・ウェス、エリック・ディクソンのフルートをフューチャーした大好きな演奏なので番組でかけた。幸い好評で安心した。僕はこの曲を若いフルート奏者の西仲美咲に紹介したら、気に入り、今では彼女の主要レパートリーのひとつとなっている。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。

2010年01月/第72回 集中と拡散

 

 ジャズ・ファンを乱暴に分けると二つのタイプに分類される。一極集中型と拡散型。

 横浜に柴田浩一さんという方がおられる。「横浜ジャズ・プロムナード」の立ち上げに参加し、現在はFM放送などに出演、ジャズの布教につとめている生粋の浜っ子三代目だ。この方なんかは集中型の大御所で主として40~50年代のデューク・エリントンくらいしか聴かない。エリントンやその一派についてはめったやたらに詳しいけれど、現代のピアノ・トリオなどについてはからきし駄目。ちんぷんかんぷん。

 この間柴田さんが冗談半分にこういう主旨のことを言った。

「あんたたちなんかは、わけのわからない新しいピアノ・トリオを紹介して、俺ってこんなのを知ってるんだぞと威張っているけど、そういう自慢もいい加減にせいよ。」

「違いますよ、柴田さん。私、いろんなジャズ聴くんですよ。エリントンだって時々聴くし、たまたま今はピアノ・トリオが多いだけなんですよ。」

 私は「拡散型」である。しかしどうやら柴田さん、私に対して腹にイチモツあり、そういう気配だった。

 いろいろ手を出さずに一人か二人のミュージシャンとその周辺をじっくり攻めろよ。それが正しいジャズ・ファンの生きる道だよ。そう言いたかったのかもしれない。

 よくわかる。私もそういう生き方にあこがれたこともある。カウント・ベイシー一筋、ジョン・コルトレーン一筋でアメリカの田舎まで墓参りに行ってしまう人も知っている。偉いなあ、凄いなあ、と心底思う。俺には出来ないなと、中途半端な自分を情けなく思うこともある。

しかし一方で、彼らの知らない新しいピアノ・トリオに接して「うーん、いいなあ」と彼らの味わえない幸せを味わったりもする。

 まあ、ジャズ・ファンそれぞれ。両者共存。そういう結論なのだが、ちょっと待ってくれ。私にも「この一人」というミュージシャンがいたぞ。

ミッシェル・サルダビーである。エリントンやベイシーに比べ少々の、いや圧倒的な小粒感は否めない。しかし山椒は小粒でもなんとやら。このピアニスト、ぴりっと辛いのである。辛いけど甘い。甘いけど辛い。そのへんの演奏ニュアンスのブレンドぶりが抜群で思わず私、全サルダビー盤を集めてしまった。全部と言っても10枚かそこいら。枚数が少ないから大きな顔が出来ないのがつらい。

そこへゆくとエリントンは何百枚である。おかげで柴田浩一さんは「デューク・エリントン」 という分厚い単行本を書き上げた(2008年、愛育社判)。渾身の一冊だ。

寺島靖国(てらしまやすくに)
1938年東京生まれ。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」のオーナー。
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2009年12月/第71回 チェット・ベイカーの思い出

 チェット・ベイカーのライヴは何度か聴いたが、いちばん強く印象に残っているのは、ニューヨークでのライヴだ。

 1973年のことだったか、52丁目あたりに再開店した“HALF NOTE“にチェット・ベイカーが出演するというニュースを知り、二日間通って聴いた。ニューヨークのクラブにチェットが出演したのは、長いブランクの後なので、毎日満員の盛況だった。ただ本人は毎回くたびれた茶色の同じジャケットを着ていて、あまりお金のある感じではなかった。クラブの席の前5列目あたりまではほとんどが女性客で、女性にもてるチェットは昔から変わりのないことがわかった。

 チェットはおなじみのスタンダードを歌ったが、初日になんと「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」の歌詞を途中で忘れ、頭をかいて、最初から歌い直したのには驚いた。よほど長期にわたってライヴを行っていなかったのだろうか。それでも晩年に来日して行った日本でのライヴよりは若々しく、精気にも溢れていた。

 この“HALF NOTE“にはジャッキー&ロイなども出演し、いいジャズ・クラブの復活だと喜んでいたら、2年後にはストリップ小屋に変わっていて、がっかりしたのを思い出す。

 ところで、昨年だったか、日本でも発売されたチェット・ベイカーの伝記を読むと、あの美人歌手のルース・ヤングがチェットと出会って二人が恋に落ちたのが、この73年の”HALF NOTE“でのライヴだったことを知った。ルース・ヤングという歌手はちょっとファラ・フォーセット似で、大きな映画会社の社長の養女にもなった金持ちの女性で、チェットには相当貢いだのではないかと思う。

 チェットの晩年に作られたドキュメンタリー・フィルム『レット・ゲット・ロスト』を見ると、ルースがコメントでチェットの悪口を言うシーンも見られるが、二人がデュエットで歌う「枯葉」の短いシーンがとても印象に残った。この二人のデュエットによる「枯葉」はCD「JAZZ CAFE/The Essential Classic Jazz Voices」にも収録されていて、好きで時々取り出して聴いているが、季節も秋になったので、先日ミュージックバードの録音に持っていってかけたところ、なかなか好評だった。

 この頃のチェット・ベイカーとルース・ヤングは仲の良い時期だったのか、呼吸もぴったり合っているし、愛の交換がため息風の歌から伝わってきて、そのなまめかしさが素敵なのだ。

 ルース・ヤングはチェットの死後、愛したチェットに捧げたアルバム「This Is Always」を録音し、チェットの愛唱歌を集めて歌っているが、このCDを聴くかぎり、あまりうまい歌手とはいえない。しかしこのチェットとのデュエットの「枯葉」だけは絶妙の出来なのだ。チェットのささやくような歌とルースのセクシーな声がぴったり合っている。

 チェットのボーカルにはいつ聴いても魅せられるが、かねてから彼のソフトで素朴なささやきに近い歌い方はボサノバに影響を与えているに違いないと思っていた。アントニオ・カルロス・ジョビンの伝記を書いたジョビンの妹の本によると、彼女ははっきりとボサノバの歌唱法はチェットの影響を受けているというのを読んで納得した。

 ところで、僕はチェットとルースの出会いとなった“HALF NOTE“に何日も通いつめながら、二人の決定的な出会いの場面を見逃し、写真も撮らなかったというのはなんとうかつで間抜けだったことだろう。チェット・ベイカー亡き今となってはつくづく残念だと思う。

 渋谷の『パルコ劇場』で聴いた晩年のチェットは少しくたびれてはいたが、やはり彼の個性だけは輝いていた。ロビーで会った女優の木の実ナナさんは「私はトランペットより歌の方が好きなのよ」と言っていたが、彼の歌は確かに一級品だった。

岩浪洋三(いわなみようぞう)
1933年愛媛県松山市生まれ。スイング・ジャーナル編集長を経て、1965年よりジャズ評論家に。
現在尚美学園大学、大学院客員教授。